強くあるべきだ。
それは、子供の頃からの願いでもある。
一つは
単に強いものへの信仰心がある。
強いものを目にした時、
単純に崇める気持ちが沸き立つ。
自分もそこに少しでも近づきたい、
そんな気持ちになる。
二つには
強くなれば自分の考えや存在そのものを
相手に上手く伝える事ができる。
人は弱いものと対等にいることに不満を感じる時がある
弱者からの弱さゆえの要求要望に答えようとすることで
自分の時間やエネルギーを必要以上に無駄に使いたくないので
理想的環境での生活を求める過程で
自分の思考内に
苦痛を感じるタイプの弱者を
寄せ付けないため。
『あなたの要望には答える余裕がない』
と、何度も言い聞かせるようなことにならないようにするために、
あなたと対等ではない事を周知のものとするため。
簡単に言えば、
上司と部下や
先輩後輩と言うようなはっきりした関係の元では
そのような説明は普通入らない。
部下、後輩、
そんな立場の人は自分で立場をわきまえるのが
世間的に普通だから。
人は他人の下に回る時、
どう見ても相手が上であり、悩むこともなく従えることができる関係については、
好んでへりくだったりはしないとしても、
強者の元で頑張ってへりくだることそのものには、
そんなに苦痛を感じないものだ。
従うか反抗するかの間で行き来することが苦痛なのだ。
はっきりしてしまえば別になんということはない。
自分が完全に強くなれば、そんな状態を作りやすくなる。
そのように強くなり強さを示すのは
けして弱者の尊厳や人権を無視するものではない。
そして私は
自分は強くなりたいと思うが、
そう思わない人がいることについて
とやかく強制する権利は自分にはないと思っており、
強い者、弱い者、平均的な者、
皆に同等の権利が存在すると思っている。
そして人の権利について、
つまりそれが人権なのだが、
私の理想とは
万物平等である。
人のみが得をすればよいとは思っていない。
万物に権利がある。そう思っている。
ただ、そこに
「物」も含まれると思うのは、
おそらく私の特殊性であろうとは思う。
万物なかの弱い者が本当に苦しんでいるなら
助けるのが強い者の本心なのだろうと思う。
助けるためにも強くありたいと思う。
その目標を叶えるため
鍛えなくてはいけないのだが、
それは時として休息を取る事を自分に強制するための強い決断心も
また、鍛えないといけない事になる。
妥当なタイミングで休息の期間をを十分にこなさないと、
最終的には強さを手にすることはできない。
実はそこが一番困難であったりするものである。
休息を取ることは負けることではないが、
十分な休息を終え強さを表現できるようになるまでの間、
周囲からはまるで敗者同然に映るのであり、
つまり周囲は
自分を敗者とみなすのであり、
周囲にとってその判断は間違っていない。
そうではないという事実は周囲からしたら知りようがないのである。
負けたフリをする技術を
取得する努力もまた欠かす事はできないのだ。
最終的に自分が強いかどうかは自分で判断するものであり、
周囲にわからせるための結果を求めた所で、
それがどんな結果であれ
どんな勝敗であれ
あまり意味がない。
自分以外の者が強いか弱いかは、
自分が強く生きる上で
あまり重要ではないからである。
強くなる事を求める、
そこに理由などいらない。
何となく強くなりたい
それしかない。
おそらくそれが本能なのだろうとは思う。
その本能を消去するしかないときは、
遅かれ早かれ来る。
『何となく強くなりたいから努力する。』
それで十分であり
それ以外、別段何も無いのだ。