前回のエントリ では、「犬を褒める」ということについて、なんやかんやと書きました。

このエントリでは、「コマンド」について。

「コマンド」というのは、「犬にある行動をさせたいときに出す指示、命令、号令」のことをいいます。
声によるコマンド(「スワレ」「フセ」「マテ」など)や、身振り手振り(手を挙げる、手を下げる、掌を犬に向けるなど)があります。

さて、このコマンドについても、「しっかりとコマンドを出す」ということがわかりにくいという方が、「きちんと褒める」と同様、一定数いらっしゃるように思います。
「しっかりとコマンドを出す」とは、これまたどういうことなんでしょうか?

人によっては、「毅然とした態度で」とか、「低い声で、はっきりとした口調で」とか、色々言われたりしますね。
また、「犬にその行動をさせたいと思う、少し前に出す」という、いわゆる「タイミング」のことが言われたりもします。
あるいは、「コマンドを出すときに、食べ物やオモチャを使っている(いわゆるルアー、誘導)と、食べ物やオモチャがないと指示に従わなくなる」ということを、問題にする人もいます。

勘のよい方は、もうおわかりかと思います。
この「コマンド」についても、「褒める」と同様、「やる前に正しさは決まらない」という話になります。

このブログの読者や、僕のセミナーの受講者の方にはおなじみだと思いますが、以下の流れを見てください。


 きっかけ → 行動 → 結果


これは、行動の一連の流れを書いたものです。
「あるきっかけ」のもと、「ある行動」が起こり、その後に「ある結果」が生まれるということを示したものです。

 スワレと言われる→座る→褒められる
 フセと言われる→伏せる→褒められる
 オイデと言われる→飼い主の側に行く→褒められる

こういう感じですね。

そしてこの、「きっかけ」の部分を、専門的には「弁別刺激」といいます。
この「弁別刺激」が、弁別刺激として機能するためには、「弁別学習」というものを経験する必要があります。
なんてことをいっても、わかりにくいですね。
例を出して解説します。

たとえば、あなたが「フセ」というコマンドで、「地面に伏せる」という行動を犬にさせたいと考えたとしましょう。
しかし、何も教えていない犬に対して、いきなり「フセ」と言ってみたところで、犬は何もしてくれません。
「フセ」と言ってるのに、ただ座ることを繰り返したり、こちらに飛びついてきたりするかもしれません。
これでは、一向に「フセと言われたら、地面に伏せる」ということを覚えてもらうことはできませんね。
そこであなたは、何とかして「フセの姿勢」を取らせます。
やり方はいくつかあるでしょう。
今は、「フセの姿勢の取らせ方」は問題にしていませんので、とにかくなんとかして「フセの姿勢を取らせた」ということにします。

 「フセ」と言う→フセの姿勢を取らせる→地面に伏せる

犬が、「地面に伏せる」という行動をしてくれました。
さて、次にやることはなんでしょうか?
そう、「褒める」ですね。
犬が正解の行動をしたわけですから、当然褒める必要があります。

 「フセ」と言う→フセの姿勢を取らせる→地面に伏せる→褒める

ところが、たった一回で覚えてくれればいいんですが、なかなかそうはいきません。
さっきまでと同じように、座ったり、飛びついてきたりします。

 「フセ」と言う→座る or 飛びつく

こういう場合は、どうしますか?
もっといえば、褒めますか?褒めませんか?
もちろん「褒めない」ですよね。
こちらは「地面に伏せる」という行動をして欲しいわけです。
それなのに、「座る」とか「飛びつく」という行動をしているわけですから、当然褒めません。

そして、これらの「フセと言う→地面に伏せる→褒める」「フセと言う→座る or 飛びつく→褒めない」といったことを何度も繰り返すうちに、段々と「フセと言ったら、伏せる」という成功率が上がってきます
こういった経験を繰り返して、はじめて「フセ=地面に伏せるコマンド」ということを、犬が覚えてくれます

先ほどの専門用語で書かれた文章に、この例を合わせてみましょう。

> そしてこの、「きっかけ」の部分を、専門的には「弁別刺激」といいます。
> この「弁別刺激」が、弁別刺激として機能するためには、「弁別学習」というものを経験する必要があります。

弁別刺激というのは、この例では「フセ」という言葉になります。
しかし、最初のうちは、まるで役に立ちません(弁別刺激として機能しない)。
「座る」とか、「飛びつく」といった関係ない行動も繰り返されたりします。
そこで、「フセ」と言ったときに「地面に伏せる」という行動をしたら褒めて(強化)、違う行動(座る、飛びつく)をしたときは褒めない(消去)ということを、繰り返します。
この「褒める/褒めない」の繰り返しの経験が、「弁別学習」になります。
「褒める/褒めない」の経験を繰り返すことで、「フセ」という言葉は「地面に伏せる」という行動の「きっかけ=弁別刺激=コマンド」になっていきます。

さてさて、ここで大事なポイントはなんでしょうか?
おわかりでしょうか?
それは、「褒める/褒めないの繰り返し」です。

もしも仮に、「フセ」と言ったときに、「地面に伏せる」も「座る」も「飛びつく」も、全部「褒めて」しまったとしたら、どうなるでしょう?
当然、犬は「地面に伏せる」「座る」「飛びつく」という3つの行動を、ランダムに繰り返しますね。
それでは、意味がありません。
こちらとしては、「フセと言ったら、地面に伏せる」を教えたいわけですから。
ですから、ここで大事なのは「フセと言う→地面に伏せる→褒める」「フセと言う→座る or 飛びつく→褒めない」という、この2つの流れなわけです。

ところで、↑に「褒める/褒めない」の経験を繰り返すことで、「フセ」という言葉は「地面に伏せる」という行動の「きっかけ=弁別刺激=コマンド」になっていきます…と書きました。
「なっていきます」です。
つまり、まだ「確定」ではありません。

「フセ」という言葉が、「地面に伏せる」という行動のコマンド(弁別刺激)として「成立した」と言うためには、ちゃんと確認する必要があります。
では、その確認はどのように行うんでしょうか?
そう、「フセと言ったときの、犬の反応」で確認します
「もう十分に教えた」とこっちが思っていたとしても、犬が「フセと言う→飛びつく」なんて行動をしているとしたら、この「フセという言葉」が、コマンドとして成立したとは言えませんね。
「フセと言われたら地面に伏せ、座ったり、飛びついたりしない」ということを確認してはじめて、「フセというコマンドが成立した」といえるわけです。

そしてこれこそが、「しっかりとしたコマンド」の正体です。

前回のエントリの「きちんと褒めるとはどういうことか」では、「やって欲しい、正しい、適切な行動が増える」ことを確認してはじめて、「きちんと褒めた」ことになると書きました。
「しっかりとしたコマンド」もまた、「コマンドを出したときに、やって欲しい、正しい、適切な行動をするようになり、それ以外の行動をしない」ことを確認してはじめて、「しっかりとしたコマンド」が成立したといえるわけです。

「何を当たり前のことを」という声が聞こえてきそうです。
そうなんです。
ここまで長々と書いてきましたが、ごくごく当たり前のことなんです。
ところが、この「当たり前のこと」が、どうにもぼやけている方が多いんですね。

たとえばあなたは、こんな意見を目や耳にしたことはありませんか?

「犬がコマンドに従わないのは、飼い主の気合い(気迫、愛情)が足りないから」
「コマンドを出すときは、『絶対に従わせるんだ』という決意が必要」
「信頼関係(主従関係)ができていないと、コマンドを出しても犬は従わない」
「ほら見てごらん。飼い主のことを舐めきってるやろ?だから従わへんねん」
「犬に緊張感がない。この緊張感がないのは、飼い主の気迫が足らんから。だからでけへんねん」

こういうことを、トレーナーから言われたという飼い主さんは少なくありません。
一見すると、なんとなく納得してしまいそうですが、さてどうでしょう?
これまでに書いた「コマンドが成立する過程」と照らし合わせてみたとき、飼い主さんの気合いだとか、愛情だとか、決意だとか、ほにゃらら関係だとかは、関係あるでしょうか?
ない…ですよね?

「いや、絶対にある!」という人もいるかもしれません。
そういう人には、たとえばこんな例をば。

「家の玄関から出る際」に、犬が道路に飛び出してしまうととても危険です。
そこで僕は、必ず「ドアの前で座らせて、道路の安全を確認してから外に出る」ということをやっていただきます。
犬の命を守るのも、しつけの目的のひとつですから。
しかし、この「ドアの前で座って待つ」ということを教えるときに、コマンドは一切出しません。
やることは、とっても簡単です。

 座る→ドアが開いて外に出られる

 立ってる、動いてる→ドアが開かない

つまり飼い主さんは、「犬が座っていたらドアを開け、動いていたり、立っている間はドアを開けない」ということを、淡々と繰り返すだけです。
するとどうなるか?
犬は、ドアの前に来ると自動的に座って待つようになります。

僕の見る限り、飼い主さんが「気合いを入れてドアを開け閉めしている」ようには見えません。
また、「開け閉めされているドアが、随分と気合いが入っていて、気迫に溢れている」ようにも見えません。
ドアはドアですし、飼い主さんは淡々としてらっしゃいます。

いや、ひょっとしたら、心の中では「おっしゃー!閉めたんぞおらー!開けたるでこらー!」みたいに思ってる可能性もありますね。
心の中までは見えませんから。
ドアだって、実は「おれめっちゃ閉められるし!そして開くし!また閉められるし!」って、相当気合いが入ってるかもしれません。
残念ながら、「ドアの気持ち」はまったくわからないです。

ま、冗談はさておき。

私たち人間の行動だって、同じなんですよ。
赤信号では止まりますよね?
青信号では進みますよね?
それに我々は「従って」ますよね?
あの信号は、毎回「気合い」や「愛情」をしっかりと込めてるんでしょうか?
あるいは、私たちは「信号が偉いから、それに従っている」のでしょうか?
違いますよね。

話がちょっと広がってしまいました。

このエントリで言いたいことは、「しっかりとしたコマンド」もまた、「やってみてからでないと、わからない」ということです。
そしてその「やってみる」には、「褒める/褒められない」という繰り返しの経験が、とても大事だということです。
つまり、丁寧に、丁寧に、「褒める/褒めない」ということを繰り返しやっていった果てに、「しっかりとしたコマンド」というものが成立するわけです。


「コマンドは 丁寧じゃないと 困るど」

困るど…こまるど…コマルド…コマンド…

あーなるほど!

おあとがよろしいようで。

はいそこ、「全然おもんないぞ」とか言わない。
この「はいそこ~のくだりもう飽きた」とかも言わない。


「リーダー論について」は、明日アップできそうです(でも、予定は未定)。