高校生はなかなか興味のわかない問題かもしれませんが、ここに2つの新聞社の見解を載せておきたいと思います。


まずは、愛媛新聞社



特集地軸2012年03月02日(金) ピンポン外交

http://www.ehime-np.co.jp/rensai/chijiku/ren018201203028500.html


朝鮮戦争以後、敵対していた米国と中国は卓球をきっかけに急接近した。1971年の卓球世界選手権。代表選手が偶然接触した縁で、米国選手団を中国に招待する話がまとまる▲


 世にいう「ピンポン外交」は、のちに米中、日中国交正常化の扉を開いてゆく。外交といえば政府要人が渋い顔をして交渉する場面を思い浮かべるが、平和裏な民の活動が国と国の間を下支えすることもある▲


 軍事や経済によらず、イメージ戦略や文化交流で相手国の世論に訴える「精神と心を勝ち取る外交」(渡辺靖「文化と外交」中公新書)が幅をきかす。自治体が海外の友好都市と続ける交流事業も今や国際社会の公共財とみてよかろう▲


 ゆえに、名古屋市の河村たかし市長の発言は場違いと映る。友好都市である南京市の幹部が訪問した折に「南京事件はなかったのではないか」と述べた。これが大虐殺否定ととられ、幅広い交流活動が中止される事態を招いている▲


 政治家が信念を語るのは結構。が、結果が問われるのが政治家だ。食い違う歴史認識をめぐって一方的な見解を示したところで、河村市長のいう日中討論会が実現しようか。名古屋市は中国公館の移転問題を抱えるだけに、慎重を期す時期でもあろう▲


 歴史的なピンポン外交の舞台が名古屋だったことを忘れたわけではあるまい。市長発言は誰の心と精神をとらえたか。





以上。、次に、産経新聞社。



河村氏の南京発言 これで問題視されるとは 2012.2.24 03:05 (1/2ページ)[主張]

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120224/lcl12022403050000-n1.htm


南京事件をめぐる河村たかし名古屋市長の発言をめぐり、姉妹都市関係にある中国南京市が名古屋市との交流を当面中止すると発表した。「河村市長は南京大虐殺の史実を否定、南京人民の感情を著しく傷つけた」との理由からだ。


 中国外務省のアジア局長も、杉山晋輔外務省アジア大洋州局長に「歴史の歪曲(わいきょく)」と強い不満を表明した。


 歴史問題をめぐる中国の理不尽な対応は今に始まったことではないが、日本の政府やメディアまでが中国側に立って河村氏を批判しているのは理解に苦しむ。


 問題にされたのは河村市長が20日、名古屋市で南京市訪問団との面談で発言した内容である。


 河村氏は南京で終戦を迎えた父親が南京の人々から温かいもてなしを受け、お礼に桜の木をプレゼントしたことなどを話し、その背景について「南京事件はなかったのではないか」と述べた。


 断定的な表現を避け、極めて穏当な発言である。


 しかし、藤村修官房長官は「非戦闘員の殺害、略奪行為は否定できない」と河村市長の発言を否定し、「村山談話以来、政府の姿勢は変わっていない」と述べた。


 村山談話とは村山富市元首相が平成7年、先の大戦の要因を「植民地支配と侵略」と断じ、閣議決定もされた。だが、あくまで当時の内閣の歴史認識を表明したものであって、今回の河村氏の発言とは無関係である。


 メディアの中には、「南京事件については、日中共同の歴史研究がある。市長としての発言にはもっと慎重であるべきだ」「配慮が足りなすぎる」などと、まるで河村氏が重大な失言をしたかのような社説もあった。


 2年前に発表された共同研究では「南京虐殺」があったとの認識が示された。だが、それは研究に参加した日中の一部の学者の意見が一致したにすぎない。


 南京事件は昭和12年暮れから13年にかけ、旧日本軍が南京で多くの中国軍の捕虜や市民を殺害したとされる事件だ。中国は「30万人虐殺」を主張している。


 最近の研究で、「南京虐殺」や「南京大虐殺」は当時の中国国民党の一方的な宣伝だったことが分かってきた。政治的妥協の中で生み出された日中歴史共同研究などにとらわれない、実証的な学問研究の積み重ねが必要である。


以上。



新聞社によっても、このように、見解は全く違います。


私は、この件に関しては、産経の言うことが全うだと思います。しかし、なんでも産経が言うとおりかと言えば、決してそんなことはなく、TPPに関しては、産経の主張にはがっかりしました。


むしろ、TPPに関しては、赤旗新聞のいっていることの方が、全うだと考えるかもしれません(笑



読んでないですけど。



新聞の主張は、各社によってバラバラです。比較してみて、自分はどう考えるのか、考えを持てるようになることが大切じゃないかと思います。



自然科学と違い、社会科学は、自分の見解を持つことが大切です。それが教授の見解と異なっていても、全く問題ないのです。それが、社会科学の面白いところじゃないでしょうか。


そして、社会科学の面白いところは、自らの願望を社会に投影できる、というのもあると思います。


自然科学には、自らの願望を投影する余地なんてありえません。例えば、光より速いものがあったっていいんじゃないか、と考えたところで、無理なものは無理なのです。


しかし、社会科学は、例えば「私有財産を否定する社会を作ったっていいんじゃないか」と考えて、実現することが出来たりします。実際に、ソ連という国がその理念を実現しました。結果は失敗だったのですが、それでも、ソ連成立当時は、多くの人々の夢を希望を乗せていたことは事実です。




まぁ、世の中はいろいろな人が全うに思えるようなことを言っていますが、それらに左右されないように、だまされないように、自分の見解を持って、自分の信念に従って動ける大人になって欲しいと思います。