母親が42の時に私は生まれました
多分近所では、当時では40の恥かきっ子として噂になっていた事でしょう
覚えている写真は何枚かあります
まだ歩ける満面の笑みの母親におぶわれている私
5つ年上の姉に抱かれている赤ん坊の私
3歳の七五三で大きなお煎餅を飾りながら母に連れられている私
家族皆、多分とても幸せな頃だったんだと思います
少し大きくなると、着物姿の母に連れられてどこかに外出した記憶もあります
医者だったのでしょうか、、
真っ直ぐ立った母の記憶はその頃までかもしれません
我が家は戦後に僅かな資金で安物の建材で父が設計し、大工さんに頼んで建てた家だそうです
広い庭を囲むように客間があり、2回で暴れると家中が揺れるようなわい弱な家でしたが、それなりに気の利いた作りになっていました
でも父親らしいのが、体の弱い母の使い勝手などを全く考えてない設計で、トイレは半外、お風呂は離れにありました
台所は細長く狭いウナギの寝床の様で、暗く寒い土間にすのこを敷いただけの造りでした
家というものは大事です
この動線の悪さが、後々家庭崩壊の一因にもなりました
でも幼少時の私はこの家が大好きで
花木が好きな両親が植えた植物、花が色とりどりに咲くこの庭で1人遊ぶのが、何より楽しい時間でした
軽く風流人でもある父が日本庭園風に花木を配置してあって、四季折々眼を楽しませてくれました
恥ずかしがり屋の私は、家に出入りする、父の患者を避ける様に、家の隅で絵を描いたり、庭で一人でおままごとをしたり、おひとりさま天国を楽しんでいました
ここまで読んでくださいましてありがとうございました