自分は今年度の吉岡文庫育英会奨学生に選定され、今日はそのレクチャーとして平田晃久のレクチャーを聞いていた。
全体として先日出版された「animated」という本の内容に則したプレゼンテーションだった。
まだ平田さんとしても模索段階であるが、10のキーワードを元に、今まで考えてきたこと、そしてこれからどういった方向に向いていくかについて説明していた。
まず感じたことは自分は東工大特有のいわゆる社会的な姿勢の中に閉じこもっていたことを実感した。それはみんなの共有意識によってある意味の議論のし易さというか、居心地の良さみたいなものがあったからのような気がする。
最近、卒業制作展をはじめとして外部の人間と話す機会がかなり増えてきたが、そういった中で東工大の社会的な姿勢の意義があまりに局所的であったかを実感する。
今までは、周辺や歴史的なコンテクスト、要するに建築を外から決定していく要素にある意味で絶対的な信頼を寄せていたように思う。しかし、実際そうした社会性も結局は自分のフィルターにかけられて取捨選択されているという意味では虚構なのかもしれない。そうした社会性さえも結局は自分の作るものを説明する一つの表現要素であるのではないだろうか。
そして社会性といえば昨今の卒業設計などで議論されているような社会性と私性の議論について、それが簡単に似項対立的に語られているが、例えば安藤忠雄のように私性によって建築を作ってもあるレベルを超えた時に、そこには社会に対する影響力が生まれている。そうした意味では仮に私性によって建築を作ってもそれが様々な議論を引き起こすこと、話題になることによって、それは社会に影響を与えていて、それがつまり社会性を得ているのではないだろうか。そして、いくら優等生的にデータなどによって社会に対してある意味正当性を持っているようでも、それは結局その枠組みの中でしか議論ができず、新しさというものが生まれずらいし、議論も起こりにくいのではないか。
そうした議論が今日はあって、そういったものと自分の持つ東工大的な思考の距離を測って相対化していくことで自分の表現を位置づけられるのかもしれない。