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【中部・北部】

米軍普天間飛行場のオスプレイ1機が8日午前8時40分ごろから同9時半ごろにかけて、キャンプ・キンザー(浦添市)とキャンプ・コートニー(うるま市)を含む中北部の米軍基地に飛来した。

両基地で離着陸が確認されるのは初めて。要人輸送に向けた訓練の一環とみられる。

浦添市は同日、沖縄防衛局と米軍に電話で抗議した。

同訓練をしたのは01機でで、いったん普天間に戻った後、午前10時10分ごろに再び離陸した。

同基地に近い普天間高校(宜野湾市)では、入学試験が始まる午前10時ごろまで米軍機の騒音が響いていたため、県教育庁を通じて2度申し入れた。オスプレイかどうかは不明。

金城正樹教頭は「全県で一斉に試験がある特別な日。せめて半日でも時間をずらすことはできなかったのか」と話した。

米軍は7日「来賓支援任務」のため午前9時同11時半まで飛行するといったん日本側に通知した後、 入試に配慮して午前9時55分までに終えると再度通知した。

浦添市に6日に入った連絡では、近く予定される米海兵隊幹部の来県に備えた訓練という。

キンザーには、浦添市屋富祖、宮城、仲西などの各地域の上空を通り、国道58号東側から着陸。

市当局は、「市街地上空の飛行は遺憾」と伝え、海側から入るよう再度申し入れた。

一方、四国で訓練していたオスプレイ3機は同日午後3時20分ごろ、普天間に相次いで着陸した。

嘉手納に外来機次々

【嘉手納】在韓米軍烏山基地所属のA10サンダーボルト対地攻撃機8機と、米カリフォルニア州のトラビス空軍基地の超大型長距離輸送機C5ギャラクシー1機が7日、米空軍嘉手納基地に飛来した。

CH46・ハリアー帰還

【宜野湾・嘉手納】8日午後、米軍のCH46中型輸送ヘリ4機が普天間飛行場に相次いで着陸した。

一方、嘉手納基地には垂直離着陸攻撃機ハリアー2機が着陸。

いずれも、タイで行われていた多国間軍事演習

「コブラゴールド」から帰還したものとみられる。

強襲揚陸艦ボノム・リシャールに艦載され、1月30日に、うるま市勝連のホワイトビーチから出港していた

沖縄タイムス 3月9日(土)

強そうな名前だが愛称はイノシシ

実際に強い

だが、さすがに近代戦は辛いが北朝鮮相手なら恐ろしい兵器になる。

そして、A-10は地上部隊を攻撃するしか能のない最強の攻撃機


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終戦時の昭和天皇の御聖断により、ポツダム宣言受諾の決定が下され、その速やかな停戦を行なうために、前線に皇族の方々が派遣される。

それは日本国始まって以来の敗戦という結果を受け止めるためには、皇族の方々が、天皇の意を伝えるという方法以外に、混乱なく戦争継続中の軍隊が戈(ほこ)を収める方法が無かったからであり、それ故、皇族という立場とその任務は重いもの。

竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より

最前線へ飛ぶ皇族たち

皇族男子が日本の降伏を知らされたのは昭和20年8月12日のことだった。

午後3時20分、在京する皇族男子全員が宮中の御文庫附属室に呼ばれた。

高松宮、三笠宮、賀陽宮(かやのみや)(恒憲王(つねのりおう)、邦壽王(くにながおう))、久邇宮(くにのみや)、梨本宮(なしもとのみや)、 朝香宮(あさかのみや)、東久邇宮(ひがしくにのみや)、稔彦王(なるひこおう)、盛厚王(もりひろおう))、竹田宮(たけだのみや)、閑院宮(かんいんのみや)、李王垠(りおうぎん)、李鍵公(りけんこう)の、各皇族および王公族十三方が沈痛な面持ちで身なりを正す中、 大元帥服を御召になった 昭和天皇が御出ましになり、正面の玉座に御座りになった。

そのときの 昭和天皇の御様子については、東久邇宮は、「天皇陛下は、お顔の色が悪くて、たいへんにおやつれになり、非常に神経質になっておられ、胸潰るる思いがした」と記し、また竹田宮恒徳王(つねよし)は 「天皇陛下は今迄拝したことのない程に緊張された御様子」「しばらくお目にかからない間に、なんと深いご心労を宿されたことか」と後に記している。

「陛下の御耳に雑音を入れないため」との理由で、戦争中皇族たちは、 天皇に拝謁することが原則的に禁止されていた。昭和天皇の弟宮だけは参内することが許されていたが、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)は結核を患って長期間療養をしていたため、天皇の前に進むことができたのは高松宮宣仁親王(たかまつのみやのぶひとしんのう)と三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう)だけだった。

またそのほかの皇族が何かの機会に陛下の御目にかかることがあっても、ほかのことは一切申し上げてはいけないと侍従から注意があったという。

そのため、この日呼ばれた皇族たちは久方ぶりに 天皇の謁を拝した。天皇の憔悴(しょうすい)なさった御姿を目の当たりにし、目を伏せた者も多かったという。

また当時侍従長であった藤田尚徳(ふじたひさのり)大将の著した『侍従長の回想』によると、昭和天皇の体重は通常17貫(約64㎏)であったが、終戦の時期には15貫(約56㎏)まで御痩せになっていらっしゃったことが分かる。

藤田によるとそれは「激務と御心労、それに食事の粗末さからくるもの」だという。

参集した皇族たちに対し 昭和天皇から、ポツダム宣言を受諾することにした趣旨について御話があり、(陛下は込み上げるものを、そっと胸に抑えておられるような御様子で、しかし、不動のご決意を込めて、しっかりと)

「私自身はどうなってもよいから、ここで戦争を止めるべきだと思う。そこで自分は 明治天皇の三国干渉当時の御心労を偲び、ポツダム宣言を受けて、戦いを止める決心をした。どうか私の心中を了解してくれ、そしてこれからは日本の再建に皆真剣に取り組んでもらいたい」

(竹田恒徳『終戦秘話』)

と御言葉を御続けになった。

それに対して最年長の梨本宮が代表して、「陛下の御英断に謹んでお従い致します。そして今後共国体の護持に全力を尽します」と奉答した。

召された皇族たちは全員軍人であり、戦争が最悪の局面に達していることを承知していた。

このときの昭和天皇のお姿に接し、皇族たちは次のように思いを綴っている。

「私は戦争及び終戦の御苦労の結果と、つくづく御同情申上げ、そしてー 何とかして、陛下の御安心のゆくようにしてあげたいーと、ひとり心に誓った」

(東久邇宮稔彦王)(東久邇稔彦『私の記録』

「ふだんはむしろ女性的にさえ思えるほど、お優しい陛下が、この日本存亡の際にお示しになった、不退転のご決意を秘められた荘厳なお姿を、私は生涯忘れることができない」

(竹田宮恒徳王)(竹田恒徳『雲の上、下思い出話』)

注:陛下の側に近づけなかったとあるが、真意はわからないが、当時の軍の上層部は天皇陛下をないがしろにして独断で決めていたと言う事を聞いたことがある。

結局終戦の時はさすがに自分達では決めきらなくて、天皇陛下にお伺いをたてたようである。

特使となった三皇族

運命の8月15日正午、日本の敗戦、そしてポツダム宣言の受諾を告げる玉音が放送された。

昭和天皇の二番目の弟である高松宮と高松宮妃喜久子(きくこ)はその日の朝5時、東京を出発して御殿場にある秩父宮別邸に向かった。

実の兄である秩父宮とともに玉音放送を聞くためである。

この頃秩父宮は肺を患い御殿場の別邸で療養していたが、病床の兄宮がたった一人で放送を聞くことの辛さを察した高松宮は、一緒に聞くことにしたのだった。

床に臥せる秩父宮を、秩父宮妃勢津子(せつこ)、高松宮、高松宮妃喜久子の三方が取り囲み、揃って玉音を拝した。

両宮妃は声を上げて泣いたという。

玉音放送があった翌日の8月16日、朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこ)、東久邇宮稔彦王、竹田宮恒徳王、閑院宮春仁(かんいんのみやはるひと)の四名に、昭和天皇から突然の御召があった。

東久邇宮を除いて三名は何の御用かさっぱり分からずにいた。東久邇宮を残して三名が先に、昭和天皇の御前に案内された。

天皇は14日の日と同様の緊張した面持ちで、「終戦をつつがなく行なうために、一番心配なのは現に敵と向かい合っている我が第一線の軍隊が本当にここで戈を収めてくれるという事だ。蓋(けだ)し現に敵と相対している者が武器を捨てて戦いを止めるという事は本当に難かしいことだと思う」

「しかし、ここで軽挙盲動されたら終戦は水の泡となる。自分が自ら第一線を廻って自分の気持をよく将兵に伝えたいが、それは不可能だ。ご苦労だが君たちが夫々手分けして第一線に行って自分に代わって自分の心中をよく第一線の将兵に伝え、終戦を徹底させてほしい。急ぐ事だから飛行機の準備は既に命じてある。ご苦労だがあした早朝発ってくれ」

(竹田恒徳『終戦秘話』)と仰せられた。

朝香宮は支那派遣軍に、竹田宮は関東軍と朝鮮軍に、そして閑院宮は南方総軍にそれぞれ 天皇の特使として終戦の聖旨を伝達しに行くことになった。

一人控え室に残った東久邇宮にはその直後に大命降下があり、東久邇宮内閤が誕生する。

つつがく終戦させるために皇族たちがそれぞれ大役を仰せつかったのである。

皇居からの帰り道、竹田宮は思いがけない重責に緊張しながらも深く覚悟を決めていた。

つい7月まで関東軍参謀として満州帝国の首都新京(満州国時代の長春の呼称)に赴任していたことから、ソ連軍と中国軍の進駐が目前に迫る現地の混乱ぶりは容易に想像がついていた。

関東軍に幕引きを命じに向かう心境は悲痛なものであったろう。

竹田宮は「これは誠に大変なお役目である、果して無事に帰れるとも分からない」と思い、帰宅するとすぐに身辺の整理を始めた。

するとその日の午後、内閣総理大臣に就任したばかりの束久邇宮から電語があり、赤坂離宮の組閣本部に来てほしいと言われた。

竹田宮が組閣本部に出向くと、東久邇宮首相と東郷外相から「竹田さんは満州に行くそうだが、もしできたら溥儀(ふぎ)満州国皇帝に会って、皇帝が希望されたならば、一緒に日本へ連れてきてもらいたい」と依頼されたのだ。

ただし「もちろん、あなたの本来の任務は聖旨の伝達にあるのだから、無理をしてまでとの依頼ではないのだが」とのことだった。

宮は天皇からは聖旨伝達を、また首相からは満州国皇帝を亡命させることの密命を受けたのである。

朝香宮、閑院宮、竹田宮の三宮はその日の夜8時頃に朝香宮邸に参集し、現地に赴いた際の言動について打ち合わせをした。

翌8月17日午前9時頃、 三宮はそれぞれ現地に向かって本土を後にした。

竹田恒泰著  「皇族たちの真実」より

この皇族以外に戦中に自らの希望で身分を明かさずに戦前へ赴いた皇族も存在する。
終戦直前に皇族が戦地に飛んで、昭和天皇の停戦の御心を伝えられたが、終戦後も自由に動けない昭和天皇かわりに、歴代天皇陵をすべて回って敗 戦の御報告と日本復興の御加護をお祈りするようにと、昭和天皇から命ぜられる。

これもやはり皇族でしかできないお役目。

日本は祭祀の国。

日本は国でも個人の家でも、古来より、先祖の祀りを大切にしてきた文化の国柄。

だから敗戦という未曽有の出来事においては、なおさら、これは大事なことであったと思う。

竹田 恒泰著  「皇族たちの真実」より

歴代天皇陵御代拝

終戦の混乱もやや落ち着きかけた10月10日、昭和天皇は御自ら伊勢神宮に御参りになった。

終戦を御報告されたことと思われる。その後11月29日には皇族男子に三度目の御召があり、昭和天皇は七名の皇族に、ある御使い御命ぜられた。

「百二十三に及ぶ歴代天皇の御陵に親しく自分がお参りしたいのだが、それはとても今の状態では出来ない。神武(じんむ)天皇の畝傍(うねび)陵と明治天皇の桃山陵と大正天皇の多摩陵とこの三ツの御陵には自分でご報告をし請願をするが、あとの百二十の歴代天皇の御陵には、ご苦労だが君達が手分けをして代参してくれ」

(竹田恒徳『終戦秘話』)

そのお使いとは、山陵(さんりょう)御差遣、つまり歴代天皇陵への御代拝だった。

昭和天皇からは、戦争のこのような終戦は自分の不徳の致すところであり、それを謝り、日本の今後の復興に対して御加護を祈るように、そして今回の皇族の御代拝で国民と皇室との結びつきをより深めることを希望する、との御話があった。

御陵が集中している京都へ出かけたのは高松宮だった。

宮は12月2日から4日間をかけて、京都中の御陵をくまなく訪れ、御代拝した。分刻みで多くの御陵を御代拝する様子は『高松宮日記』に記されている。

そして高松宮は関西地区、三笠宮は九州地区、朝香宮は大阪地方、東久邇宮若宮(盛厚(もりひろ)王)は京都地方、竹田宮は四国と淡路島、閑院宮は奈良地方を、また賀陽若宮(邦壽王)も特使として山稜〔天皇の御稜〕を回った。

昭和天皇は御自ら、また親族から勅使を御立てになり終戦という国の大事を、先祖である歴代天皇の御陵に御報告なさり、これからの日本の行く末を護っていただくように御請願なさった。

歴代天皇は天皇の先祖であると同時に、皇族にとっても先祖であり、このときに皇族が御代拝をしたことは意味深い。

そして、皇族が手分けをして全国の御陵を訪れたことは、終戦の早い段階で 天皇の行幸があったのと近い効果があったはずだ。

例えば高松宮はこの御差遣に際して京都と大阪で数多くの病院や行政機関などを訪問し、また各界の要人と会談した。

このとき昭和天皇は「皇族は朕(ちん)と民衆との間に在りて、此の点に充分尽力ありたき」と仰せられた。

終戦の混乱期において天皇の分身として身軽に動き回ることができたのは皇族しかいなかった。

この時期に皇族はさまざまな役割を担ったが、その中でも取り分け、外地及び内地への聖旨伝達と山陵御差遣は、皇族であってはじめて遂行できる極めて重要な任務である。

そして、敗戦国の武装解除が無血で完了したことは、人類史上極めて異例なことであり、その上で皇族たちは絶大なる役割を担ったことになる。

<以上>

注:これを見ると、今言われている女性宮家創設はやはり無理で女性が代拝出来る日は限られる。

皇族を復帰させるのが皇室を安定させることであり、しいては日本が繁栄するのである。(皇室の事は皇室が決めるのが一番良いと思う)

(皇室が安定することが日本繁栄に何故繋がるかは、最初から読んで頂いた方にはお解かりでしょうが、途中からの方にはいずれ再び書きたいと思う。皇室が無くなったら日本は滅びると思って頂きたい。それほど重要な事である)