何処かで彼は見ているだろうか? このブログを。 突如消息不明となったC@nonK。 もしドコかで生きているなら連絡をください。 突如姿を消したこと、連絡が取れないことなどは水に流します。気にしなくてOK。 音信不通となってから、だいぶ日が経つけどこの世に音楽がある限り、君との友情、君への思いは消えることはありません。 今朝の通勤のBGMはカニエのスルーザワイヤー、君とプロデュースしたあのパーティーの光景が甦り、無性に君に逢いたくなりました。 遠く離れようとも、連絡が取れればいつかまた、きっと一緒に音楽を、シーンを創り出せるはず。 連絡を待ちます。
- 前ページ
- 次ページ
はいっ。Dj canon Kです。今回はクイーン・オブ・ヒップホップ・ソウルと名乗りデビューしたメアリーJのお話しです。確か92年頃?のデビューだったと思いますが、クイーン・オブ・ヒップホップ・ソウルと名乗りデビュー。当時はヒップホップ・ソウルとはなんぞや?と思いましたが、簡単に言うとヒップホップのトラックで歌うって事らしいです・・・・。確かにメアリーJのデビュー後のR&Bの多くは、H-Hよりになってきた感じがしますね。H-Hよりになったというか、いい意味で境目が曖昧になったって感じですかね。そして、その後メアリーJとメソッドマンだったり、SWVとウータンだったりとR&BとH-Hの密接な関係は、セールス的にも音楽的にも成功を収めたと言えるんじゃないでしょうか。ちなみに個人的にはメアリーJの1・2枚目のアルバムは一家に一枚だと思います。もちろん音的にも必聴ですが、90年代のR&BとH-Hの歴史を知る上でもキーになるアルバムだと思います。
90年代ブラック・ミュージックが本格的に覚醒し始めたそのきっかけともなった曲。ヒップホップ・クラシック“AUDIO TWO/Top Billin”を下敷きにしたヒップホップ+R&Bという斬新なニュー・フォーマットは瞬く間に広がり、俗に言う“ヒップホップ・ソウル”というムーヴメントを生み出した。エクゼクティヴ・プロデューサーはショーン‘パフィ’コムズ。
all about より
mixの定番、シュガーソウルなど邦楽アーティストもカバーしている。 昔、仙台にてm-flo(まだLISAが在籍の頃)のライヴに行ったときもそう言えば使われてたっけ・・。 h-hの女王と言えばやはり彼女のことだろうか?
塾長
はいっ。Dj canon Kです。風邪をひいたみたいで4日間程寝込んでました。みなさんも体は大事に・・・・。
今日のお題は趣味・・・。この情報が溢れている現在、皆それぞれ多種多様な趣味を持っている事だと思います。中には無趣味が趣味だって言う人もいるでしょうし・・・。(笑) その多種多様な趣味の中ドンピシャだったのが塾長でした。まだ仕事上の付き合いしかなかった二人が何故ここまでになったか・・・・。当時は塾長の会社は、私にとって取引先の一つでした。(取引先の一つと言っても大口のお客さん、しかも塾長は「長」がつく立場の人。)その時もいつもと変わらず、なにげな~い・半分どうでもいい仕事の話をしていました。その時、私の携帯電話が鳴り出しました。いつもならマナーモードにしておくのに、その時はたまたまマナーモードにするのを忘れてしまって、シャニースのI love your smillが軽快に鳴り出しました。自分の中では「ハアァ~やっちまったぁ~」って感じでした・・・。それを聞いた塾長は「シャニースのI love your smillじゃん」と・・・・。自分自身「おっ」って感じでした。何故ならフツーの人はこの曲を聞いてもシャニースのI love your smillって思わないですからね。日産のCMの曲じゃん!で終わってしまうわけですよ。実際今まではそんな事が多々ありましたからね。そこからはとめどなく、話が尽きる事なくH-H・R&Bについて話が盛り上がり、現在に至るといった感じです。今まで全く異なる場所で時間を過ごしてきた二人が、同じ趣味と言うだけで、ここまで近くなるものなんだと・・・。十年前・・・。十年と言う「時」は塾長にとっても私にとっても十年と言う「時」に違いはないけれど、福島と名古屋という何百キロもはなれた異なった土地で自分と同じモノを10年間好きでいた人に出会える確率・・・・。もう二度とないかもしれません・・・・。実際H-H・R&Bが流行った10年前はH-H・R&Bが好きだって人がたくさんいました。ただ、現在までずっとって人は案外少ないんですよね・・・・。お互いがこれからも「音」とこのブログを通して成長できますように・・・・。お互いおっさんになってもずっとH-H・R&Bを愛してますように・・・。
さて、もしこのブログに読者がいるなら申し訳ないが、私はDJ程知識が無いので薀蓄を綴れません。 今回はタイトルのDJ C@nonK について。
DJ C@nonK との関係は、仕事上の取引先。 最初に出逢ったのはいつだろう。 そんなの記憶に無いくらいファーストインプレッションはお互い薄かったはず<笑 どんなタイミングだったかは忘れたが、たまたま音楽の話になったら、そりゃぁもぅドンピシャって感じで! お互いが口にする好きなアーティストや楽曲がモロにハマって意気投合しちゃったんだよね。 R&B H-H そしてmixがダイスキな自分だけど、ターンテーブルやミキサーも持ってなければ技術も無い。 レーベルと言う垣根を外したオリジナルの自分の好きな楽曲だけを使用したmixを昔から作りたいと思っていた。 デジオン(PCの音楽編集ソフト)を買ってみるもやっぱりmixはアナログなんだよ、レコードなんだよ。※後にこのデジオンをDJはしっかり使いこなしてしまうのだが・・・・・。 そんなこんなで、彼が営業に来る度に仕事そっちのけで音楽の話。 そして遂に彼は、私の要望を聞き入れ、mixを完成させてくれたのだった。 あの時の感動は忘れない。 何度も何度も繰り返し聴いた。 飽きるほど・・・<苦笑 今年の4月 同僚の結婚式の2次会の幹事を頼まれたので、DJブースのあるお店を探した。 結婚式の2次会の幹事の立場を利用する訳では無いが、PARTYみたいなものもやってみたかったのね!! もちろんゲストDJは C@nonK !! 久々のライヴプレイだったそうだが、ブランクは感じさせず大盛り上がり! 2次会は見事に大成功だった☆ 特に俺自身は幸せの絶頂。オルガスムスに達した感じだった。 2~3作のサンプルとPARTYのプロセスを経て、遂に満を辞して きちんとジャケもプリントした1作目(http://djcanonk.xxxxxxxx.jp/ 参照)をリリース☆ たくさんの人から良い評価をいただいた。 DJ C@nonK との出会いを神に感謝する。 彼と友であることを誇りに思う。 その彼はもぅすぐ実家のある名古屋に帰るという。 その事実を知ったときには大変ショックだったが、またこれも宿命。 これだけ通信の発達した時代だ、彼とのキズナが途絶えないことを心から祈る。 2作目 3作目とまだまだ俺たちにやらなくてはならないことが残っているのだから。 by 塾長
最近、久しぶりにビルボードを見ました。かれこれ5年は見てませんでしたね。まぁ、洋楽ランキング番組なので、5年見なかったからと言って特別変わってはおらず、目新しいものもありませんでした。(笑) ただ、おもしろかったのはYESTERDAY HITSというコーナーでパフディディーのI'll be missing youがながれた事ですね。懐かしい!の一言でした。確か彼は途中からショーンPディディーコムズ??とか言う堅苦しい名に改名したんでしたっけ??COMMONみたいにCOMMON SENSEからSENSEが取れただけなら分かり易いのに・・・。。(笑) 古い私は未だにパフディディーと言ってしまいます。まぁ、そんな事はさておき、I'll be missing youなんですが、ご存知の通りポリスのあの名曲を使った、ビギーの追悼歌です。通常の流れだと、この曲の話になると東西抗争・2pacとビギーの死・ビギーの妻のフェイスエバンスの話になるのですが、今回はスルーします。なぜなら、この事についてはたくさんの本にも書いてあるし、ネットで検索すれば腐るほどでてきます。そして何より未だ真実が分からないという事実・・・・。後日、気が向いたら自分の感じた事として書くかもしれませんが・・・・。一つ言えるのは、自分は当時学生でしたが、とにかく2pacとビギーの死については悔しかった・・・。
さぁ、パフィーの話に戻ります。彼はここでも大儲け。あのネタ使って、当時勢いのあったbad boysの面々が参加して売れない訳がないですもんね。もうこの辺りから、H-H・R&Bは商業的な物へと変わっていってしまったんですよね。彼の功績はH-H・R&Bを世間に広めた事、功罪としてセールスを意識するあまり、音楽の質以上に、プロデューサー・参加メンツを重視するという商業的なものへと変えてしまった事ですね。
ただ、責任は私達リスナーにもあったんじゃないかと思います。自分も、当時メソッドマンのI'll be there for you がRIMIXでメアリーJが参加し、パフィーの手が入ったと聞いた時にはレコード買いに行きましたもんね。(笑) 思いたくないですが、H-H・R&Bの衰退は一般的な音楽になってしまった時点で、どうにもならない事だったかもしれませんね。よく言われるのが、大体90年から98年頃までの約8年間がH-H・R&Bの黄金期、その中でも94・95・96年は当たり年だと言われていますね。当たり年の97年以降は先程書いた通り、より商業的なものとなり、セールス的には上昇して行くものの、音楽の質としては逆に下降していく事となってしまった・・・・・・・・・・・・・・・・・。
はいっ。Dj canon K です。本日は、塾長のTotalの記事にチラッと登場したDa bratのお話し・・・・。Da bratの曲を初めて聴いたのは・・・。10年以上前だったかなぁ・・・ funkdafiedという曲でした。この曲、大ネタ中の大ネタである、アイズレーのbetween the sheets使いの曲なんです。ご存知の通り、between the sheetsを使った曲は数え切れない程ありますが、その中でもビギーのbig poppaみたいな「いかにも」っていう感じとは異なり、比較的ゆる~く使ってるって感じが好きですね。昨日も書いたように、この頃は女性グループ全盛期と言うこともあり、まだ女性ラッパーって少なかったんですよね。当時は物珍しさってのもありましたが、このアルバムは捨て曲なしでしたね。まぁ、一家に一枚とはいいませんが、聴いておくべきアルバムです。
はいっ。Dj canon K です。前回塾長からTotalの話がありましたが、90年代はH-H・R&Bの黄金期と言われますが、女性グループの黄金期でもありましたね。有名どころだと、SWV・TLC・brown stone・braxtons・en vogue・kut klose・allure・etc・・・もちろんTotalも・・・。しかし、残念な事に女性グループも2000年以降はめっきり数が減ってしまいましたね。個人的に質が高いなぁ~って思ったのは、brown stoneですかね。If you love meを聴いた時は鳥肌ものでした。Dj的に使い易いのはSWV・TLCですかね。TLC・・・・・。ホント懐かしいですね、crazy sexy cool これもAround the wayと同じで、一家に一枚必要です。(笑)
■なんとなく耳にしたことはあったが、初めてまともに聴いたのは義理の妹の結婚式だった。
塾長よりR&B H-H馬鹿の妹夫婦。 挙式の中で自分たちの小さい頃のフォトスライドショーのBGMとして
この楽曲を起用した。まさに自分も含め、観る物の心に染み渡った。 それ以来、この曲がダイスキになった。
■元ネタはチャカカーン、 カニエ~が幼少の頃 事故に遭ったときにこの曲を聴き、後々にサンプリングを
したそうだ。
■Kanye Westのプロフィール
Kanye West(カニエ・ウエスト)は、シカゴ出身のプロデューサー/MC、同郷のNo I.D.
(ノー・アイディー)のもとでプロデュースを学んだのち、NYに活動の場を移す。その後、2001年にJay-Z
(ジェイ・ジー)の大ヒットシングル「I.Z.Z.O.(Hova)」のプロデュースで名を上げ、その後もCommon
(コモン)、Twista
(トゥイスタ)や、Alicia Keys(アリシア・キーズ)、Brandy(ブランディ)など多数のアーティストを手掛けてトップ・プロデューサーの一人として活躍。また、ソロアルバムもリリースしている他、自身のレーベルであるG.O.O.D.(Getting Out Our Dream)を設立してJohn Legend(ジョン・レジェンド)、Consequense(コンシークエンス)等の作品をリリース
。


