
初代 忠吉は、肥前新刀鍛冶。橋本新左衛門。龍造寺家の家臣である橋本道弘の子。名手とされる。新刀最上作最上大業物 山城国埋忠明寿門人。
制作の時期により、五字忠銘、秀岸銘、住人銘、改銘後の忠広銘に分かれる。 初期は「五字忠銘」といって「肥前国忠吉」の銘がほとんどのようである。 秀岸というのは僧侶らしく、この人の書く字を真似て切った癖のある切銘のことを言う。 秀岸銘をやめてのち、「肥前国住人忠吉作」などと切る住人銘になる。 晩年は武蔵大掾を受領し名を「忠広」と改め「武蔵大掾藤原忠広」と切る。 重要美術品の刀、脇差しがある。息子の近江大掾忠広以下、幕末まで一貫して続く肥前刀の開祖といえよう。

また忠吉は、岡田以蔵の愛刀としても知られている。
岡田以蔵については同時代資料も本人の書簡なども乏しいが、その性格・事跡については土佐勤王党関係の史料によって断片的に窺うことが出来る。
ちなみに当時、岡田以蔵も坂本龍馬同様リボルバー型のピストルを所持していた事も判明している。
岡田以蔵が関わったと言われる殺害事件
井上佐市郎暗殺(文久2年8月2日)
本間精一郎暗殺(文久2年閏8月20日)
宇郷重国殺害(文久2年閏8月22日)
猿の文吉殺害(文久2年閏8月30日)
四与力殺害(文久2年9月23日)
平野屋寿三郎・煎餅屋半兵衛生き晒し(文久2年10月9日)
多田帯刀暗殺(文久2年11月15日)
池内大学暗殺(文久3年1月22日)
賀川肇暗殺(文久3年1月29日)
岡田以蔵が護衛した要人
勝海舟(文久3年)ジョン万次郎
坂本龍馬の口利きで岡田以蔵が勝海舟の護衛を行った。
その後、勝海舟が自分の護衛をした岡田の腕を見込んで万次郎の護衛につけたという。
