関戸古戦場・鎌倉軍横溝八郎・安保入道憤死(東京都多摩市)
1333年5月16日の分倍河原の合戦に敗れ、鎌倉街道を敗走する鎌倉軍を新田軍が追撃します。横溝八郎や安保入道父子らの忠臣が分倍河原の対岸、関戸の地に踏みとどまり捨て身の防衛戦をはっている間に、大将北条泰家は辛くも鎌倉に逃げ戻ることができました。完全に多摩川の防御線を突破した新田軍はそのまま鎌倉まで雪崩れ込みます。
1663年に建てられた地蔵堂の角に関戸古戦場跡の標柱が建っています。
その標柱を目印に旧鎌倉街道から山側にはいると、民家の庭先に「武将塚」と呼ばれる古墳が残されています。鎌倉軍の殿をつとめた横溝八郎の墓と伝えられるものです。居住者の方がご在宅でしたので、断りをしてお参りをさせていただきました。
近くには安保入道父子の墓もありますが、これも民家の中で非常にわかりにくいです。
また、鎌倉軍、新田軍の戦死者がねむる無縁仏(無名戦士の墓)が残っています。
現在でも古戦場に近い観音寺では毎月16日に戦いで亡くなった兵士のために供養を行っている。
この関戸の戦いから6日後の1333年5月22日、鎌倉幕府は滅亡しました。
※横溝八郎、安保入道父子の墓は、民家のために地図は失礼します。
新田義貞
峰岸 純夫
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