ちょっとね、思うことがありまして。
最近、「行動分析学」とか「応用行動分析」とかが、割と広まってきているように感じるのですけれども、なんというか、こう、「なんか違う」んです。
「なんか違う」んですよね、なんか。
この「なんか違う」感じは、色々な人のブログなんかを見たり読んだりしたときに感じるんですけれども。
いわゆる「ABC分析」のことも書いてある。
オペラント条件づけがどうとか、レスポンデント条件づけがどうとかも、書いてある。
正の強化とか、負の強化とかも、書いてある。
でも、なんか違う。
で、何が違うんだろうと思って、色々なサイトやブログを見て回ったりしてて、気づいた。
「繰り返し」
これがどうにもない気がすんですよね。
いくつかのブログでは、ABC分析とか、あるいは機能分析とまで書いてあったりするんですけど、なんか「観察して、推察して、当てる」みたいな雰囲気を感じるわけです。
たとえばね、↓のようなことが書いてあったりします。
構ってもらっていない → 吠える → 構ってもらっている
このとき、犬は「構ってもらうこと」を目的に吠えています。
ですから、「無視をする」ことが有効だといえます。
これはいわゆる「要求吠え」ですね。
チャイムが鳴る → 吠える → 叱られる なだめられる 等
これも、実は上の要求吠えと、同じものと考えることができます。
「チャイムが鳴って吠えると、飼い主が何かをしてくれる」ということを学習して、
吠えているんですね。
ですから、これについても「無視をする」ことが有効になる場合があります。
このように、行動には何らかの目的があります。
その「目的」をしっかり把握した上で、対応を考えなければいけません。
注意深く観察することも大事ですが、同時に「犬の意図や気持ち」といったものも、
読み取る必要はあるでしょう。
「なんか違う」っていうのは、こういう文章です。
何がどう違うのかわかります?
「このとき、犬は『構ってもらうこと』を目的に吠えています」
「このように、行動には何らかの目的があります。
その『目的』をしっかり把握した上で、対応を考えなければいけません」
これはね、そうだろうなと思うんですよ。
思うんですけど、その「行動の目的」ってのを、じゃあどうやって把握するのか?ってことです。
「なんのためにやってるのか?」ってのを、どうやって把握するの?と。
この辺のことがわからないまま、ABC分析とかで考えたりすると、なんか変な感じになっちゃうのかなと。
つまり、↑に書いた文章は、実は「ABC分析」になってないんですよ。
ABC分析の形にはなってるけど。
あとほれ、「気持ちを読み取る」とかね。
いや、いいんです。
読み取ってもらっていいんです。
ただ、じゃあ、どうやって読み取るんだろう?って疑問になるわけですよ。
そいでもって、「どうやって読み取るか?」って話になるとですね、途端に「カーミングシグナルから読み取る」とかになる。
つまり、「今、行動をしているこの瞬間、意図を読み取る!」みたいなね。
それは違うんですよぉー。
少なくとも行動分析学はそういうことしないんです。
(そもそも、「カーミングシグナルで読み取る」んならABC分析する必要なくね?って思うんですけどその辺はどうなんだろう)
この辺ちょっと難しくなっちゃうかもしれないんですけど、大事な部分。
行動分析学っていうのは、「行動と環境との関数分析」なんです。
独立変数を操作して、従属変数がどう動くか?というところから、因果に迫るわけなんです。
「関数=function=機能=目的=原因」
こういうことなんです。
だから、「独立変数の操作」をすることなく、「行動の目的や原因を知る」なんてことは、できないんだって立場なんです。
「これが原因なんじゃないかな?」って、予測したり、予想したり、仮説立てたり、推察したりしますよね。
そしたら次に、「推察したら、その後実験して検証する」ってステップが絶対に必要なんです。
これをやってはじめて、「因果に迫れた」とある程度はいえるわけなんです(割と介入とワンセットでやったりするもんだから、わかりにくいのかもしれないんだけれども)。
つまり、それこそ何度も「繰り返し」言ってることですが、「行動と環境とのかかわりを、繰り返し視る」ってことが大事なわけです。
もっかい言っとこう。
「繰り返し、視る」
これはもう、ABC分析とか、随伴性の書き方が悪い。
きっとそうだ。
先行条件 ― 反応 ― 結果
こんな風に、「1回」で書くから、「繰り返し、視る」ってのがいまひとつ伝わらないんだ。
だから、多少面倒でも、↓のように書くべきなんじゃないか。
チャイムが鳴る ― 吠える ― 叱られる
チャイムが鳴る ― 吠える ― 叱られる
チャイムが鳴る ― 吠える ― 叱られる
・
・
・
チャイムが鳴る ― 吠える ― 叱られる
このような行動と環境とのかかわりが、「繰り返し」観察されています。
そこで、飼い主さんにお願いして「叱る」のをやめてもらいましいた。
つまり、このようになりました。
チャイムが鳴る ― 吠える ― 何もなし
チャイムが鳴る ― 吠える ― 何もなし
チャイムが鳴る ― 吠える ― 何もなし
・
・
・
チャイムが鳴る ― 吠える ― 何もなし
すると、何日か経過後に、このような変化が起こりました。
チャイムが鳴る ― 飼い主を見る ― 何もなし
これは、「吠える」という行動が消去され、新たな反応が生起したと考えられます。
このことから、「吠える」という行動は、「叱られる」という結果によって
強化・維持されていた行動であると考えられます。
つまり、チャイムが鳴って吠えていたのは「飼い主さんから注目を浴びるため」だった
ということになります。
このときの気持ちをあえて表現するなら、飼い主さんに構って欲しかったんでしょうね、きっと。
どうだろう。
これなら「繰り返し視る」ってのが多少なりとも伝わるんじゃないだろうか。
今、目の前で起こっている行動を、一発勝負で分析するってもんではないんです。
行動の結果の部分を操作して(実験)、繰り返し観察して(検証)、はじめて「なるほど!」ってなるわけなんです。
そうやって考えると、僕のこのブログも含めて「繰り返し」って視点が欠けてるものは多いなぁと。
それこそ「繰り返し」言ってかなきゃいけないなと思った次第。
「行動分析学とは」とか、「応用行動分析とは」みたいな感じで「専門家」がブログに書くんなら、ここんとこはちゃんと理解した上で書かないとダメだなと。
お願いしますほんと。
最近、「行動分析学」とか「応用行動分析」とかが、割と広まってきているように感じるのですけれども、なんというか、こう、「なんか違う」んです。
「なんか違う」んですよね、なんか。
この「なんか違う」感じは、色々な人のブログなんかを見たり読んだりしたときに感じるんですけれども。
いわゆる「ABC分析」のことも書いてある。
オペラント条件づけがどうとか、レスポンデント条件づけがどうとかも、書いてある。
正の強化とか、負の強化とかも、書いてある。
でも、なんか違う。
で、何が違うんだろうと思って、色々なサイトやブログを見て回ったりしてて、気づいた。
「繰り返し」
これがどうにもない気がすんですよね。
いくつかのブログでは、ABC分析とか、あるいは機能分析とまで書いてあったりするんですけど、なんか「観察して、推察して、当てる」みたいな雰囲気を感じるわけです。
たとえばね、↓のようなことが書いてあったりします。
構ってもらっていない → 吠える → 構ってもらっている
このとき、犬は「構ってもらうこと」を目的に吠えています。
ですから、「無視をする」ことが有効だといえます。
これはいわゆる「要求吠え」ですね。
チャイムが鳴る → 吠える → 叱られる なだめられる 等
これも、実は上の要求吠えと、同じものと考えることができます。
「チャイムが鳴って吠えると、飼い主が何かをしてくれる」ということを学習して、
吠えているんですね。
ですから、これについても「無視をする」ことが有効になる場合があります。
このように、行動には何らかの目的があります。
その「目的」をしっかり把握した上で、対応を考えなければいけません。
注意深く観察することも大事ですが、同時に「犬の意図や気持ち」といったものも、
読み取る必要はあるでしょう。
「なんか違う」っていうのは、こういう文章です。
何がどう違うのかわかります?
「このとき、犬は『構ってもらうこと』を目的に吠えています」
「このように、行動には何らかの目的があります。
その『目的』をしっかり把握した上で、対応を考えなければいけません」
これはね、そうだろうなと思うんですよ。
思うんですけど、その「行動の目的」ってのを、じゃあどうやって把握するのか?ってことです。
「なんのためにやってるのか?」ってのを、どうやって把握するの?と。
この辺のことがわからないまま、ABC分析とかで考えたりすると、なんか変な感じになっちゃうのかなと。
つまり、↑に書いた文章は、実は「ABC分析」になってないんですよ。
ABC分析の形にはなってるけど。
あとほれ、「気持ちを読み取る」とかね。
いや、いいんです。
読み取ってもらっていいんです。
ただ、じゃあ、どうやって読み取るんだろう?って疑問になるわけですよ。
そいでもって、「どうやって読み取るか?」って話になるとですね、途端に「カーミングシグナルから読み取る」とかになる。
つまり、「今、行動をしているこの瞬間、意図を読み取る!」みたいなね。
それは違うんですよぉー。
少なくとも行動分析学はそういうことしないんです。
(そもそも、「カーミングシグナルで読み取る」んならABC分析する必要なくね?って思うんですけどその辺はどうなんだろう)
この辺ちょっと難しくなっちゃうかもしれないんですけど、大事な部分。
行動分析学っていうのは、「行動と環境との関数分析」なんです。
独立変数を操作して、従属変数がどう動くか?というところから、因果に迫るわけなんです。
「関数=function=機能=目的=原因」
こういうことなんです。
だから、「独立変数の操作」をすることなく、「行動の目的や原因を知る」なんてことは、できないんだって立場なんです。
「これが原因なんじゃないかな?」って、予測したり、予想したり、仮説立てたり、推察したりしますよね。
そしたら次に、「推察したら、その後実験して検証する」ってステップが絶対に必要なんです。
これをやってはじめて、「因果に迫れた」とある程度はいえるわけなんです(割と介入とワンセットでやったりするもんだから、わかりにくいのかもしれないんだけれども)。
つまり、それこそ何度も「繰り返し」言ってることですが、「行動と環境とのかかわりを、繰り返し視る」ってことが大事なわけです。
もっかい言っとこう。
「繰り返し、視る」
これはもう、ABC分析とか、随伴性の書き方が悪い。
きっとそうだ。
先行条件 ― 反応 ― 結果
こんな風に、「1回」で書くから、「繰り返し、視る」ってのがいまひとつ伝わらないんだ。
だから、多少面倒でも、↓のように書くべきなんじゃないか。
チャイムが鳴る ― 吠える ― 叱られる
チャイムが鳴る ― 吠える ― 叱られる
チャイムが鳴る ― 吠える ― 叱られる
・
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チャイムが鳴る ― 吠える ― 叱られる
このような行動と環境とのかかわりが、「繰り返し」観察されています。
そこで、飼い主さんにお願いして「叱る」のをやめてもらいましいた。
つまり、このようになりました。
チャイムが鳴る ― 吠える ― 何もなし
チャイムが鳴る ― 吠える ― 何もなし
チャイムが鳴る ― 吠える ― 何もなし
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チャイムが鳴る ― 吠える ― 何もなし
すると、何日か経過後に、このような変化が起こりました。
チャイムが鳴る ― 飼い主を見る ― 何もなし
これは、「吠える」という行動が消去され、新たな反応が生起したと考えられます。
このことから、「吠える」という行動は、「叱られる」という結果によって
強化・維持されていた行動であると考えられます。
つまり、チャイムが鳴って吠えていたのは「飼い主さんから注目を浴びるため」だった
ということになります。
このときの気持ちをあえて表現するなら、飼い主さんに構って欲しかったんでしょうね、きっと。
どうだろう。
これなら「繰り返し視る」ってのが多少なりとも伝わるんじゃないだろうか。
今、目の前で起こっている行動を、一発勝負で分析するってもんではないんです。
行動の結果の部分を操作して(実験)、繰り返し観察して(検証)、はじめて「なるほど!」ってなるわけなんです。
そうやって考えると、僕のこのブログも含めて「繰り返し」って視点が欠けてるものは多いなぁと。
それこそ「繰り返し」言ってかなきゃいけないなと思った次第。
「行動分析学とは」とか、「応用行動分析とは」みたいな感じで「専門家」がブログに書くんなら、ここんとこはちゃんと理解した上で書かないとダメだなと。
お願いしますほんと。