都会の孤独とナルシズム「ミスター・グッドバーを探して」 | 流浪の民の囁き

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映画を通した過去・現在・未来について、なぐり書き

可憐で清楚な悲恋からすると、こちらは都会の孤独からの脱出みたいに、自分の欲求不満

解消には「ミスター・グットバー」が必要という・・・、女性の内面の寂しさやその一方で享楽的

に生きられぬ自分のジレンマに、過去が追い討ちをかけ・・・。

「みじかくも美しく燃え」から十年で女性の内面は変わっていったのか・・・。




グットバー

http://jp.youtube.com/watch?v=sf6_9DMJQ_A

「ミスター・グッドバーを探して」  七十七年公開作


原作を書いたジュディス・ロスナーという女性は、バツ一の子持ちでこの作品を金のために書いた

と著書に対するインタビューで答えている。

そしてまだそれ程、性道徳が乱れる前の頃であり、「夜な夜な男漁りの女教師」というショッキング

な事柄から、本は売れ映画化になったものだが、ヒントは三面記事の実在の事件に、女性特有の

ナルシズムをあてがえば、都会の孤独とかセックスの時絶頂に達せないもやもやとか、麻薬の力

とか、巧い具合に自分の内面の弱さを、外に求め自分の心の充足は、どうしたら得られるのだろう

と悶々とする。

だから結婚を望まず、子を望まず、不妊手術を行なってしまうとか、男を消耗品としか見なさない

人物像を描いてしまうと、こういったどこか暗さのある背景とやり切れぬ鑑賞後の脱力感が生まれ

てくる。

都会の孤独とか、幼少期の小児麻痺とか、姉の奔放さへの憧憬と嫌悪という反する気持ちのゆれ

等は、ダイアン・キートンが良く演じていて、十分に分かるものだが、如何せん欠落しているのは、自

己犠牲を強いるべき教師という仕事からの倫理観が抜けおいている。

といっても、あちらでは仕事とプライベートは別と考えていれば、切り替えが付けばそれも良しなんだ

ろうが・・・。

だからこの映画には「愛」という普遍の誰でもイメージする映像が生まれてこない。

あるのは欲望に対して素直に従う意識の停止した動物的感覚・・・。

「愛は静けさの中に」という映画でも書いたが、言葉でない男女の愛情表現を誰しも「美しい」という

言葉に表すものが、この映画にはなく・・・。

というか、これを書いてみたいと思ったのは、やはり秋葉原の事件での犯人の続報が、凶行に及ぶ

心理的面で、原因をすべて外ら求めている。要するに「身勝手」な犯人像としている。

それだけに被害者の気持ちも浮かばれなくなる。

この映画の暗さの根底にあるのが、母性の欠落であり、子孫繁栄とか未来志向は絶滅している点で

女性は共感出来る部分があるとなるが、批判はないでは少々ナルシズム過ぎると思うわけだ。

そういえば日本でも「専業主婦」を槍玉に上げて批判している女性がいたが、女性が本来持っている

未来を切り開く能力を行使しないのが良くて、行使して家庭を守るのが批判の対象となる。

とんだトンデモが、時代の潮流に乗り・・・。

しかし今では、行き過ぎたフェミニズムも批判の対象となり、何よりナルシズムも嘲笑される。

にしても、この映画のラストはまるで死ぬことで何か解放されたかのような笑顔を見せて終えるやり方

は、原作と著しく違い原作者も折角回帰した女性の内面を否定されてしまったのには、売ってしまった

権利を悔やんだことだろう・・・。


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Amazon.co.jp 「ミスター・グッドバーを探して」がないようなので、これとは皮肉な
                 題名の映画を・・・。
                           といったところで、またのお越しを・・・。