とりあえずブログをはじめました。
前2つの記事は、とりあえず どんなブログか? をお伝えするために、まぁ、過去のコラムを転載いたしましたが。
実質的には、この記事がスタートですね。
基本的にはIT技術者として活動しておりますので、どのような内容のブログにしていくか、まだしばらくは迷走することになりそうですが、誰かしらの「共感」を得ることができれば嬉しく思います。
もともと春から個人事業主としてスタートするつもりでいたのですが、その直前に興味深い会社と巡り合うことになり…
現在は「半分社員」の状態です。
「興味深い会社」というのがどのようなことか、明言はいたしません。
喩え話ならば問題ないかな…。
3000m級の山の上に缶ビールを運ぶ仕事
自分としては、そんなノリです。
そのおかげで、おそらく今後のわたくしの人生でカギとなるであろう人物と複数出会えました。
無難で楽な仕事だけを選んでいたら、こうはならないだろう と思えます。
なので、もし、その登山道で怪我をして仕事にならなくなったとしても、決して後悔はしません。 自分の足で山を登らなければ見えてこないことはたくさんあるものです。
ただ、その缶ビール運び屋さんを永久的に続けるわけにもいきません。 なんらかのタイミングで、この視点を別の何かに活かすことが重要なのです。
いずれは当初の予定の通り、個人事業主を経由して何らかの経営を始めることになるかと思います。
あとになって過去日記を書くことはできませんので、今、このような形でブログをはじめておきたいな というわけで、、、
あまり読む価値はなさそうなのですが(笑) よろしくお願いいたします。
さてさて、本題になりますが。
ブログの題名のとおり、基本的にわたくしは 外見 も 発言 も 行動 も、すべてバカ丸出しです。
けれども、ひょんなきっかけで学歴とか聞かれ答えると、「あの最高学府のあの大学!?しかも大学院!?」と。
「能ある鷹は爪を隠すんだねー」
とまで言う人もいますが、いやいやちょっと…
それ、誉めてないですから。 「バカそうなのに」って言葉が隠れてますから(笑)
それはともかく。
そういう学歴は、改ざんするわけにもいきません。
本人的には、わざわざ知らせるほどでもないよなぁ… って思ってるものなのです。
更に考えつめるならば、「能力の高い人」なんてのはこの世に存在しない ことになります。
言い方を変えるならば、主観的な判断を客観的な数値で示すことに意味がないわけです。
や、それはともかく。本当に本題に入りますが。
能ある鷹は本当に爪を隠すのか?? 考える機会が多くあります。
(もちろん、生物学的な視点ではありません)
一般的には謙虚さを表す言葉として使われますが、本質的には違うだろうと。
実際には、
「爪を隠しておくのが得策だからそうしている。アピールしても面倒いことが増えるだけ」
ってことじゃないかと思います。
例えば、このブログの記事だって、
「へ~ 良い大学出てるんだぁ? すごいねー(棒読)」
ってなるわけで、そのことばかりに視点が移動してしまいます。
書いてる本人的には別のことを主題にしたいにも関わらず。
おそらく、これは本能的に「相手が能力的に上か?下か?」という思考回路を人間が持ち合わせているからではないかと思います。
動物が生きるためには、知らない相手に遭遇したら、まず「敵か?味方か?」を判断するのと同じですね。
爪を隠していなければ、その「味方」には本来見せるべき部分を見せれなくなるんですね。
「敵」には警戒させることになり、分が悪くなる。
なので、必然的に爪を隠すことになるわけです。
謙虚さとはあまり関係がなかったりしそうですね。
能力者は、必然的に爪を隠します。
こうなると、同じ能力を持つ者同士が相手を真剣に探すことになります。
名刺や肩書はあてにならないので、相手の本質を知ろうとするわけです。
強いて言うならば、必然的に相手の本質を知ろう とする部分が「謙虚」として映るかもしれないですね。
本質を知ろうとする者同士が引き寄せられることになります。
なので、学歴のようなわかりやすい指標に飛びつかれると
「あ~ 本質はどうでもいいのかぁ」
となり、ちょっと残念な感じがしてしまうんですね。
ちなみに、、、
わたしは実際に能力が高いわけではありません(笑)
や、能力が高い人としての立場で書いておかないと、記事として成り立たないもので(汗)
そんなこんなで、自己紹介的な記事にしておきました。
フツカ者ですが、よろしくお願いいたします。
かれこれ3年前の記事になりますが、某所でITに関するコラムを書いたことがあったので抜粋しておきます。
当時はiPadが登場して、ちょっと興奮しちゃいましたね
ん~ 3年も経つとIT機器はすぐ骨董品になっちゃうもんなぁ…
------------------------
iPadと環境問題の意外な接点? 2010/07/01
5月28日に日本でもiPadが発売されました。
これをお読みの方の中には、もう既に手にした方もいらっしゃるかも知れませんね。
iPadというと、電子書籍がなにかと話題になっていますが、実際どうでしょうね……? 私個人的には、電子書籍のためにiPadを購入するつもりはないけれども、ちょっと気になる書籍を気軽にダウンロードして読む機会は増えるのかな?といった印象です。
ですが、「活字離れ」がケータイ小説や電子書籍で解決されつつあると思うと、「書籍は娯楽である」という概念が戻りつつあり、興味深い現象に思えます。
私自身、活字中毒という程でもありませんが、電車の中で小説を読む機会は多い方かも知れません。
先日は村上春樹さんの「ダンス・ダンス・ダンス」を読み返しました。 最初に読んだのは10年近く前ですが、私自身の変化なのか時代の変化なのか、印象に残るフレーズも違ってくるものですね。
読み返してみて、こんな言葉が印象的でした。
「それで僕は無駄というものは、高度資本主義社会における最大の美徳なのだと彼に教えてやった」
バブル崩壊前は、無駄なものをたくさん作り、それをたくさん消費する、それこそが人類の文明の発展に繋がるし、経済の面でも豊かな生活に直結する……
そんな時代があったんですよね。
けれども、バブルは崩壊し、それとほぼ同時に人々は環境問題に気づくことになります。 ここで深刻な問題が発生します。
環境問題への取り組みは、不況を悪化させる!?
つまり、高度成長期というものは極端な話「環境を破壊しまくって得た好景気」なわけで、同じモデルで景気回復を成し遂げるわけにはいかない ということになります。
環境に優しく無駄を省けば省くほど不況に拍車をかけるのだから、この2つの問題を両立することはかなりの難問ですね。
さて、そんな世の中に登場したiPadですが、個人的には、実は環境問題と景気回復の1つの鍵になっているのではないか?と考えています。
仮想空間がパソコン以上に人々に浸透しやすく、なおかつそこで発生する「生産的無駄」は環境にはほとんど影響しません。(もちろんCO2排出などはありますが、同じことを物理的に実現したら、それ以上の資源を使用することになります)
この仮想空間は、まだまだ私たちには不慣れなものであり、優れたユーザーインターフェイスもおもちゃの領域に留まっているのが現状ではありますが、iPad以外にも同様の端末が普及してきた頃にどのような世界が繰り広げられているのか?
不況の今だからこそ楽しみな話題ですよね。
当時はiPadが登場して、ちょっと興奮しちゃいましたね
ん~ 3年も経つとIT機器はすぐ骨董品になっちゃうもんなぁ…
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iPadと環境問題の意外な接点? 2010/07/01
5月28日に日本でもiPadが発売されました。
これをお読みの方の中には、もう既に手にした方もいらっしゃるかも知れませんね。
iPadというと、電子書籍がなにかと話題になっていますが、実際どうでしょうね……? 私個人的には、電子書籍のためにiPadを購入するつもりはないけれども、ちょっと気になる書籍を気軽にダウンロードして読む機会は増えるのかな?といった印象です。
ですが、「活字離れ」がケータイ小説や電子書籍で解決されつつあると思うと、「書籍は娯楽である」という概念が戻りつつあり、興味深い現象に思えます。
私自身、活字中毒という程でもありませんが、電車の中で小説を読む機会は多い方かも知れません。
先日は村上春樹さんの「ダンス・ダンス・ダンス」を読み返しました。 最初に読んだのは10年近く前ですが、私自身の変化なのか時代の変化なのか、印象に残るフレーズも違ってくるものですね。
読み返してみて、こんな言葉が印象的でした。
「それで僕は無駄というものは、高度資本主義社会における最大の美徳なのだと彼に教えてやった」
バブル崩壊前は、無駄なものをたくさん作り、それをたくさん消費する、それこそが人類の文明の発展に繋がるし、経済の面でも豊かな生活に直結する……
そんな時代があったんですよね。
けれども、バブルは崩壊し、それとほぼ同時に人々は環境問題に気づくことになります。 ここで深刻な問題が発生します。
環境問題への取り組みは、不況を悪化させる!?
つまり、高度成長期というものは極端な話「環境を破壊しまくって得た好景気」なわけで、同じモデルで景気回復を成し遂げるわけにはいかない ということになります。
環境に優しく無駄を省けば省くほど不況に拍車をかけるのだから、この2つの問題を両立することはかなりの難問ですね。
さて、そんな世の中に登場したiPadですが、個人的には、実は環境問題と景気回復の1つの鍵になっているのではないか?と考えています。
仮想空間がパソコン以上に人々に浸透しやすく、なおかつそこで発生する「生産的無駄」は環境にはほとんど影響しません。(もちろんCO2排出などはありますが、同じことを物理的に実現したら、それ以上の資源を使用することになります)
この仮想空間は、まだまだ私たちには不慣れなものであり、優れたユーザーインターフェイスもおもちゃの領域に留まっているのが現状ではありますが、iPad以外にも同様の端末が普及してきた頃にどのような世界が繰り広げられているのか?
不況の今だからこそ楽しみな話題ですよね。
かれこれ3年前の記事になりますが、某所でITに関するコラムを書いたことがあったので抜粋しておきます。
なるべく時事ネタ~ということで書いたのですが、今となってはかなり遠い記憶ですね
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「最後は勘」 2010/09/01
ちょっと古い話になりますが、サッカーW杯。一躍ヒーローとなった岡田監督は帰国後に橋下大阪府知事と対談し、トップの心得を訊かれたときに次のように締めくくったそうです。
「トップは答えが分からないままにやる。理屈で考え抜いても最後は勘」
ラジオのニュースで聞いたコメントなので、オチに使ったのかホンキだったのかは不明です。 ただ、後々調べてみると、2009年にも選手起用に関して同様のコメントをしていたようで、岡田監督のポリシーの一角であるようですね。
これを知ると「岡田監督の采配は偶然だったのか…」なんてがっかりする人も多いかと思います。実際、ブログやコミュニティでの批判も多少あったようです。
「勘」を嫌う人は多いかと思います。
確かに、たとえば職場などで、上司が「そういう結論になったのはどうして?」と訊ねてるのに対して「勘です」なんて答えてる部下がいたら周囲はドン退きしそうです。
ですが、「勘です」という返答がタブーであるのは「具体的な根拠を知りたい」という要求に反してるだけであって、 実際に勘で意思決定をすること自体は問題がないものの、その返答を反射的に嫌う癖がついているだけではないでしょうか。
勘自体を反射的に忌み嫌うのだとしたら、それは周囲からのなにげないアイディアを多く取りこぼしているようにも思えます。このことは、実際にソフトウェアあたりで実現してみようとすれば実感できるかと思います。
タクシードライバーが国道を走っていて、「今日は旧道の方が混んでないはずだ」と判断するとします。 この思考をコンピューターで再現するとしたら、かなり大がかりな作業になるはずです。
データベースには日常の様々な事象を入力しておく必要があります。 時刻・車の混み具合・天候・周囲でのイベントの有無・道幅に対する歩行者の数のようなデータを場面毎に保管し、容量にも限界があるので適度な圧縮や抽象化したデータも用意する必要もありそうです。 この混沌としたデータベースから現在の状況にマッチした検索を行い、精度は犠牲にしながらも、ちょうど似た状況のデータをピックアップ あるいは 各要素の重要性を加味しつつ抽出データの傾向を分析します。
こうしてやっと 国道を選ぶか? 旧道を選ぶか? の判断が可能になるわけです。
もし、そのドライバーが客に「なんでこっちの旧道を選ぶの!?」と訊かれたら、「まぁ~ 長年の勘でねぇ~」のように答えるのは妥当かも知れません。
「以前にディスカウントショップがセールをやってたときの天候は大雨で、その時は国道が大渋滞。今日は小雨だから、その時のデータが完全にあてはまるわけではないけれども、大雨のときのデータでは国道が混む確率は30%ぐらいで…(略)」 のように返答していたら、それを語っている間に目的地に着いてしまいそうです。
サッカーの采配をするには、渋滞回避の判断よりももっと遥かに膨大な量のデータ(経験)とその分析能力が必要になります。 その判断が複雑になればなるほど「勘」という言葉を使わざるを得なくなりそうです。
大まかな戦略は、重要に思えるパラメータを元にモデル化した骨格を使用する。けれどもそれ(理屈)だけでは戦い抜けず、練習や試合で選手・首脳陣に身に付いた経験則をいかに瞬時に活かせるかが鍵になる。
岡田監督はそのようなことを伝えたかったのではないかと思います。
「勘」というものは、人間のもつ高度な分析能力ではないでしょうか。
経営とITについて少しだけ考えてみたいと思います。
「うちは長年の経験と勘で経営してきている」
うまく整理された台帳データと、それを的確に分析できる共通認識が社員に備わっていれば、このような企業は確実に存在しているはずです。 逆に、ITを導入したはいいものの、経験(データ)の蓄積だけに留まり、分析機能を備えていない(あるいは、使いこなせない)状況であるとしたならば、それはかえって経営に悪影響を与えることになります。 「導入に莫大な費用を投じたにも関わらず、それに見合った効果が顕れない」といったIT導入失敗例は珍しくありません。 今まで「勘」をどのように働かせてきたかを再確認し、自然な流れで「最後は勘」に結び付けることができるようなシステムを構築することが、IT化するにあたっての重要な鍵ではないかと思います。
なるべく時事ネタ~ということで書いたのですが、今となってはかなり遠い記憶ですね

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「最後は勘」 2010/09/01
ちょっと古い話になりますが、サッカーW杯。一躍ヒーローとなった岡田監督は帰国後に橋下大阪府知事と対談し、トップの心得を訊かれたときに次のように締めくくったそうです。
「トップは答えが分からないままにやる。理屈で考え抜いても最後は勘」
ラジオのニュースで聞いたコメントなので、オチに使ったのかホンキだったのかは不明です。 ただ、後々調べてみると、2009年にも選手起用に関して同様のコメントをしていたようで、岡田監督のポリシーの一角であるようですね。
これを知ると「岡田監督の采配は偶然だったのか…」なんてがっかりする人も多いかと思います。実際、ブログやコミュニティでの批判も多少あったようです。
「勘」を嫌う人は多いかと思います。
確かに、たとえば職場などで、上司が「そういう結論になったのはどうして?」と訊ねてるのに対して「勘です」なんて答えてる部下がいたら周囲はドン退きしそうです。
ですが、「勘です」という返答がタブーであるのは「具体的な根拠を知りたい」という要求に反してるだけであって、 実際に勘で意思決定をすること自体は問題がないものの、その返答を反射的に嫌う癖がついているだけではないでしょうか。
勘自体を反射的に忌み嫌うのだとしたら、それは周囲からのなにげないアイディアを多く取りこぼしているようにも思えます。このことは、実際にソフトウェアあたりで実現してみようとすれば実感できるかと思います。
タクシードライバーが国道を走っていて、「今日は旧道の方が混んでないはずだ」と判断するとします。 この思考をコンピューターで再現するとしたら、かなり大がかりな作業になるはずです。
データベースには日常の様々な事象を入力しておく必要があります。 時刻・車の混み具合・天候・周囲でのイベントの有無・道幅に対する歩行者の数のようなデータを場面毎に保管し、容量にも限界があるので適度な圧縮や抽象化したデータも用意する必要もありそうです。 この混沌としたデータベースから現在の状況にマッチした検索を行い、精度は犠牲にしながらも、ちょうど似た状況のデータをピックアップ あるいは 各要素の重要性を加味しつつ抽出データの傾向を分析します。
こうしてやっと 国道を選ぶか? 旧道を選ぶか? の判断が可能になるわけです。
もし、そのドライバーが客に「なんでこっちの旧道を選ぶの!?」と訊かれたら、「まぁ~ 長年の勘でねぇ~」のように答えるのは妥当かも知れません。
「以前にディスカウントショップがセールをやってたときの天候は大雨で、その時は国道が大渋滞。今日は小雨だから、その時のデータが完全にあてはまるわけではないけれども、大雨のときのデータでは国道が混む確率は30%ぐらいで…(略)」 のように返答していたら、それを語っている間に目的地に着いてしまいそうです。
サッカーの采配をするには、渋滞回避の判断よりももっと遥かに膨大な量のデータ(経験)とその分析能力が必要になります。 その判断が複雑になればなるほど「勘」という言葉を使わざるを得なくなりそうです。
大まかな戦略は、重要に思えるパラメータを元にモデル化した骨格を使用する。けれどもそれ(理屈)だけでは戦い抜けず、練習や試合で選手・首脳陣に身に付いた経験則をいかに瞬時に活かせるかが鍵になる。
岡田監督はそのようなことを伝えたかったのではないかと思います。
「勘」というものは、人間のもつ高度な分析能力ではないでしょうか。
経営とITについて少しだけ考えてみたいと思います。
「うちは長年の経験と勘で経営してきている」
うまく整理された台帳データと、それを的確に分析できる共通認識が社員に備わっていれば、このような企業は確実に存在しているはずです。 逆に、ITを導入したはいいものの、経験(データ)の蓄積だけに留まり、分析機能を備えていない(あるいは、使いこなせない)状況であるとしたならば、それはかえって経営に悪影響を与えることになります。 「導入に莫大な費用を投じたにも関わらず、それに見合った効果が顕れない」といったIT導入失敗例は珍しくありません。 今まで「勘」をどのように働かせてきたかを再確認し、自然な流れで「最後は勘」に結び付けることができるようなシステムを構築することが、IT化するにあたっての重要な鍵ではないかと思います。
