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圭一ブログ

圭一のブログです。1984年宮崎県生まれ

僕が考えなくちゃいけないのは、ゾンビの続きのことだ。

実は、前回の記事みたいに筋道立てて文章にすることはできないけど、僕は今「ブラックホール」というモチーフにも注目している。直近の芥川賞を受賞した「穴」の存在や、とても簡単に物語に出てくる「世界の終り」。などなど。

ゾンビとは、ブラックホールが具体化したものでブラックホールは、ゾンビを抽象化したものと言い換えることができる。

ブラックホールとはつまり、世界の終りが矮小化・パッケージングされてしまったということだ。

ブラックホールが存在するならば、ホワイトホールのことを連想してしまう。
別に連想する必然性はないのだが、ブラックホールの向こう側には何があるか? と考えたときにホワイトホールの存在に頼らざるを得ないのが、僕の能力の限界なのだろう。

ホワイトホールとは、虚数のこと。
そして虚数とは、「ゼロ」が規定できない、未知の物差しのこと。
すなわち「世界の終り」の向こう側には「未知の物差し」があるはずだ。

だけど、実際にはない。
理論上、つまり言葉を尽くしたときに、存在の可能性が見つけられるだけだ。

マイナス1個のリンゴ。そんなものは実際にはない。
「マイナス1個のリンゴ」という言葉(理論)が生まれたときに、同時に生まれる概念が虚数であるからだ。

もしかしたら、マイナス1個のリンゴがどこかにあるのかもしれない。あくまで一つの可能性として。
万が一、あったとして、それを僕たちが認識することはできないだろう。だってそれは虚数なのだから。

この「虚数」を、たとえばゾンビみたいに、具体的なイメージにすることはできるだろうか。

思いつくのは、パラレルワールド。
いや、これは概念のようなものだから、具体的なイメージとまでは言えない。

生きている人間が認識することはできない幽霊、というのはどうだろう? いわゆる死後の世界ってやつだ。
これはたぶん、SFというジャンルの領域を出ない。

「世界の終り」の後に訪れる世界、というのはどうだろう。
いやそれは、僕たちの世界と全くつながりがない。言葉通りに受け止めても。だって虚数だから仕方がない。

そもそも「フィクション」自体が、現実に対する虚数のような存在だ。
「フィクション」の中で世界が終わる。
これは、フィクションと現実の垣根が取り払われた、つまりゼロを規定したということになるのではないだろうか。

そのあとには何がある? 何もない、というか、最初に戻るだけだ。
循環していくだけ。

「物語」の創造力・役割は、限界に来ているということか。特異点。

ありえないものが存在し、ありえないことが起こる世界。それでいてフィクションではない世界。それは狂人が見ている世界だ。

又は、日常をハッキングするものの存在。宇宙、宇宙人。違う次元からの干渉。またSFだ。

フィクションとノンフィクション、現実とSFの2軸で、物語を4つの象限に分けてみる。
そうすると、現実とSFって軸が、虚数軸だということが判明する。
物語の力は虚数軸だ。なんだか当たり前の話に戻ってきてしまった。

要するに、もう一回源氏物語を書け、とかそういう話か?

いや待て。ブラックホールっていうあたりから話がおかしくなってきている気がする。
ブラックホールはただのブラックホールという言葉でしかない。

書きたいものを書けよ!!



最近漫画を読んでて思ってたこと。

ヒットしている作品って「ゾンビ」をモチーフにしているのが多くないか?

具体的には、こんな感じ。
 ・進撃の巨人
 ・魔法少女まどか☆マギカ
 ・亜人
 ・東京喰種
 ・極黒のブリュンヒルデ
 ・アイアムアヒーロー

1.ゾンビの定義

まず、ゾンビとは何か? ここでは、以下のように考えています。

 ・「生ける屍」であること~ もっともオーソドックスなパターンは、死体なのに動いている状態。その際、理性や記憶を失っていることも多い。また、明確に死んでいるのではなく「死んではいないが、生きてもいない状態」という複雑な状態や、単に不死も含む。

 ・生物として、人類とは明らかに違うポジションにいること~ たとえば、人間を食べるということ。趣味的な食人は除いて、食物連鎖の頂点であるはずの人間よりさらに上にいるということだったり、なにか理由があって人間を食べなければならない、というパターン。また、超能力のようなものを有していることも含む。

2.各作品のソンビ要素

それでは各作品についての考察を。以下大量のネタバレを含みます!

・進撃の巨人
 主人公のエレンは、肉体を巨人に変化させる能力を持っているが、変化している間は肉体を自由に操ることができなかったり、その間起きたことを忘れてしまったりする。言わば巨人であると同時に「生ける屍」になってしまう。一方副主人公のミカサは、高い身体能力を持つが感情に乏しい女性で、幼いころエレンに救われた過去から、エレンを守ることを使命とする(最優先にする)という設定があり、これも一つの「生ける屍」状態と言える。
 また、敵=巨人は人間を食べる。

・魔法少女まどか☆マギカ
  主人公をはじめとする「魔法少女」は実は死体が魔法によって動いている状態であり「生ける屍」そのもの。敵=魔女は、エネルギーを使い果たした魔法少女が意識や感情を失った代わり、さらに強大な力を持った存在。
 また、敵=魔女は人間(の精神エネルギー)を食べる。
  
・亜人
 亜人とは、人類の中に現れる決して死なない新生命体。死ぬと即座に蘇る。
 人間は亜人を実験動物扱いしており、作中では亜人と人間の対立が描かれている。

・東京喰種

 喰種(グール)という存在は、人間に非常に似ており正体を隠して社会に溶け込んでいるが、身体能力や回復能力が人間の数倍あり、人間を食料とする。主人公は人間からある日突然「喰種」になってしまった特殊な存在。作中では喰種と人間の世界を揺れ動く主人公に焦点があてられる。

・極黒のブリュンヒルデ
 仲間の魔女たちは、超能力を持っている女の子だが、その正体は人間ではなく、体に埋め込まれた宇宙人が人間の体を借りている存在である。その体も、薬を飲み続けないとドロドロに溶けてしまう。主人公は人間だが、その魔女たちを守ろうとしている。
 戦っている敵も、魔女=宇宙人=ゾンビである。(そしてそれは人間を食うらしい)

・アイアムアヒーロー

 主人公の周囲の人々(というか世界全体)が、ゾンビのような食人鬼と化す謎の奇病に感染してしまうパニックもの。
 敵=当然ゾンビ

まだ完結していない作品ばかりだけど、それぞれの作品の主なテーマは、おそらく作品ごとにまったく異なっている。ではなんでこんなに「ゾンビ」っぽい設定が共通しているのだろう?

これらの作品は、いわゆるホラー映画の「ゾンビもの」をやっているわけではなく、ソンビというモチーフを用いて、なにか別のものを扱っているのではないか?

3.ゾンビで読み解く、各作品の構造

以上の作品を、ゾンビというテーマでちょっとグループ分けしてみよう。

・「主人公がゾンビであり、敵もゾンビ」というパターン
 進撃の巨人、魔法少女まどか☆マギカ


・「主人公がゾンビであり、敵は人間」というパターン

 亜人


・「主人公も敵も、ゾンビと人間の中間のような存在」というパターン
 東京喰種、極黒のブリュンヒルデ


・「主人公は人間であり、敵がゾンビ」というパターン
 アイアムアヒーロー


こうして整理してみると、アイアムアヒーローだけが「普通の」ゾンビものであり、それ故に他の作品とは異なっていると言える。しかし物語の中では、主人公たちだけでなく人類全体がパニックになり社会は無秩序状態に陥っていて、主人公たちは「特別」な存在ではなく「普遍的」な存在と言えるので、やっぱり人間がゾンビ化している……と言えるのかもしれない。

これらの作品の共通点を、「ゾンビというモチーフ(設定)」 という表現から一歩踏み込んでみると、「人間が生きているのか死んでいるのか曖昧な状態(ゾンビ)になる=崩壊した秩序が前提となっている物語」ということができるのではないだろうか。

4.ゾンビとは何を象徴しているのか?

「主人公がソンビ」という部分が、キーワードである。作品の中で主人公がゾンビになるということは、読者側の世界、つまり読者もその一員になっている"人類”がゾンビになったということだ。

それは文字通りの意味ではなく比喩で、人間が生きているのか死んでいるのか曖昧な状態(ゾンビ)になるというのは、要するに人間という存在そのものの定義が覆されるということである。つまり、読者にとって一番痛い部分を突かれた、ということだ。

「自分のいるこの世界って、問題ない正常な世界だよね? 私の頭がいつの間にかおかしくなったりしてないよね?」という読者の潜在意識に働きかけるような設定を作品に盛り込むことで、「秩序が完全に崩壊してしまった」ということを象徴しているのだ。

私が最初に挙げた、ゾンビの二つの条件を思い出していただきたい。
 「生きた屍」であること、人類と違うポジションにいること。
これの逆の状態は、ずばり
 生きていること、人類であること。
という、最大とか唯一といってもいいような「秩序」である。つまり、ゾンビというのは徹底的に秩序の逆の状態を表しているのだ。

5.結論

つまり、秩序が崩壊していく(社会がパニックに陥ってしまったり人類が滅んでしまったりしそうで、主人公たちがそれを阻止する)ことがストーリーの主軸になっているのではなくて、すでに秩序がこてんぱんに崩壊してしまった(してしまうことが決まっているかもしれない)という前提で、それぞれのストーリーが進んでいくということがこれらの作品の共通点なのだ。

そして、その秩序が、最初から崩壊してしまっているのがアイアムアヒーローや亜人であり、徐々に崩壊していくのが進撃の巨人、魔法少女まどか☆マギカであり、崩壊するかしないかの危うい綱渡りをしているのが、東京喰種、極黒のブリュンヒルデだということができる。この違いはそれぞれの作品のテーマと深くかかわっている。

敵(対立軸)がそれぞれソンビ、人間、その中間という違いに目を向けると、それぞれの作品のテーマがより明確になってくる。

ゾンビと戦う作品(進撃の巨人、魔法少女まどか☆マギカ、アイアムアヒーロー)は、作品中の世界がなぜこうなってしまったかを解き明かすことが物語の大きな流れとなっていて、これは「秩序をどうやって取り戻すか」を描いているのだということができる。

一方、人間と戦う作品(亜人)と、主人公も敵も、ゾンビと人間の中間のような存在の作品(東京喰種、極黒のブリュンヒルデ)では、「秩序とはそもそもなにか?」を描いているのだ。

ここで、ゾンビではなく秩序というキーワードで他の作品に目を向けると、やはりテラフォーマーズやデストロイ、自殺島など、「秩序と非秩序の葛藤」をテーマにしている作品がとても多い、という気がする。

現在は、そのような形の物語でなければ、成立しないような時代なのだろうか。
ああそうかきっと僕たちは筋金入りの差別主義者
同じ眼の色肌の色でも似た者同士でなければ
最低限の優しささえ期待できないね
傷つけられたら傷つけ、みっともないほどの誠実にも無反応で
都合のいいお飾りだけ大事そうに手元に残し被害者面を決め込む
ポストは今日もからっぽで耳に残るのは汚い言葉だけ
どうせ離れたり近づいたりを繰り返すだけなのに
需要と供給の些細なずれで互いを殺しあってる
僕たちは都合のいい真実をつくり上げそのなかで暮らしてる
無数の偏見に埋もれたほんのわずかな花束が
信念の名のもとに踏みつけられ切り刻まれ朽ち果てていく
そんなあなたの心の内側に、平穏があってほしい
僕の居場所が永遠になくても、僕に見せた笑顔が残っていてほしい


オンラインなのに、MMOなのに、ちゃんとRPGなんです。ファイナルファンタジーなんです。

同時にたくさんの人がつながっているから、RPGの「主人公」が複数存在してしまうという矛盾。
FF14はこれをうまく克服しながらストーリー性を確保しているような気がします。
(MMOは他にラグナロクしかやったことないので分かりません)

とにかく、MMO RPGと従来のRPG(ちなみFF4~8までリアルタイムでドンピシャでハマってました)は別のものだと思っていたけれど、俺の知っているFFの延長線上だ!という感じ。そして着実に進化していると思う。
たとえば
 ・エンディングを見たらそこで物語が完結するのではなくて、ずっと続いていく(アップデートが繰り返される)=やりこみ要素が満載
 ・RPGなのに、友達と一緒に遊べる
 ・技術の進歩により、よりリアルになった(実写版にした場合にだんだん近づいていっている気がする)

それから、FF14に興味を持った理由のもう一つは、「冨樫義弘がこのせいで漫画を描かない」ということです。
冨樫の気持ちを理解できるまで遊ぼうと思います。

俺のスタート地点になったウルダハという町は、砂漠の中にある交易都市なのですが、貧富の差がとても激しくて、人種差別もあるし、汚い裏切りもあるし、行き倒れの死体とかもあるし、家族や恋人が死んで泣いてる人たくさんいるし……
ファイルファンタジーシリーズにふさわしい重厚な世界観です。

Ridilサーバーにいるのでよろしくです。

FF14

いい意味でも悪い意味でも「狂気の書」であると思った。AKBと宗教との対比、アーキテクチャとしてのAKB、といった論については、ただただ舌を巻くばかり。確かにAKBというシステムは、オウム・エヴァンゲリオン後の社会やコミュニケーションのかたちの縮図である。
前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)/筑摩書房

しかし「たかがアイドル」――しかも、資本主義におけるモンスターよろしく大規模な搾取を続けている商品に対して、この国を代表する批評家が評価を与えている理由について、私が納得いくような回答は得られなかった。


筆者は日本のサブカルチャーやアーキテクチャの専門家であり、アイドルという卑俗なモチーフを扱いながらも有名な学者の言を引用しながら論を進めたり、自らの専門分野から鋭い指摘をしたりと、内容のおよそ半分は冷静な態度であった。しかしAKB自体に論が移ると、意図的かどうか分からないが明らかに冷静さを欠く。そして最も肝心な、「人はなぜAKBにハマるのか」という点については、偶然性によって出会った(一目惚れした)「推しメン」との疑似恋愛でしかないと言う。

ただただ納得するしかないが、じゃあ「普通に恋人を見つければ?」というツッコミ一つでこの本の価値は裸の王様になってしまうであろう。

もちろん恋人や配偶者がいてAKBにハマっている人もいるだろうから一概には言えないが、少なくともAKBを「恋愛弱者」の側から語るのか、そうでない側から語るのか、そのことで何か変わるのか、ということはかなり大きな問題であると思うので死生観云々よりもそっちを重要視してほしかった。

大体、偶然性によるつながりを量産するシステムってそんなに新しいのだろうか? 濱野智史氏には、世界の中でも安全かつ多様に発達した、日本の性風俗産業にハマってもらい、同様の規模・視点から一冊書いていただきたい。皮肉でもアンチでもなく期待を込めて「マジ」で。