664ページの抜け殻
1冊の本が届く。とてつもなく重く、でかい。
データによると664ページ。限定1500部。
そのとてつもなく重くてでかくて664ページもある本に、20000円を払うのは運命と言い訳するしかなさそうだ。
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かつてあれほどぼくの心のうちを占めた北海道とその幾多の町。
津軽海峡を渡っていくときのあのときめきは、
いったいどこに行ってしまったのだろうという思いは、
今でもときおりぼくのなかにわだかまりとして残っている。
三年まえに約束した北海道の写真集も、いまだに一枚の
プリントすらできずにかつてのネガフィルムだけが山になって眠っている。
いずれ作ることになるのだろうが、いま少し時間がかかりそうな気がする。
まさか、青函連絡船が海峡から姿を消してしまったからだ
というわけにもいかないし、結局自分で自分にまだうまく説明がつかないのだ。
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人は説明できる時程冷静で、理論付けて考えられる時は至極現実的なアウトプットになると常々思っていた。
写真が絵画と圧倒的に違うのは、カメラという機械を通しているから、
そして、事実そのものを表現してしまう可能性があるから、
芸術性と報道性の海峡がわからなくなることが多々あるように思う。
「結局自分で自分にまだうまく説明がつかないのだ。」
自分で自分にまだうまく説明がつかない写真。
そんな写真は魅力的だ。
一大ブームを作ったあの男の「山になって眠っている」写真を、
664ページめくっていくのだ。
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写真集『光と影』へとつながる連載(1981年~83年)を『写真時代』誌上で開始するまえの<空白>ともいえる2年間。
そこへとまさに突入していこうとする1978年の初夏。
日々の生活(東京)への一種の「肉離れ」を感じ、次第にここではないもうひとつの場所へ逃れたいと感じるようになっていたという森山大道は、北海道行きを決意する。
北海道には知人も親類もいない。ここに暮らせば、するのは写真を撮ることだけ。そんな状況に身を置きたくて、連絡船で海を渡った。
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「肉離れ」とは、急激に筋肉が収縮した結果、筋膜や筋繊維の一部が損傷する疾患のこと。痛みや腫れ、運動障害をもたらす。スポーツをしている最中に起こりやすい。原因は、自家筋力の強力な筋収縮(ちぢむこと)による筋肉の部分断裂である。自覚症状があまりなくても、肉離れが起こっていることもあり、痛みがなくなった場合でも再発しやすく、最後まで十分に治療することが大事である。
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ニューヨークが人種の坩堝なのであれば、
東京は人格の坩堝である。
古風な江戸っ子と、心も身体も窓際族サラリーマン、外資系、
大麻で捕まる高学歴大学生、金と酒が親友の公私ホスト、
アングラとメジャーがミルフィーユ。
東京での生活は、ある種、不健康なスポーツであり、
表面的に癒されて休んでは働かされる、再発型ウイルスの蔓延である。
「南へ」、「北へ」。そこには、失った過去も失うであろう未来も探せるかるかもしれない。
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札幌に3 ヶ月間アパートを借り北海道中を撮影してまわった。
「ぼくが北海道を写すとき、多分に主情的- センチメンタル- なトーンになりがちなのも、子供の頃から育てた、見知らぬ海峡の彼方にある<もうひとつの国>異国情緒にあふれた<心のうちなる北の町>という思い入れが、いつまでも抜けきれずにあるからなのだろう。」
「撮ることだけが僕の日課だった。・・・撮れば撮るほど、北海道の地が際限なく広がって行くような、まるでヌエをつかむような無力感、焦燥感にとらわれ、いらだったり、反対に居直ってみたり。」
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1978年の北海道は、森山大道の写真を見る限り、とてつもなくでかくて閑散としている。
ところどころに見え隠れする文明開化感、「肉離れ」する前の日本がそこにはある。
森山大道独特の粒子の荒いプリントと、時折写真全体を覆う粒子の荒い雪が、一層、暗く、どろどろとした、胃の中をえぐり出すような感覚を起こさせる。
ここには664ページの説明がつかない写真とわれわれの抜け殻が確かにある。
もう本当は知っているのだ、どこにもないんだと。
自分で作り出さないと・・・

