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音楽では楽器も

「あのアルバムは駄作


早いもので、本日で拙者の授業は最後でござる。
皆、楽しんでもらえたでござろうかさて、じゃ勉強勉強庭番について。
庭番江戸城御庭番衆についてなんて、なかなか歴史の授業じゃやらぬでござるよな苦笑イメージとしては、蒼紫みたいな、隠密戦闘集団であり、般若のような諜報員ってところでござるかな今日みていくのは、現実に居た、御庭番の話でござる。
言葉だけで言うなら、庭番は、戦闘集団であり、諜報員って言い方で合っているでござる。
ただし、戦闘の方は、早くから形骸化していたと考えられてるでござるな。
その起源は、八代将軍徳川吉宗が将軍として江戸へ上洛した際、紀州から連れてきた家臣団96名のうちの十数名。
紀州藩では薬込役と呼ばれていた者たちで、奥御殿の警備を表向きの職務としていたでござる。
出自としては伊賀者が多く、世襲制で、徳川吉宗が連れてきた家筋の者分家含む以外が、新たに登用された記録はござらん。
さらに、表向きの職業も、大阪町奉行や天守守頭、賄番まで様々でござった。
面白いのは、表だって頭領らしき人物は見受けられないって事でござる。
将軍の命は、将軍直属の部下、御側御用取次から、直接それぞれの庭番へと下る。
また、庭番からの報告書は、同じルートをたどって、直接、将軍まで届く仕組みになっていたでござる。
さらに、彼らは隠密と言えども、存在する者として武鑑に掲載されていた。
氏名、住所はもとより、収入や経歴に至るまで、公開されていたでござるよ。
これら庭番は、将軍の下命を受けると、出発前に一度自宅へ戻って、一応やってはいけない決まりになってたが調査内容について、家の者とおもに先代や長老と呼ばれる年寄ら綿密な相談をしていたそうでござる。
また、遠国の調査などでは、まず江戸で事前調査を行い、予備知識を得てから出立したと言われている。
隠密任務中は、表向きの役職は病欠扱いだったようでござるな。
さらに、帰ってきたら、調査報告書を作成し、先輩庭番衆の校閲を経てから提出されてたのだとか。
ちなみに、庭番としての諜報活動は日当制だったようで、決まりとしては隠密任務から帰還すると、速やかに通常の職務に復帰しなければならなかったようだが、実際は上で書いたように下調べをしたり、報告書を書いたりと前後数日間は家でゴソゴソしていたようでござるな日数が増えれば給料も増えるしさらに言うなら、京都と大阪には、実際に隠密任務にあたっている者をサポートするための、御用達町人って人々がいて、御庭番の調査を支援していたようでござる。
料亭葵屋も、あながち間違いではないって事でござるな微笑幕府の解体で、庭番衆も散会することになるが、幕末の庭番、村株ヘ正などは、万延元1860年の遣米使節団の副使として、咸臨丸で渡米、帰路は東回りをとって、世界一周して帰ってきたようテレフォンセックスなつわものだったようでござるよ。
参考文献1992深井雅海江戸城御庭番徳川将軍の目と耳中公新書1983深井雅海江戸幕府御用取次の基礎的研究国史学第120号これにて、企画日記は終了でござる。
期末考査しようかと思ってたが時間ないでござるな苦笑本日夜十二時を以て、拙者は元に戻るでござる。
質問には期限が過ぎても答えるでござるよ微笑また、機会があればこんな企画もいいでござるな。
参加してくれた皆、有難うでござった微笑これからも宜しく頼む。
※追記祝いの企画の延長ってことで、十二月半ばごろに、東京にてオフ会を開催しようと思っているでござるよ。
具体的に決まったら、また告知するでござる微笑