みんなのオモニ
おはようございます!
月刊致知より!
じっとして、いられないお話です!
私が出来る事!何に命を使うか?
それでは!
母が他界して今年で四十年の歳月が流れました。
最近、韓国のテレビ局が母のドキュメンタリーを制作したり、
古里の高知で顕彰の動きが盛り上がったり、
その足跡が広く紹介される機会も増えてきました。
日韓両国の人々が過去の不幸な歴史を乗り越え、
人間愛や平和について考えるよすがとなれば、
天国の母も本望だと思います。
母の名は田内千鶴子(韓国名・尹鶴子)。
戦後の韓国で孤児院を運営し、三千人の孤児を育てあげ、
皆から「オモニ」(お母さん)と慕われ続けました。
日本人に対する迫害が最も激しかった時代、
反日感情と貧しさに耐えつつ
一人で施設を切り盛りする苦労は
筆舌に尽くしがたいものがあったことでしょうが、
間近にいた私は、母が泣き言や愚痴を言う姿を
一度も見たことがありません。
逆にどのような状況でも、
信仰に裏打ちされた献身的努力を続け、
孤児の幸せのためだけに人生を捧げ尽くした人でした。
昭和四十三年に五十六歳で亡くなった時、
市民葬に三万人が参列しました。
清貧に生きた無名の日本人の死を、
これほど多くの人が悼み、号泣した例は
韓国の歴史にあったでしょうか。
母は大正元年に高知県で生まれ、
幼少期に朝鮮総督府に勤めていた父親に呼ばれて
韓国に移ります。
そして二十六歳の時、ボロボロの身なりで
孤児の救済に当たっていた
韓国人キリスト教伝道師の父と出会い、結婚。
韓国南西部・木浦市内にある、
孤児院とは名ばかりの廃屋同然の木浦共生園で、
四、五十人の孤児と寝起きを共にしながらの
新婚生活をスタートします。
しかし、貧しくも希望に燃えた二人三脚の日々は
長くは続きませんでした。
やがて訪れる朝鮮戦争の最中、
父が食料調達に行ったまま消息を絶ってしまったからです。
以来、母は父の帰りを夢見ながら、
一人で共生園の運営を続けます。
父が帰るまでは何としても孤児院を守る
という一念だったといいます。
動乱で親を亡くした孤児の数は増え続ける一方で、
運営は困難を極めました。
建物の拡充も必要でしたが、差し当たり必要なのは
きょう口にする食料でした。
母自らリヤカーを引いて残飯を集め、
役所を訪れては援助を訴えました。
まるで物乞いです。
しかし母は周囲の雑音を意に介することなく、
たどたどしい韓国語を話しながら
小さな体で食料や資金の確保に走り回り、孤児を育てていくのです。
病気の子は夜を徹して看病し、
ひもじい思いをする子には自分の食事を分け与えました。
一緒に遊び、歌い、抱擁し、そして祈り、
精いっぱいの愛情を注ぎました。
いつも温かい視線を注いでくれる母を、
孤児たちはいつの間にか皆本当の母親のように
慕うようになりました。
戦後間もない頃、凶器を手にした村人が突然、
共生園を訪れ、日本人である母の命を奪おうと
したことがあります。
その時、孤児たちは「オモニに手を出させるものか」と
一斉に母を取り囲んだのです。
村人は無言のまま立ち去りましたが、
母は後にこの時を振り返り、
「孤児たちが守ってくれた命。
ならば、死ぬまで孤児のために命を捧げようと決意した」
と話していました。
その言葉どおり母は終生、この誓いを貫き通すのです。
私も幼い頃からそういう母を見てきました。
しかし私の幼少期はいい思い出ばかりではありません。
日々の生活は食事も寝る場所も孤児と一緒。
母は我が子を絶対に特別扱いしませんでしたから、
近所の子から虐められて帰っても、
悩みを打ち明ける場もないのです。
寂しさと悔しさでいっぱいになり、
母ばかりか行方不明になった父すら
憎らしく思ったことは数えきれません。
事あるごとに反抗を繰り返し、
屈折した親子の関係はその後長く続きました。
母と心を分かち合えるだけのまとまった時間が
ようやく持てたのは、亡くなる直前でした。
がんに侵された母を付きっきりで看病する中で、
それまでのわだかまりが氷解していくのを
感じることができたのです。
死の床で、母は「梅干しが食べたい」と
呟くように言いました。
当たり前のように韓国語を話しチマチョゴリを着、
キムチを食べ、誰からも韓国人だと思われていた母が、
意識朦朧とした状態で発した日本語でした。
この言葉を聞いた時、母の心の奥底には
ずっと祖国への憧憬があったのだと気づいたのです。
母の死後、私は二十六歳で施設の経営を継ぎました。
経営は火の車で資金面での苦労は絶えませんでしたが、
多くの方々の協力で、共生園を軸に障害者施設、
職業訓練校、保育所など幅広い福祉事業を
展開することができました。
大阪に在日コリアンの特別養護老人ホーム
「故郷の家」を建てたのは平成元年のことです。
その後、大阪市生野区、神戸市に「故郷の家」を完成させ、
今年十月、京都市の東九条に四番目の
「故郷の家京都」を竣工します。
私は日本に来るとは夢にも思いませんでした。
しかし、ある時在日のお年寄りの孤独死が
相次いでいるというニュースを耳にし、強い衝撃を受けたのです。
祖国に帰ろうにも帰れず、親きょうだいを思いながら
死んでいったお年寄りの姿が、異郷の地で
「梅干しが食べたい」と言って死んだ母の姿と重なりました。
韓国語を話しキムチを食べながら
安らかな死を迎えられる場を提供したかったのです。
母は五十六年の生涯で、国境を超えて愛し合う
素晴らしさを身をもって示しました。
そして木浦の人々もまた日本人である母を
心から愛してくれました。
私が日本で福祉事業を営むのも、
その恩に報いたいという思いゆえであり、
それが母の願いにこたえることだと信じています。
iPhoneからの投稿
月刊致知より!
じっとして、いられないお話です!
私が出来る事!何に命を使うか?
それでは!
母が他界して今年で四十年の歳月が流れました。
最近、韓国のテレビ局が母のドキュメンタリーを制作したり、
古里の高知で顕彰の動きが盛り上がったり、
その足跡が広く紹介される機会も増えてきました。
日韓両国の人々が過去の不幸な歴史を乗り越え、
人間愛や平和について考えるよすがとなれば、
天国の母も本望だと思います。
母の名は田内千鶴子(韓国名・尹鶴子)。
戦後の韓国で孤児院を運営し、三千人の孤児を育てあげ、
皆から「オモニ」(お母さん)と慕われ続けました。
日本人に対する迫害が最も激しかった時代、
反日感情と貧しさに耐えつつ
一人で施設を切り盛りする苦労は
筆舌に尽くしがたいものがあったことでしょうが、
間近にいた私は、母が泣き言や愚痴を言う姿を
一度も見たことがありません。
逆にどのような状況でも、
信仰に裏打ちされた献身的努力を続け、
孤児の幸せのためだけに人生を捧げ尽くした人でした。
昭和四十三年に五十六歳で亡くなった時、
市民葬に三万人が参列しました。
清貧に生きた無名の日本人の死を、
これほど多くの人が悼み、号泣した例は
韓国の歴史にあったでしょうか。
母は大正元年に高知県で生まれ、
幼少期に朝鮮総督府に勤めていた父親に呼ばれて
韓国に移ります。
そして二十六歳の時、ボロボロの身なりで
孤児の救済に当たっていた
韓国人キリスト教伝道師の父と出会い、結婚。
韓国南西部・木浦市内にある、
孤児院とは名ばかりの廃屋同然の木浦共生園で、
四、五十人の孤児と寝起きを共にしながらの
新婚生活をスタートします。
しかし、貧しくも希望に燃えた二人三脚の日々は
長くは続きませんでした。
やがて訪れる朝鮮戦争の最中、
父が食料調達に行ったまま消息を絶ってしまったからです。
以来、母は父の帰りを夢見ながら、
一人で共生園の運営を続けます。
父が帰るまでは何としても孤児院を守る
という一念だったといいます。
動乱で親を亡くした孤児の数は増え続ける一方で、
運営は困難を極めました。
建物の拡充も必要でしたが、差し当たり必要なのは
きょう口にする食料でした。
母自らリヤカーを引いて残飯を集め、
役所を訪れては援助を訴えました。
まるで物乞いです。
しかし母は周囲の雑音を意に介することなく、
たどたどしい韓国語を話しながら
小さな体で食料や資金の確保に走り回り、孤児を育てていくのです。
病気の子は夜を徹して看病し、
ひもじい思いをする子には自分の食事を分け与えました。
一緒に遊び、歌い、抱擁し、そして祈り、
精いっぱいの愛情を注ぎました。
いつも温かい視線を注いでくれる母を、
孤児たちはいつの間にか皆本当の母親のように
慕うようになりました。
戦後間もない頃、凶器を手にした村人が突然、
共生園を訪れ、日本人である母の命を奪おうと
したことがあります。
その時、孤児たちは「オモニに手を出させるものか」と
一斉に母を取り囲んだのです。
村人は無言のまま立ち去りましたが、
母は後にこの時を振り返り、
「孤児たちが守ってくれた命。
ならば、死ぬまで孤児のために命を捧げようと決意した」
と話していました。
その言葉どおり母は終生、この誓いを貫き通すのです。
私も幼い頃からそういう母を見てきました。
しかし私の幼少期はいい思い出ばかりではありません。
日々の生活は食事も寝る場所も孤児と一緒。
母は我が子を絶対に特別扱いしませんでしたから、
近所の子から虐められて帰っても、
悩みを打ち明ける場もないのです。
寂しさと悔しさでいっぱいになり、
母ばかりか行方不明になった父すら
憎らしく思ったことは数えきれません。
事あるごとに反抗を繰り返し、
屈折した親子の関係はその後長く続きました。
母と心を分かち合えるだけのまとまった時間が
ようやく持てたのは、亡くなる直前でした。
がんに侵された母を付きっきりで看病する中で、
それまでのわだかまりが氷解していくのを
感じることができたのです。
死の床で、母は「梅干しが食べたい」と
呟くように言いました。
当たり前のように韓国語を話しチマチョゴリを着、
キムチを食べ、誰からも韓国人だと思われていた母が、
意識朦朧とした状態で発した日本語でした。
この言葉を聞いた時、母の心の奥底には
ずっと祖国への憧憬があったのだと気づいたのです。
母の死後、私は二十六歳で施設の経営を継ぎました。
経営は火の車で資金面での苦労は絶えませんでしたが、
多くの方々の協力で、共生園を軸に障害者施設、
職業訓練校、保育所など幅広い福祉事業を
展開することができました。
大阪に在日コリアンの特別養護老人ホーム
「故郷の家」を建てたのは平成元年のことです。
その後、大阪市生野区、神戸市に「故郷の家」を完成させ、
今年十月、京都市の東九条に四番目の
「故郷の家京都」を竣工します。
私は日本に来るとは夢にも思いませんでした。
しかし、ある時在日のお年寄りの孤独死が
相次いでいるというニュースを耳にし、強い衝撃を受けたのです。
祖国に帰ろうにも帰れず、親きょうだいを思いながら
死んでいったお年寄りの姿が、異郷の地で
「梅干しが食べたい」と言って死んだ母の姿と重なりました。
韓国語を話しキムチを食べながら
安らかな死を迎えられる場を提供したかったのです。
母は五十六年の生涯で、国境を超えて愛し合う
素晴らしさを身をもって示しました。
そして木浦の人々もまた日本人である母を
心から愛してくれました。
私が日本で福祉事業を営むのも、
その恩に報いたいという思いゆえであり、
それが母の願いにこたえることだと信じています。
iPhoneからの投稿
記録更新!ダイエット!
おはようございます!
ダイエットかなり順調です!
77.5
まできました!!!!!!!
あと
あと
あと
2KGです!
やります!自己管理って!楽しいですよ!
夢を語るのといっしょです!
つねに発信ですね!
なぜか!昨日も飲み会でしたが・・・・
すでに
サラダが、2つ用意してありました!
ありがとうございます!!!
夢や目標の達成と絶対同じです!
ダイエットかなり順調です!
77.5
まできました!!!!!!!
あと
あと
あと
2KGです!
やります!自己管理って!楽しいですよ!
夢を語るのといっしょです!
つねに発信ですね!
なぜか!昨日も飲み会でしたが・・・・
すでに
サラダが、2つ用意してありました!
ありがとうございます!!!
夢や目標の達成と絶対同じです!
被災地にいざ!
今晩は!
お昼に静岡県を出まして、
身内が待つ、南三陸町に向ってます!
もう少しの所まで来ました!
昨日は、周りの皆様にびっくりするほどの救援物資を頂き、本当に感謝しております。ありがとうございます!
生かされている!
支えられている!
次は、自分の番だ!
必ず朝までに行きます!
それでは!
相田みつをさんの詩の中から!
雨のひには
相田みつを氏の心に響く言葉より…
【雨のひには】
雨のひには
雨の中を
風のひには
風の中を
【風雪に耐え】
風雪に耐え
ただけ 土の
中に根が
張るんだな
【雨の日には・・・・】文化出版局
いままで
言われていなかったことばが
今 日本中にあふれている
老いも
若きも
被災地のことを思えば…
「助け合おう」
「ぜいたくで申し訳ない」
「我慢なんてなんでもない」
「みんなで頑張ろう」
「決して希望は捨てないで」
「お役に立ててうれしい」
「自分のできることは何だろう」
「いたわりあい」
「痛みをわかちあおう」
「恵まれていることに気づいた」
なんて 素敵な言葉の数々
今まで 斜に構えていた人たちまでもが 言い出した
現実はあまりにも厳しくて悲惨だが
大丈夫
きっと日本は 大丈夫
iPhoneからの投稿
お昼に静岡県を出まして、
身内が待つ、南三陸町に向ってます!
もう少しの所まで来ました!
昨日は、周りの皆様にびっくりするほどの救援物資を頂き、本当に感謝しております。ありがとうございます!
生かされている!
支えられている!
次は、自分の番だ!
必ず朝までに行きます!
それでは!
相田みつをさんの詩の中から!
雨のひには
相田みつを氏の心に響く言葉より…
【雨のひには】
雨のひには
雨の中を
風のひには
風の中を
【風雪に耐え】
風雪に耐え
ただけ 土の
中に根が
張るんだな
【雨の日には・・・・】文化出版局
いままで
言われていなかったことばが
今 日本中にあふれている
老いも
若きも
被災地のことを思えば…
「助け合おう」
「ぜいたくで申し訳ない」
「我慢なんてなんでもない」
「みんなで頑張ろう」
「決して希望は捨てないで」
「お役に立ててうれしい」
「自分のできることは何だろう」
「いたわりあい」
「痛みをわかちあおう」
「恵まれていることに気づいた」
なんて 素敵な言葉の数々
今まで 斜に構えていた人たちまでもが 言い出した
現実はあまりにも厳しくて悲惨だが
大丈夫
きっと日本は 大丈夫
iPhoneからの投稿
最高の日本人
おはようございます!
ラモス瑠偉さん!
最高の日本人です!
ブログを見て下さい!
なんだか無性に腹が立ってる
いろいろ多方面から 電話を貰う
もちろん心配してくれてる電話や 役に立つ事があれば・・・
などなど 本当にありがたい電話ももらうけど
関西や九州や沖縄や 外国とか なんで逃げないの?・・・って
ふざけんな!って言いたい
東京は 普通に生活出来てるじゃん
逃げたくても逃げられないで じっとがまんしてる人々が
どれだけいると思ってんの
日本全部がなくなったわけでもないし
足りないものがあれば ちゃんと機能してる関西や下の方から
どんどん助けが来るだろ
パン1枚 おにぎり1個 カップヌードルでもなんでも
贅沢しなけりゃ2,3日位過せるだけのたくわえなんて
東京の家だったら 普通あるだろ
なのに 必要以上に買い占めに走り
マーケットは とんでもない状態
ガソリンだって 本当に必要なところにまわらなくなってる
もっと冷静になれよ!!!
海外では この状態でもモラルのある日本人を
称賛する声が上がってるらしいけど
自分だけ逃げようとか 物を買占めたりとか
そういうやつらもいるのが すごく悔しい
帰りたい外人なんか さっさと帰れ!
残った俺達日本人で もう一度立てなおそうよ!
生き残ってる俺達が 犠牲になった人達の分まで頑張らなかったら
魂だって安らかに神様の所まで行かれなくなっちゃうよ
もう一度 冷静になれよ
東京の人間まで逃げてどうするんだよ!
やたら物を買占めて どうなるんだよ!
人間必ずいつかは神様の所に帰っていく
その時がきたら 俺は静かに自分の家にいたいし
逃げて自分だけ助かろうなんて絶対おもわない
今俺達が少しでも出来る事
節電だったり 最低限の食事だったり・・・
停電したら ロウソクともして お祈りの時間にすればいい
寒ければ 1枚コート着ればいい
東京の人間はまだまだ恵まれてるんだぞ
自分の事だけ考えるのは いいかげんやめようぜ
もう一度 今こそ 世界に日本のがんばりを見せつけたいぞ
Ate Logo!!!
iPhoneからの投稿
ラモス瑠偉さん!
最高の日本人です!
ブログを見て下さい!
なんだか無性に腹が立ってる
いろいろ多方面から 電話を貰う
もちろん心配してくれてる電話や 役に立つ事があれば・・・
などなど 本当にありがたい電話ももらうけど
関西や九州や沖縄や 外国とか なんで逃げないの?・・・って
ふざけんな!って言いたい
東京は 普通に生活出来てるじゃん
逃げたくても逃げられないで じっとがまんしてる人々が
どれだけいると思ってんの
日本全部がなくなったわけでもないし
足りないものがあれば ちゃんと機能してる関西や下の方から
どんどん助けが来るだろ
パン1枚 おにぎり1個 カップヌードルでもなんでも
贅沢しなけりゃ2,3日位過せるだけのたくわえなんて
東京の家だったら 普通あるだろ
なのに 必要以上に買い占めに走り
マーケットは とんでもない状態
ガソリンだって 本当に必要なところにまわらなくなってる
もっと冷静になれよ!!!
海外では この状態でもモラルのある日本人を
称賛する声が上がってるらしいけど
自分だけ逃げようとか 物を買占めたりとか
そういうやつらもいるのが すごく悔しい
帰りたい外人なんか さっさと帰れ!
残った俺達日本人で もう一度立てなおそうよ!
生き残ってる俺達が 犠牲になった人達の分まで頑張らなかったら
魂だって安らかに神様の所まで行かれなくなっちゃうよ
もう一度 冷静になれよ
東京の人間まで逃げてどうするんだよ!
やたら物を買占めて どうなるんだよ!
人間必ずいつかは神様の所に帰っていく
その時がきたら 俺は静かに自分の家にいたいし
逃げて自分だけ助かろうなんて絶対おもわない
今俺達が少しでも出来る事
節電だったり 最低限の食事だったり・・・
停電したら ロウソクともして お祈りの時間にすればいい
寒ければ 1枚コート着ればいい
東京の人間はまだまだ恵まれてるんだぞ
自分の事だけ考えるのは いいかげんやめようぜ
もう一度 今こそ 世界に日本のがんばりを見せつけたいぞ
Ate Logo!!!
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できることをやるんだ!(安否確認)
こんにちは!
いつもお世話になっている『魂が震える話』のkeiさんのお友達のブログです!
情報をお願いします!
http://ameblo.jp/juentakashi/
昨日は、googleの安否確認で電話番号を記載し、投稿していたところ
おかあさんの小学校時代の友人から連絡が私にありました。
救援物資を近日中に届けてくれるとのことでした。
可能性は十分あると思います!
下記が、http://ameblo.jp/juentakashi/からの情報です!
自分の後輩の仲間の安否が取れません
後輩のメールをコピペします
―ーーーーーーーーーー
先日の、東日本大震災で友人の消息が全くわかりません。
親、兄弟達が血眼になって探しています。
当方もミクシィ等ネットを使い情報を呼び掛けています。
どうかお力添えよろしくお願いします。
・中播淳
(なかはり あつし)
・41歳
・岩手県 宮古市 向町で伊勢屋餅店(自宅)で和菓子職人をしております
当日は、釜石市にいたとの情報があります。
些細な情報でも構いません。
どうか宜しくお願いします。
ーーーーーーーーーーー
東北の方々にも見てもらってる、ブログ仲間の方々
是非、コピペして情報を集めて下さい。
今日、福島県に居る仲間の情報も夕方には入り、このブログに載せたいのですが・・・
こちらを優先させて頂きます
明日のお昼まではこのブログを更新しません
宜しくお願いします
翔友会の仲間へ
けん坊の仲間です
情報共有をお願いします
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おかあさんの小学校時代の友人から連絡が私にありました。
救援物資を近日中に届けてくれるとのことでした。
可能性は十分あると思います!
下記が、http://ameblo.jp/juentakashi/からの情報です!
自分の後輩の仲間の安否が取れません
後輩のメールをコピペします
―ーーーーーーーーーー
先日の、東日本大震災で友人の消息が全くわかりません。
親、兄弟達が血眼になって探しています。
当方もミクシィ等ネットを使い情報を呼び掛けています。
どうかお力添えよろしくお願いします。
・中播淳
(なかはり あつし)
・41歳
・岩手県 宮古市 向町で伊勢屋餅店(自宅)で和菓子職人をしております
当日は、釜石市にいたとの情報があります。
些細な情報でも構いません。
どうか宜しくお願いします。
ーーーーーーーーーーー
東北の方々にも見てもらってる、ブログ仲間の方々
是非、コピペして情報を集めて下さい。
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昨日、南三陸町のおかあさんから電話がありました!
人徳が!
人の和が!
人が人を助けるしかない!
今!日本がひとつになっている!
そんな中、素晴らしいメッセージです!
思いが届けば・・・・・
昨日、南三陸町のおかあさんから電話がありました!
人徳が!
人の和が!
人が人を助けるしかない!
今!日本がひとつになっている!
そんな中、素晴らしいメッセージです!
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