■南京映画はブーメランならんかな


問題の「Nanking」なんですがプレミア上映されたようで

早速、会場から出てきた人が悲痛なコメントなんぞを漏らしているようです。


「南京大虐殺」描いた映画『Nanking』、ニューヨークでプレミア上映

http://www.afpbb.com/article/1566146


アメリカ人というのは長々と詳細に説明しても

実は聞いていないという人が多い。


インスピレーション型かなにかわかりませんが

TVコマーシャルなんかでも

製品説明より、インパクトを疑似映像化したり・・・

簡単に言うと「通販番組」がよい例です。


またこんな広告手法が注目された時もありました。


アメリカの心
ウォールストリートジャーナル紙に掲載された、

ユナイテッドテクノロジー社の広告「アメリカの心」

(説明割愛します)


まぁどこの国も似たようなもんですが、

特にアメリカ人は単純な切り口でないと


でそんな相手にはわかりやすく・・・ってことで

TAMAGAWABOAT さんという人が

編集映像化されているんですが、非常にわかりやすい。

アメリカ人向けですね。


THE FAKE OF NANKING - 1

http://www.youtube.com/watch?v=uwqFOxmr2to


こういう作業が大切なのかもしれません。

内容の一部は・・・


よく「日本軍による捕虜虐殺映像」として出される

(というよりこれぐらいしか無い)

フィルムなんですが、以前から国民党軍の共産党討伐映像だというのは

知られていたのですが、


捕虜虐殺


有名な「日本軍による捕虜虐殺映像」

でも実は右半分が意図的に削除されている。



虐殺は国民党軍

で似たような映像があったので分析すると

これは国民党軍の軍服。


で似ているのでこの二つを見比べてみると・・・


カット


全く一緒じゃないか・・・という説明。


これは日本軍による捕虜虐殺の証拠ではなくて

国民党軍の共産党員捕虜の虐殺の証拠なんですね。

つまり、アメリカ人というのはこう言う風に

目で見てわかるように説明しないと頭に入らない。


そもそも所謂南京虐殺というのは、自分たちに関係のない事件なので

最初に入る2.3の情報で理解をまとめてしまいます。


だから慰安婦問題にしても、「えっ?慰安婦にお金払っていたの?」

という間抜けなジャーナリストがごろごろしているわけです。


ところでyoutubeにある動画にある「The Battle of China」は

国民党の工作による対米世論プロパガンダ映画ですが

そもそも南京大虐殺というのはこれらのプロパガンダ情報戦略から

生まれています。


いわば生みの親は国民党です。


ただし、これをパクッて東京裁判まで持ち込み、

さらに現在に至るまで喧伝し続けているのは中共です。


では生みの親はというと・・・


■蒋介石、松井石根大将に対し涙を流して詫びる


私の台湾視察旅行と蒋の暗涙

(興亜観音を守る会 会報 田中正明氏)

 

 内閣総辞職後も岸(*信介)先生は、親台湾・韓国の大物政治家として、友邦の首相とも親交が篤かった。ことに蒋介石とは昵懇(じっこん)の間柄であった。その岸さんがある時、安保闘争の当時、終始岸首相に味方して、安保改定に協力した若者を集めてこう言われた。


 「君たち、台湾を視察する気はないか。台湾は将来の日本の安全にとっても、日米安保の将来にとっても、重要な場所だ。君たちにその気があるなら、蒋介石総統にわしから手紙して依頼するがどうか」といわれた。


 かくして編成されたのが、陸軍画報社社長中山正男氏を団長とする5名の台湾視察団である。私もその1人に加わった。昭和41年(1966)9月19日、羽田空港を発って台北の松山空港へ。空港には外交部長はじめ、多くの役人や新聞記者らの出迎えを受けた。
 さすがに岸先生の紹介である。われわれは蒋総統の命により、到る所で“準国賓的”な待遇を受けた。
 ~~

最後は蒋総統との会見である。


 蒋介石総統はすでに80歳、口辺に笑みを浮かべ、好々爺(こうこうや)といった感じだ。何応欽将軍はじめ多くの要人も同席した。〈写真は禁止とのこと〉総統は一段と高い所に坐をしめ、まず岸先生の近況と皆さんの台湾視察の感想はどうでしたか、と質問された。中山団長が詳細に報告し、この度の旅行に際しての行き届いたご配慮とご接待に対して深く感謝する旨を述べた。


 暫く懇談ののち、団員ひとりひとりが蒋総統の前に進み出て、謝辞を述べ、総統から握手を賜ることになった。


 私は総統に敬礼してから、「私はかつて閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げた。
 「いつか。」と聞かれるので「36年(昭和11)の3月、松井石根閣下にお伴して、南京で・・・・」と申し上げた。


 松井大将の名を聞くや、蒋介石の顔色が見る見る変わった。
 ふるえる声で――「松井閣下には、申し訳なきことを致しました・・・・・」と私の手を堅く握りしめて、むせぶように言われ、眼を赤くして涙ぐまれた


 私は驚いた。一同も蒋総統のこの異様な態度に驚いた。


 周知の通り南京戦の直後、蒋は漢口にいてしきりに対日抗戦の声明文を発表したが、〈虐殺事件〉など一言も触れていない何応欽軍司令官の『軍事報告書』の中にも一行もない。それを東京裁判は、松井大将の責任で20万余を虐殺したと判決して、絞首刑に処したのである。


 あれほど支那を愛し、孫文の革命を助け、孫文の大アジア主義の思想を遵奉(じゅんほう)したばかりか、留学生当時から自分(蒋)を庇護し、面倒を見て下さった松井閣下に対して何らむくいることも出来ず、ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪(えんざい)で刑死せしめた。悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる。


 蒋介石は私の手を2度、3度強く握って離さず、目を真っ赤にして面(おも)を伏せた。



 周知の通り、蒋はカイロ会議以降連合国首脳会議から除外されて、発言権を失った。代わってスターリンがのさばり、中立条約を破って満州、南樺太に進攻し、北方四島の侵略まで果たした。


 蒋は東京裁判関係からも除外され、派遣した梅判事はすでに共産党にくらがえしており、南京事件に対して何らの発言も出来なかったのである
 蒋介石は88歳でこの世を去るまで、松井大将の冥福を祈ったと聞く。


確かに蒋介石は事変中において、我が国を罵倒し、対米参戦促進のための

情報戦略において、我が国を悪魔の如く喧伝しました。


しかし、我が国から受けた恩を終生忘れなかったとも聞きます。

ただし、事変中においても台湾においても対日批判をその政策に反映させなければ

ならなかった理由は統治すべき群衆・軍が支那人であったからです。

いうなれば西安事件などはきっかけにすぎないともいえます。


もし東京裁判時において、国民党勢力が万全であったなら

南京虐殺などは争点とならなかったかもしれません。


もうひとつ、南京で考えなければならないのは

陥落以前の南京は、上記の田中先生の手記にもあるように

松井大将など時代の要人と蒋介石との交流の場でもありました。


特に来日中(亡命ともいえる)に世話になった頭山満翁とも再会しています。


頭山・蒋・犬養
南京にて・左頭山翁、真ん中、犬養毅翁、右、蒋介石


蒋介石はその後、極秘和平交渉が模索されたとき

その相手として頭山翁を指定したとされていますが

終生、頭山翁に対する恩義は忘れませんでした。


その頭山翁は、蒋介石にこう言っています。


「貴公でも誰でももし日本に叛くようなことがあれば一刻も容赦せんから

その心算でやれ。日本に叛いては支那は一日も立ち行くものでないことを

決して忘れるな」


それに対し蒋介石は


「誓って赤化分子を討伐します」


と日華連携を誓っています。


しかしながらその後、蒋介石は支那人の特性をいやというほど知らされたのでしょう。


今も続く、反日というテーゼがなければ何もまとまらない人民・・だということを。