「さきほどお伺いした手術の件ですが、間違いないのですね?」
「それはその通りです」
「今、その犬はどこに?」
「それは・・・家に居ますが」
「どうして?」
「どうしてって・・・」
「手術はされたんでしょう?じゃ、いつ連れに行ったんですか?」
健児は困惑した。たしかに辻褄が合わない話なのだ。しかし、それは事実でもある。だが、この刑事たちに事実を話したとして信じて貰えるだろうか?健児の心は不安に満ちてきた。
そんな戸惑いを他所に刑事は続けた。
「翌日、別の獣医さんに診て貰ってますよね。その方の話によると、驚いたことに腹が裂かれていた。手術の途中としか思えなかった、とのことですが?」
健児は頷かざるを得なかった。それを見て渋谷が煙草を燻らせ「猟奇ですなあ。犬のこととはいえ異常な話だ」と呟いた。まるで健児から何かを引き出そうとでも言うような口振りだった。改めて清水が「どうなんですか?」と言った。詰問する口調が混じってきた。
「私も驚いたんです。あの日、動物病院へ引き取りに行く約束になっていて、次女の茜と行きました。でも、何度インターフォンを鳴らしても誰も出てこられない。入り口の自動ドアが開いてるのに気付いたので、仕方なく中に入ったんです。それで何度も大声で読んだんですがやっぱり反応が無くて。そうこうしているうちに妻から電話があったんです。レイが家に居ると。それもヒドイ怪我をしているって。家に着いて驚きました。レイの腹が大きく裂けている。それは内臓が見えるほどでした。慌てて呼んだ地元の獣医さんは『手術で開いたままだ』といって縫合してくれました。どうやって帰ってきたんだろう?というのは我々家族も獣医も首を傾げるところでした」
健児の説明に清水は「なるほどね」と頷いた。だが渋谷の方は露骨に首を振った。
「黒岩さん。それはとても異様な話ですよ。腹を裂かれたまま、這いずり回ってまでも帰ってくるなんて。だってあの動物病院からお宅までじゃ10キロはある。それを一晩掛けて、ぞれも臓物が出ないように這いずり回って来るなんて。普通、途中で死にますよ」
そして、こうも付け加えた。
「うちの犬なんて一度逃げたら一週間は帰ってきませんよ。そこまでして帰ってくるなんて、何か特別なことがあるとしか思えませんね」
言われて健児も首を傾げた。レイは何故、あんな身体になりながら帰ってきたのだろう?それは死に物狂いだったに違いない。死を覚悟して来るとは、そんな決意がどこから生まれたのか?
「なぜ通報されなかったんです?」
突然、清水が言った。
「黒岩さん、火曜日の新聞はご覧になったでしょ?動物病院の惨殺事件が載った記事です。その動物病院で事件が会ったと思われる日に手術をした筈の飼い犬が、異様な状態で発見されたんですよ。取り合えず通報するのが普通でしょ?」
清水は身を乗り出した。明らかに健児を怪しんでいる様子だった。健児自身、なぜ警察に知らせなかったのか分からなかった。レイのことが事件と無関係とは思えないのだ。だったら知らせるべきだったのだ。
しかし、健児は自分の中に生まれた或る疑惑から警察へ電話するのをやめたのだった。健児は、レイを疑い始めていたのだ。だが、何故レイがそんなことをしたのかを考えると理由が見付からなかった。或いは手術の最中に何かの事故で目を覚ましてしまった可能性がある。そして身の危険を感じたレイが夫妻と助手に襲い掛かった・・・そしてレイは「ころした」と告白したではないか。
渋谷が百円ライターを何度か鳴らした。シュッ、シュッという音が響くだけで火は点かない。まるでわざと火が点かない程度にやっているように見えた。代わりに小さな火花だけが何度も散った。
「火花をね。見た人がいるんですよ。近所の年寄りですが、事件があったと思われる土曜日の午後、動物病院の屋根で雷のような火花が散っていたとね」
渋谷は呟くようにそう言いながら何度もライターを鳴らした。
「心当たりはありませんか?」
「いえ、まったく」
健児の答えに刑事二人は顔を見合わせた。それから明らかに落胆の色を見せると
「お手間を取らせましたね。ありがとうございました」
と立ち上がった。
「もしかしたら改めて伺うことがあるかもしれませんが・・・・」
説明口調で言う清水の隣りで渋谷が手を振った。
「ま、おたくの犬のことをもう少し調べさせて下さい。これからご自宅に伺おうと思います」
「妻を調べるのですか?」
刑事二人は再び顔を見合わせると
「いいえ、犬の方を調べさせて頂きたいのです」
と言った。二人の刑事は、特に渋谷の方は、これまえの態度からは考えられないほど弛緩した顔付きをしていた。最初、彼は明らかに健児を怪しんでいる風だった。しかし、どうやら見込み違いだったらしい。健児は内心、ほっとした。
健児は喫茶店を出ると背広の上着を脱ぎ、埃を払うように揺すった。埃ではなくタバコの煙を払ったのだ。タバコを吸わない健児には、渋谷の吸った煙草の臭いが気になった。
そうしているうち、渋谷がタバコを吸う間中、手で弄んでいた百円ライターの音が耳に蘇った。
『火花に心当たりはありませんか?』
刑事達はそう訊いてきたのだ。近所の老婆が、動物病院の屋根で火花を見たという。健児にはまったく思い当たらない。どころか何がなんだか分からなかった。思い付くとすればただ一つ。レイを斎藤恵子から貰い受けて以来、異様なことが続いている。つまりレイが何らかの形で事件に関わっているらしい、ということだ。
健児はあることに気が付いた。斉藤恵子に訊ねてみることだ。彼女が所属する里親探しのボランティアのホームページにはボランティアが「必ず親元を訪ねます」と書いてあった。つまり斉藤恵子ならレイの親や、生まれた環境を知っているに違いない。
健児は携帯電話を取り出した。もう会社が目の前だった。会社を出てから既に30分以上経っているから、そろそろ帰らないと拙い、と思った。しかし斉藤恵子のことが気になり始め、落ち付かなかった。
電話してちょっとでも話を聞ければそれでいい。また夜にでも掛ける約束を取り付ければいいのだ、と思った。健児はアドレス帳から斉藤恵子の名前を呼び出した。呼び出しボタンを押す、しかしその瞬間、呼び出し音が鳴った。実家からだった。何か胸騒ぎがした。携帯を耳に当てると父の声がした。父は電話の向こうで興奮しながら叫んでいた。
「真由子さんと香が!、真由子さんと香が連れて行かれた」
「誰に?」
「レイだ!」
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「それはその通りです」
「今、その犬はどこに?」
「それは・・・家に居ますが」
「どうして?」
「どうしてって・・・」
「手術はされたんでしょう?じゃ、いつ連れに行ったんですか?」
健児は困惑した。たしかに辻褄が合わない話なのだ。しかし、それは事実でもある。だが、この刑事たちに事実を話したとして信じて貰えるだろうか?健児の心は不安に満ちてきた。
そんな戸惑いを他所に刑事は続けた。
「翌日、別の獣医さんに診て貰ってますよね。その方の話によると、驚いたことに腹が裂かれていた。手術の途中としか思えなかった、とのことですが?」
健児は頷かざるを得なかった。それを見て渋谷が煙草を燻らせ「猟奇ですなあ。犬のこととはいえ異常な話だ」と呟いた。まるで健児から何かを引き出そうとでも言うような口振りだった。改めて清水が「どうなんですか?」と言った。詰問する口調が混じってきた。
「私も驚いたんです。あの日、動物病院へ引き取りに行く約束になっていて、次女の茜と行きました。でも、何度インターフォンを鳴らしても誰も出てこられない。入り口の自動ドアが開いてるのに気付いたので、仕方なく中に入ったんです。それで何度も大声で読んだんですがやっぱり反応が無くて。そうこうしているうちに妻から電話があったんです。レイが家に居ると。それもヒドイ怪我をしているって。家に着いて驚きました。レイの腹が大きく裂けている。それは内臓が見えるほどでした。慌てて呼んだ地元の獣医さんは『手術で開いたままだ』といって縫合してくれました。どうやって帰ってきたんだろう?というのは我々家族も獣医も首を傾げるところでした」
健児の説明に清水は「なるほどね」と頷いた。だが渋谷の方は露骨に首を振った。
「黒岩さん。それはとても異様な話ですよ。腹を裂かれたまま、這いずり回ってまでも帰ってくるなんて。だってあの動物病院からお宅までじゃ10キロはある。それを一晩掛けて、ぞれも臓物が出ないように這いずり回って来るなんて。普通、途中で死にますよ」
そして、こうも付け加えた。
「うちの犬なんて一度逃げたら一週間は帰ってきませんよ。そこまでして帰ってくるなんて、何か特別なことがあるとしか思えませんね」
言われて健児も首を傾げた。レイは何故、あんな身体になりながら帰ってきたのだろう?それは死に物狂いだったに違いない。死を覚悟して来るとは、そんな決意がどこから生まれたのか?
「なぜ通報されなかったんです?」
突然、清水が言った。
「黒岩さん、火曜日の新聞はご覧になったでしょ?動物病院の惨殺事件が載った記事です。その動物病院で事件が会ったと思われる日に手術をした筈の飼い犬が、異様な状態で発見されたんですよ。取り合えず通報するのが普通でしょ?」
清水は身を乗り出した。明らかに健児を怪しんでいる様子だった。健児自身、なぜ警察に知らせなかったのか分からなかった。レイのことが事件と無関係とは思えないのだ。だったら知らせるべきだったのだ。
しかし、健児は自分の中に生まれた或る疑惑から警察へ電話するのをやめたのだった。健児は、レイを疑い始めていたのだ。だが、何故レイがそんなことをしたのかを考えると理由が見付からなかった。或いは手術の最中に何かの事故で目を覚ましてしまった可能性がある。そして身の危険を感じたレイが夫妻と助手に襲い掛かった・・・そしてレイは「ころした」と告白したではないか。
渋谷が百円ライターを何度か鳴らした。シュッ、シュッという音が響くだけで火は点かない。まるでわざと火が点かない程度にやっているように見えた。代わりに小さな火花だけが何度も散った。
「火花をね。見た人がいるんですよ。近所の年寄りですが、事件があったと思われる土曜日の午後、動物病院の屋根で雷のような火花が散っていたとね」
渋谷は呟くようにそう言いながら何度もライターを鳴らした。
「心当たりはありませんか?」
「いえ、まったく」
健児の答えに刑事二人は顔を見合わせた。それから明らかに落胆の色を見せると
「お手間を取らせましたね。ありがとうございました」
と立ち上がった。
「もしかしたら改めて伺うことがあるかもしれませんが・・・・」
説明口調で言う清水の隣りで渋谷が手を振った。
「ま、おたくの犬のことをもう少し調べさせて下さい。これからご自宅に伺おうと思います」
「妻を調べるのですか?」
刑事二人は再び顔を見合わせると
「いいえ、犬の方を調べさせて頂きたいのです」
と言った。二人の刑事は、特に渋谷の方は、これまえの態度からは考えられないほど弛緩した顔付きをしていた。最初、彼は明らかに健児を怪しんでいる風だった。しかし、どうやら見込み違いだったらしい。健児は内心、ほっとした。
健児は喫茶店を出ると背広の上着を脱ぎ、埃を払うように揺すった。埃ではなくタバコの煙を払ったのだ。タバコを吸わない健児には、渋谷の吸った煙草の臭いが気になった。
そうしているうち、渋谷がタバコを吸う間中、手で弄んでいた百円ライターの音が耳に蘇った。
『火花に心当たりはありませんか?』
刑事達はそう訊いてきたのだ。近所の老婆が、動物病院の屋根で火花を見たという。健児にはまったく思い当たらない。どころか何がなんだか分からなかった。思い付くとすればただ一つ。レイを斎藤恵子から貰い受けて以来、異様なことが続いている。つまりレイが何らかの形で事件に関わっているらしい、ということだ。
健児はあることに気が付いた。斉藤恵子に訊ねてみることだ。彼女が所属する里親探しのボランティアのホームページにはボランティアが「必ず親元を訪ねます」と書いてあった。つまり斉藤恵子ならレイの親や、生まれた環境を知っているに違いない。
健児は携帯電話を取り出した。もう会社が目の前だった。会社を出てから既に30分以上経っているから、そろそろ帰らないと拙い、と思った。しかし斉藤恵子のことが気になり始め、落ち付かなかった。
電話してちょっとでも話を聞ければそれでいい。また夜にでも掛ける約束を取り付ければいいのだ、と思った。健児はアドレス帳から斉藤恵子の名前を呼び出した。呼び出しボタンを押す、しかしその瞬間、呼び出し音が鳴った。実家からだった。何か胸騒ぎがした。携帯を耳に当てると父の声がした。父は電話の向こうで興奮しながら叫んでいた。
「真由子さんと香が!、真由子さんと香が連れて行かれた」
「誰に?」
「レイだ!」
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