■中日(東京)にみる情報工作


まずはこちら


首相がインド国会で演説へ・安全保障、日米印豪で連携

http://www.nikkei.co.jp/news/main/20070822AT3S2200422082007.html

(日経)



 安倍晋三首相は22日、インドの国会議事堂で演説し、日印に米国やオーストラリアを加えた「拡大アジア」の枠組み強化に取り組むと力説する。「自由と民主主義などの基本的価値観や戦略的利益を共有する」と説明。インドに「安全保障分野で一緒に何をなすべきか寄り合って考えるべきだ」と連携を呼び掛ける。


 「二つの海の交わり」と題した演説で首相は「太平洋とインド洋は自由の海、繁栄の海としてダイナミックな結合をもたらしている」と強調。


関連

「自由と繁栄の弧」・・垣間見える本音に期待

http://ameblo.jp/disclo/entry-10029128135.html


さて、安倍首相はこの後ラダ・ビノード・パール博士の御子息と面会されるわけですが、

例の東京新聞が恐ろしい論説を書いております。


パール判事長男の思い

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2007082202042877.html

(東京)



 安倍首相が今週、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯の無罪を主張した故ラダビノード・パール判事の長男プロサント・クマール・パールさんとインドで面会する。もう八十歳になっている。十二年前、取材で会ったのを機につきあいが続いている


 当時、既に日本との交流は途絶えかかっていた。「日本からの手紙もいつしか来なくなった」とプロサントさんは寂しい思いをしていた。だから今回の安倍首相の訪問は唐突な印象だ。面会は、日本の戦争責任を否定する動きと受け止められかねない。


 パール判事は東京裁判そのものを「戦勝国の敗戦国に対する復讐(ふくしゅう)。原爆投下こそ犯罪だ」と批判した。だがそれは日本の軍国主義を弁護したわけではない。プロサントさんは「父は裁判で国際法の専門家として判断しただけだ。日本擁護を考えていたわけではない」と何度も強調した。


 パール判事がインド・コルカタの裁判所判事だったころに一家が住んでいた家を訪ねたことがある。そこの大家は「判事がある被告人に判決を出す直前、このままでは重い判決になることを悩んだことがある。妻から『手をさしのべられるのはあなただけよ』と背中を押され、判決が軽くなる法解釈を徹夜で考えていた」と教えてくれた。


 七年前にプロサントさんと再会したとき、東京裁判を扱ったある日本映画に、「事実と違う」と不満だった。判事の人柄や思想を正確に伝えることが長男としての責務と考えているからだ。今回「お会いするのはうれしい。パール判事の息子として、いろいろお話ししたい」と話す。安倍首相はその思いをじっくりと聞いてほしい。


さて、中日(東京)新聞と言えば

平成7年1月7日、カルカッタで弁護士をされているこの

プロサント・クマール・パール氏を訪ねた時のインタビュー記事を

第一面に掲載しております。


その時の中日(東京)の意図は純粋にパール博士の足跡を辿ったもの

だったのかもしれません。

しかし、近年の関連報道をみていますと、純粋とも思えない。


父は裁判で国際法の専門家として判断しただけだ。

日本擁護を考えていたわけではない


それは事実でしょう。

パール博士は何も親日家だから日本無罪判決を

認められたのではない。


法と正義に照らし合わせて判断された。


しかし、東京新聞は、枕にこんな一言を入れる。


だがそれは日本の軍国主義を弁護したわけではない


?

そのテーマはどこからでてくるのでしょう^^

で恐ろしい言葉は


十二年前、取材で会ったのを機につきあいが続いている


・・・・。


さて、パール博士については最近こちらの本が話題ですが


中島岳志『パール判事』

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/Pal.html


中島岳志『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』
白水社   感想記



 本書についてはすでに、中島の成果を生かす形で朝日新聞が06年7月12日付で従来のパール像を批判する記事を描いている(中島はこの記事に先行して「中村屋のボースとパール判事——日本人はいつまでインドを利用し続けるのか?」を雑誌「エコノミスト」に発表した)。


事実誤認が多いと言うか、・・・従来のパール像ってなんですかね。

東京裁判史観否定派が曲解しているということ?


それは一種の被害妄想ではないだろうか。



 パールの息子であるプロサント・パール。東条英機をはじめとする日本の戦争指導者を美化する映画『プライド』が彼の「心を傷つけ、憤らせている」とインドの新聞「インディアン・エクスプレス」は報じた。

父が渾身の力を振りしぼってまとめ上げた判決書を、自分の政治的立場を補完する材料として利用しようとする者への怒りは、きわめて厳しかった」(中島p.295)


御子息に映画の内容を曲解して伝えたのは中日新聞か?

まぁIEの記事を見たいものです。


「父が・・・」

はプライドに対してなのですか?


博士が平和主義者であることが、判決とどう関係するのか。

何度も言うように

「法と正義に照らし合わせて」

判決文を書かれたのです。無罪として。


パール判決文第七部「勧告」


~~

法的根拠もないのに日本を侵略国、犯罪国と決めつけて、多数の個人を処刑することは、20世紀文明の恥辱である。後世の史家は必ずこれを再審判するであろう。

~~

「時が熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剝ぎとったあかつきには、その時こそ、正義の女神は、その秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。」


なぜ、中島「パール判事」が出版され、朝日がパール像批判の記事を書いたか?

なぜ、その時期に。


また、今夏はNHKが

NHKスペシャル

「パール判事は何を問いかけたのか~東京裁判 知られざる攻防」

8月14日(火)総合 午後10:00~10:50

と放送。


答えは簡単です。


田中正明先生(パール博士の日本無罪論:著者)

が昨年1月に亡くなられたからです。


なぜか?

田中先生はパール判決公開をパール博士ご自身から託されただけでなく

博士の日本滞在時の世話をされ、

パール博士から「マサアキチャン」と呼ばれ、日本での息子と呼ばれるほど

親交があったのです。


パール判事の日本無罪論(Wiki)



なお田中は、パール博士が南京大虐殺をあたかも全否定したかのように書いているが、実際には松井石根に無罪を判決したに過ぎず、南京事件自体は事実と認定している。


事実認定は裁判における検察資料から。

南京の虚構---


博士は判決後、田中先生との親交を深めますが

そのなかで松井石根大将の秘書であった田中先生からも

所謂南京大虐殺というプロパガンダの実態を知らされます。


だから数度に及ぶ来日において、あの裁判が列強の茶番であると

言われてきたのです。


さて、今田中先生が御存命でしたらどうなったでしょう。


博士との書簡、交流の記録、博士のお言葉・・・


出てくると困る人が多い。

すべてはパール判決の本当の意義を彼方へ追いやろうとする

ある思想の人々の恐ろしい企て。


田中正明先生が亡くなられてから頻出する

「パール判事」関連報道と出版。


わかりやすい人たちです。


さて御子息はどのように考えていたか。


父の魂は今も日本に

http://www.nipponkaigi.org/1700-rekishi/1750-03ajiakyousei%20messeiji.html
(日本会議)



プロサント・パール氏
Mr.Prosant.K.Pal
法律家,極東国際軍事裁判判事パール博士の長男
1awyer.Son ofJudge Radhabinod Pal of the Tribunal far
the East,lnternational Militaly

極東国際軍事裁判、つまり東京裁判で判事を務めた私の父パール博士は、つねづね東京裁判について次のように語っていました。
「あれは勝者の一つのショーであったのだ。この東京裁判の一番の問題は、日本だけが裁判にかけられ、連合国はかけられなかったということだ。もし、日本に罪があるとするならばそれは日本が戦争に負けたことだろう。負けたから日本の行為は悪として非難されたのだ


 東京裁判では、敗者を裁く法律と、勝者である連合国の行為を正当化する法律という二種類の法律が適用されましたが、法律家としてパール博士は、これに強く反対しました。法の尊厳ということからも、法の正義、平等は絶対に守られなければならない、決して勝者が用意した法律によって敗者を裁くことはあってはならないと考えたからです。しかし、東京裁判の判決を批判することは当時許されませんでしたので、個別に意見書を提出したのです。


 誰がパール博士を東京裁判の判事に任命したのか。当時、インドはイギリスの支配下にありましたので、指名したのはイギリスです。それでは何故、イギリスはパール博士を判事に指名したのか。それは、パール博士が表面的には穏健で常識的な人であったからです。当時、国際法の学識があるインド人は少なく、その限られた人のなかでパール博士は比較的無難な人だと思っていたのです。連合国側はパール博士の内面の力、燃えるような情熱の炎を見抜けなかった。内面からあれほど激しい東京裁判への批判がでてくるとは思っていなかったのです。


 戦前、日本を除いてアジアは列強の完全な支配下に置かれていました。


 アジアの指導的な立場を演ずる力があったのは日本だけでした○その力すら西洋諸国は日本から取り上げようとした。だから、日本は立ち向かった。


 インドをはじめとするアジア諸国は日本が立ち上がってくれたことに対して、内心、拍手喝采を贈りたいような気持ちでした。そうした気持ちをパール博士もまた抱いていました。日露戦争で日本が勝利した時、大学生だったパール博士はカルカッタで日本の勝利を祝い、白人の前でわざと旗行列を行なったと聞いています。


 パール博士が最後に来日したのは、1966年でした。私も随行しましたが、彼はいつも「Ilove Japan」と言っておりました。「もし、日本が私に住むところを提供してくれるならば、私は日本に永住したい」とさえ言っていました。ですから、空港で見送りを受けた時、日本の方たちが「さようなら」と言ったら、パール博士は「"さようなら〝という言葉は聞きたくない。私はこの日本を愛している。この日本に私は骨を埋めたいんだ」と言いました。それが、彼の最期の望みでした。ですから私は、父の魂はいまなお日本にあると信じています。今日、靖国神社にお参りしましたが、私はお参りして、父の精神的なふるさとに来たと感じました


 日本の皆さんにお願いしたいことは、現在のアジアの状況を見つめ直してほしいということです。アジアの人々はすべて、日本に対して「リーダーシップを取ってほしい」と要求すべきです。その要求に応え、日本は全アジアのためにリーダーシップをとるべきなのです。


[1995年4月26日、インタビューにて]



もし万一、パール博士の御子息が何かの意識変化を持たれていたとしたら

東京新聞、鈴木記者のこの言葉を思い返してみましょう。


十二年前、取材で会ったのを機につきあいが続いている


「パール判決をもとに、核保有を日本の右翼が考えている」とか

無茶苦茶なことを言っているんではないでしょうね^^


私もプロセント・パールさんにご挨拶したことがあります。


プロサント・パールさん

御夫妻。平成7年東京。

今度は「パール判決」が勢力のターゲットになっているようです。

パール判 事遺族と面会 なぜ

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-08-22/2007082202_05_0.html

(あかはた)


無茶苦茶な論理です。

「パール判決の都合の良いところ」

これよく反論で出てきますが

・・・

どっちが?


・・・・


パール博士、最後の来日時の言葉。


日本人よ、卑屈になるな。自国を愛し、誇りを持て!


中日一派の動きには要注意です。




ナラヤナン・メッセージ

インド・ナラヤナン元大統領メッセージ


博士の著名な反対判決は、

勝者側の偏狭なナショナリズムと政治的復讐とを退け、

それより、平和と国家間の和解と親善のために努力すべきと説いた

感銘深い呼びかけであった。