ICCで昔やってた、磯崎新との対談から一部書き起こします。
荒川『僕がやろうとしてるのは、いかに生命を建築するかなんだよ。おそらく磯崎さんたちはこんなこと考えてもいなかっただろうな。だから、いいか、「生命を建築する、そんなことは可能か。」フランス人かドイツ人がぼくに言ってくるんだよ。可能でなかったら可能にしなくちゃいけないんだ。それが東洋から出た初めての思想なんだよ。自然を作り変えてそこから生命を産み出そうっていうのさ。そのために必要なのがこの身体なんだ。それを建築するって僕は言うんだ。だから全く根底的にヨーロッパの作り上げた建築から一つも相いれるものがないんだ。何一つ。だからこの長い間いつも僕は馬鹿にされてたんだ。ここでは馬鹿にされようもないんだよ。相手にできないの。何言ってるかわかんないから。「死なないため」とか「宿命反転」とか、だいたい論理的に狂ってるよな。文法的にも狂ってんだよ。それは政治的に、それから経済的に言わざるを得なかったんだ。』(http://hive.ntticc.or.jp/contents/artist_talk/19980306)
ということで、自身で「死なないため」「宿命反転」など論理的に狂っていることを認めます。
確かに、あらかじめ”宿命”と決まっているものに対して、”反転”という言葉をくっつけるということは不可能ですよね。ただ、ここで重要なのは、論理的に狂っていて、なおかつ反論しても仕方のない状態に持ち込んでいることじゃないかと思います。
最近ふと思ったんですが、固有名詞がなくなれば生死もかなり薄れるんじゃないかと思いました。オンリーワンな価値がつきにくい。例えば、私たちは足元にいるアリに絶えず注意して歩くことはまずなく、きっと踏みつぶしてしまうこともある。その時、つぶれてしまったアリに名前があればなんか悪い気がするかもだけど、ないのでそんな気にしないっすよね。固有名詞という形式をとるんでなく、固有名詞感覚と言ったほうが正確かも。
次回は、この前養老天命反転地行ったんで、その感想でも書きます。