怖い映画を観たいとの娘たちからのリクエストに応え、帰省時に郡山に持参していたDVDを持って帰った。
エクソシスト、久々の鑑賞。いや、ディレクターズカットは自分としてもしっかり観るのは初めてだったかもしれない。
エクソシスト/ディレクターズ・カット版 THE EXORCIST: DIRECTOR'S CUT (2000)
監督:ウィリアム・フリードキン 製作・原作・脚本:ウィリアム・ピーター・ブラッティ 製作総指揮:ノエル・マーシャル 撮影:オーウェン・ロイズマン メイクアップ:ディック・スミス 編集:ノーマン・ゲイ、エヴァン・ロットマン 音楽:マイク・オールドフィールド、ジャック・ニッチェ
出演:エレン・バースティン、マックス・フォン・シドー、リー・J・コッブ、ジェイソン・ミラー、リンダ・ブレア、キティ・ウィン、ジャック・マッゴーラン、ウィリアム・オマリー、ルドルフ・シュントラー、バートン・ヘイマン、ピーター・マスターソン
俺が映画にどっぷり浸かる歓びを知るきっかけになったのは、他でもない、この映画の「存在」だった。
元々怪獣好きから妖怪及び異形なものに興味を持っていた小学生の俺は、永井豪の「デビルマン」をきっかけに「悪魔」にも興味が広がっていた。
加えて実は劇中ではさほど使用されていなかったマイク・オールドフィールドの有名な曲「チューブラー・ベルズ」をラジオで聞き、当時無茶苦茶話題になっていた“オカルト映画の決定版”のこの映画に興味津津だったのだ。
当時のことはブログを始めた初期に書いたこれまたお気に入りの「ヘルハウス」の記事に記したからそっちを見ていただくとして
これを観た中学生当時、難しかったブラッティの原作を頑張って読んだり、聖書を手に入れたり、岩波新書のだったかの宗教学の本でキリスト教での悪魔は異教の神様のことなのだと知ったりと、大いにはまったことも懐かしく想い出した。
本当に久しぶりに観たのだが、ファッションや電話、医療機器等に古さは感じるものの、映画そのものの力はまったく衰えていないことに感心。
現に、初見である娘2人&かみさんも、有名なスパイダーウォークや、サブリミナル気味に挿入された悪鬼の形相や、凄まじくなっていくリーガンの顔、これまた話題だった180度回転する首や、吐きだす胆汁などのショックシーンにひゃあひゃあ言いながらも
日常をじわじわ侵食していく「悪魔」という名の非日常というこの映画の持つ本質の怖さを堪能していたのは確かだった。
「ホラー映画」という十把一絡げの名称もまだ無く、鮮血が飛び散り、ある意味記号的に様々な方法で人が殺されていくスプラッター映画の流行はもう少し先になるこの1973年(あ、ディレクターズカットは2000年か(笑))。その後の即物的なショックやグロさの表現の先鞭をつけた感もあるが、この映画の怖さはまったく質が違うと改めて思った次第。
思春期の不安定さかと思われた娘リーガンの様々な症状が、どんな医学的検査でもはっきりしないどころかますます酷くなっていく息苦しさ。
女優でもある母親クリスの焦燥が、親になってから観ると凄く分かるのだ。これだけで充分怖いのも新発見だった。
想い出したことがある。下の娘がまだ幼稚園の頃の話だ。
積極的でしっかりしていると誰にも言われていた下の娘が、年中になってから、寝ついてしばらくすると泣きながら起きてくることがたびたびあった。
下の娘は家での遊びでも姉を仕切ろうとするくらいリーダーシップを発揮するタイプだったが、年中くらいになると皆が社会性を身につけ、お友達が娘の仕切りに異を唱えるケースもでてきだし、そうした不満や、我慢したことが夢になって出てきているのだろうとかみさんと話していたものだった。
しかしそのうち「怖いよおーっ!!」と叫びながら泣いて起きるようになってきた。
最初は怖い夢でも見てるのかと優しくなだめてまた寝かしつけていたのだが、ほとんど悲鳴に近いような物凄い声で起きてくることが続き心配になりだした。
ある日、同じように泣いて起きて、パニック状態になっていたことがあった。
寝ぼけているのもあったと思うが、視線の定まらぬ目で「あれが!あれが!」とあらぬ方向を指さされた時には正直ゾッとしたものだった。
余りの凄さにこちらも怖くなってしまい、普段なら「大丈夫だよ」と抱きしめていたのが、かみさんさえもなだめるというより「しっかりしなさい!」と声を上げたくらいだったのだ。
幸いそれ以来いつの間にかこうしたことはなくなっていったのだが
娘がまるで別のものになってしまったような恐怖感+「あれが!」と天井を指差した時の恐ろしさは、今思い出しても鳥肌が立つくらいだ。
長い想い出話になってしまったが、そんなことを経験してから再見したこの映画の怖さは格別だった。
日常が日常でないものに侵食されていく恐怖。愛するものが別なものに乗っ取られてしまう恐怖。
科学では説明できないオカルト現象そのものより、この2点がこの映画の持つ普遍的な迫力であるように思う。
加えて、カラス神父の苦悩もまた身に染みるのである。
信仰への迷いに加え、死に目に会えなかった母親を使って突いてくる悪魔パズズの卑劣さも、以前観た時よりよほど恐ろしく感じられた。
酒もタバコもやり、仕方が無いとは言え母親を放っておいてしまうカラス神父。逆にリーガンを放っておいてしまうクリス。クリスの執事?をドイツ人=ナチスとして蔑む映画監督。極悪人ではないけれど小さな罪を背負った普通の人々が悪魔に翻弄される物語としても十分怖いのだ。
フリードキン監督の演出も、初見の時は悪魔に取りつかれたリーガンのショックシーンばかりに目が行っていたのだが、
あの血液検査でのピュピューッと飛び出る血や、サングラスで隠されたクリスの痣、カラス神父の母親の細い腕に食い込む拘束紐など「痛さ」を感じるショットにやたら目が行ってしまった。
枯葉が舞い散るジョージタウンの風景。地下鉄の駅を上ってくるカラス神父。ポスターの図案にもなっている、メリン神父がリーガンの家を訪れる時の逆光シルエットの芸術的ともいえる寒々しさも最高だった。
芸術的と言えば当時40代だったマックス・フォン・シドーの老人演技(&ディック・スミスのメイク)も凄い。当時は爺さんだと信じていたものなあ(笑)。
この映画のこけおどしでは無い怖さ(&こけおどしも(笑))は、やはりあの時代ならではなのかな。
決して高尚ではないが、ずっしりとした「映画表現」を堪能できた夏の日の昼下がりであった。
手触りは大きく違うが、大好きなジョン・ブワマン監督による続編とか、これはこれで恐ろしかった原作者ブラッティが監督した3とか、未見の「ビギニング」も観たくなってしまったのである。