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既成の範囲
久々の更新だ。人間には個人に固有の行動範囲、というか行動できる範囲の既成概念、のようなものが存在しているように思う。人によっては住んでいる地域を出ることなど有り得ない、と考えるのだが、人によっては世界中が彼の行動範囲とない得るのだ。どちらが優れているとか得だとか、私には論じることができない。ただぼんやりと思うのは、無理のない範囲であれば行動範囲は広げていきたいし、人に無理をさせない範囲であれば行動範囲を広げさせていき、既成概念に捉われたままでは見れなかった景色を一緒に見ていきたいということだ。この話はここまでにしておこう。話は変わるが「ここまで」を「此処まで」と記述するのか「こと」と書くか「事」と書くか、そういった些細な事については今後とも気にしないでいただきたい。個人的事情ではあるが、それぞれどちらのパターンで記述してきたかとかを、いちいち記憶しておけない。
肥満の悲劇
世の中には太っている人、いわゆる肥満の人が存在するのは自明のとおりであるが、私は以前から何となく肥満の人には、かわいそう、という感情を抱いていた。その理由が判明したので報告しておく。人体に起こる現象の一つである肥満は、非常に不公平なのである。例えば肥満の人が食べ物を一切食べなくなると数日で餓死する。そして、これは普通の人が餓死するのとほぼ同じ期間なのである。不公平とは思わないだろうか。肥満の人はあんなに脂肪を蓄えているというのに、腹が減れば餓死するのである。例えば肥満の人に「自分の脂肪を必要な分だけ栄養に変える能力」のようなものが備わっていれば何ヶ月でも生きていけるかもしれないのに、備わっていないのである。これでは何年何ヶ月もかけて肥満となった人は報われない。そんな私も肥満の仲間入りをしかけている。気をつけなければならないとは思うが、飯は美味い。
恐怖と驚愕
「怖いもの」と「びっくりするもの」、これらは似ているようで全く違うと思う。私は怖いものは好きであるがびっくりするものは好きではない。例えば、幽霊が出てくるような怖い映画は好んで観る。お風呂に入ったり夜中にトイレに行ったりするのが怖くなるということも殆どない。ただし、映画の中で急にお化けが大音量とともに現れるというような類の演出が嫌いだ。心臓に悪い。いわゆる「出るぞ出るぞ」という、いかにもこの静寂のどこかでびっくりさせるつもりのシーンとかになると、ちょっと目をそらしたり音量を下げたりするのである。ここで誤解しないで欲しいのが、幽霊が怖いわけではなく、仮に静寂のシーンで突発的に出てくるのがドラえもんであろうが長澤まさみであろうが、びっくりするものは嫌だ、というだけなのである。もし本物のお化けを見る機会があるとして、びっくりするシチュエーションじゃなければ怖がることはないと思うが、じゃあ逆にびっくりしないお化けの登場って何だ、とも思う。一番困るのがお化け屋敷で、別に怖いわけじゃなくて金を払ってびっくりしたくないから入るのを避けるだけなのに、怖がりだと思われてしまうこと、これは心外なのだ。
長距離短距離
今日は自分のことについて書く。昔から、長距離走は苦手であった。長い距離を走ることの何が楽しいか分からないし、きつい思いをしてまで同じところをグルグル回ることに意義を見出せなかった。逆に短距離走はそのころから割と速く、陸上部にスカウトされたりもした(朝練が嫌で入らなかったが)。そもそも自分は先天的に、短距離向きであって長距離向きではなかったのだと思う。練習もせず短距離が速かったので、能力的にも短距離には向いていたようで、長距離についても同様に能力的に向いていなかった。思うに、先天的である、という言葉には2種類あるようで、それは、性格的なものか、能力的なものか、といったことだ。先天的に性格が短距離向きであるが能力的には長距離向き、というアンバランスなケースも存在することだろう。だがこの場合、短距離の能力を修練により向上させることができるはずで、将来的には短距離向きかつ長距離向きに育つ可能性がある。そう考えると、自分の分かりやすいケースは、ポテンシャルが短距離に限定されるという意味で比較的損であるなあと感じる。