自分は今年度の吉岡文庫育英会奨学生に選定され、今日はそのレクチャーとして平田晃久のレクチャーを聞いていた。

全体として先日出版された「animated」という本の内容に則したプレゼンテーションだった。

まだ平田さんとしても模索段階であるが、10のキーワードを元に、今まで考えてきたこと、そしてこれからどういった方向に向いていくかについて説明していた。


まず感じたことは自分は東工大特有のいわゆる社会的な姿勢の中に閉じこもっていたことを実感した。それはみんなの共有意識によってある意味の議論のし易さというか、居心地の良さみたいなものがあったからのような気がする。


最近、卒業制作展をはじめとして外部の人間と話す機会がかなり増えてきたが、そういった中で東工大の社会的な姿勢の意義があまりに局所的であったかを実感する。


今までは、周辺や歴史的なコンテクスト、要するに建築を外から決定していく要素にある意味で絶対的な信頼を寄せていたように思う。しかし、実際そうした社会性も結局は自分のフィルターにかけられて取捨選択されているという意味では虚構なのかもしれない。そうした社会性さえも結局は自分の作るものを説明する一つの表現要素であるのではないだろうか。


そして社会性といえば昨今の卒業設計などで議論されているような社会性と私性の議論について、それが簡単に似項対立的に語られているが、例えば安藤忠雄のように私性によって建築を作ってもあるレベルを超えた時に、そこには社会に対する影響力が生まれている。そうした意味では仮に私性によって建築を作ってもそれが様々な議論を引き起こすこと、話題になることによって、それは社会に影響を与えていて、それがつまり社会性を得ているのではないだろうか。そして、いくら優等生的にデータなどによって社会に対してある意味正当性を持っているようでも、それは結局その枠組みの中でしか議論ができず、新しさというものが生まれずらいし、議論も起こりにくいのではないか。


そうした議論が今日はあって、そういったものと自分の持つ東工大的な思考の距離を測って相対化していくことで自分の表現を位置づけられるのかもしれない。

昨日は建築関係者のサッカー大会ACUPに行ってきた。


天気も丁度良くてピッチコンディションは良かった。ただ前日のイベントのせいもあって

睡眠時間が3時間ほどで2時間以上の運転の後だったためになかなか体がうまく動かない。

結局我がチームは一回戦敗退...残念。


自分は今年で三回目の参加だが、例年ここには本や雑誌で見たことある人が沢山いる。

すごくミーハーだけど、それだけ建築関係者にはサッカー経験者もしくはサッカー愛好家が

たくさんいるのだ。自分も部活でサッカーやってたおかげでこうやって参加してるわけだが

サッカーは野球と比べてかなりチームの連携が要求されるスポーツである。つまりチーム

全体の流れを把握し、その中での自分の立ち位置を把握しなければならない。常に敵とも

味方とも自分を相対化していなければならないのである。


空いたスペースをどう使い、隙間を縫うようにパスを通したり、ドリブルで突破していく。

戦略、技術、ルール何を取っても建築に置き換えられるような気がする。

そうした建築関係者が集まって生まれるこの大会は我がチームキャプテン塚本由晴が

言っていたようにまさに「奇跡のパブリックスペース」である。


今日は今年の2月に製作した卒業設計の展覧会に絡めて同期の出展者とともにイベントを開催した。

イベントは事前に坂本一成氏、金箱温春氏、高橋晶子氏、大成優子氏、吉村英孝氏、藤村龍至氏にインタビューをし、出展者の4000字論考を合わせて作ったフリーペーパーの延長として、各インタビュイーの方々を招いて、各出展者の作品紹介の後「建築の可能性」という大きなテーマの下、卒業設計から今について世代の差を交えながらディスカッションをするというもの。


全体の議論の流れとしては、まず大成氏から「最近の卒業設計の図面や模型では家具がすべて同じでヒューマンスケールにおいて空間に対する自分の表現が希薄」という指摘があり、そういったレベルまで案を先鋭化させているものがないのではないかということから議論が始まる。


それはもちろん正しい指摘で、当然建築空間を扱う場合に、そこに置かれる家具というものはかなり重要な要素であって、空間の質を考えていく時に避けて通れるはずはない。しかしこうした指摘を受けるのは、結局のところ現代のとりわけ東工大の自分たち学生が興味を持っている部分が、そうしたスケールではなく、もっとその建築全体を決定しうるようなスケールの話であって、そこから優先順位的に作業をしていくことで、最後の小さなスケールの部分には力が届かないのではないかと思う。少なくとも卒業設計ではそういう共通する思考の順序があるのではないかと思う。


特に東工大ではあらゆることに説明が求められてきたように思う。自分は他大を知らないがエスキスのスタイルとして、例えばまずイメージのスケッチを出して「こういう空間を作りたいです」というものではなく「ここの敷地にはこういうコンテクストがあって、そこからこういう形にします」という風にあらゆる判断基準をいちいち説明する。


こうした状況をまだ塚本研に属している吉村氏が指摘し「結局最近の卒業設計は作り方の説明が主題になっていて、その空間の良さに関する説明がない」と仰っていた。まさしくその通りで反論の余地はない。そこに坂本氏も「できたものが良ければプロセスなんて何でもいい」と共鳴する。


しかし我々が雑誌やレクチャーで建築家から得るものはほとんどがプロセスの説明で、今まではある意味そのプロセスの中に正当性があって、それはとても一般的というか絶対的というか客観的というか、そういうものとしてあって、結果としての建築をどう表現するかが作家性みたいなものだと思っていた部分があった。


しかし、今日の議論で結局プロセスの中での選択、判断の基準になるものが自分らしさであることに気づいた。今までその判断基準であった社会性みたいなものは、結局自分のフィルターがかかっているもので、そこに今まで思っていたような客観性はなく、そうした社会性みたいなものさえもいかにして自分のやりたい事に対して上手く使っていくのかという戦略が必要なのだと認識した。


そうした時に例えば建築家が自分の作家性を用いて何か新しい建築を作る人間だとすれば、藤村龍至氏が仰っている超線形プロセスのような方法論が提示された時に、それは建築を設計する人間にとってどういった意味を持つのか悩ましい限りである。


東京工業大学の卒業設計展は、7月18日まで篠原一男設計の百年記念館で開催していて、会期中はフリーペーパーももらえるので、興味をもった方はぜひ足を運んでみるべし。