絶歌、という本について、


昨日テレビを見ていたら、表現の自由の観点から、この本の出版差止や販売規制、または図書館に置かないなどの行為は望ましくない、とコメンテーターが言っていた。



アホか、と思った。



実は知人より少しだけこの本を見せていただき、最後のあとがきのところだけを軽く見たのだが、


私はそこを読んだだけで、ぞっとした。



そこには、申し訳ない、としながらも、それでも、この本を書くことでしか自分の生を掴むことができなかった、というようなことが書かれていた。



当時と本質は変わっていない、と思った。



というのも、彼は手紙で神戸新聞社に書いていたが、


何度も自分の「存在」ということを書いていた。



引用する。



「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。」


「この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚される事には我慢ならないのである。」




本を出版した理由は、結局ここに尽きると思うのである。


要するに、世間に存在をアピールしたいだけ、なのだ。




だから、出版社は、犯人の犯行の片棒をついた、としか思えなかった。




遺族の気持ちを考えることなく、


自分が生きるためにどうしても書かなくてはならないから書くというのは、


殺したいから殺すというのと何も変わらない。



つまり、何も変わっていないのだと思う。




出版社は、どうかしている。


私なら、ビジネスとはいえ、このような戯言には付き合わないからだ。



たしかに、表現の自由云々を言うのであれば、民主主義を支える価値として尊重しなくてはならない。


しかし、このケースについては、表現の自由という論点で語る話ではない。


出版社が出版しなければよいからだ。



どうしても書きたいのなら、今の時代、インターネットでいくらでも書くことはできよう。


本として書く必要があるとしたら、それは金を稼ぎたいから、に他ならないのではないか。


出版社も筆者も、金が欲しかっただけなのだろう。




以上、すごく胸糞悪い話だ。