11月19日、父が旅立った。




65歳だった。


9月に癌が発覚してから、あまりにも急だった。


Twitterでも書いたが、公へ発信すべきかはかなり迷ったところだ。


しかし多くの友と関係を築く中で、あまりにも多くの方々が父の存在を知ったこともあり、こうして伝えることにした。


非常に長い上に重い内容になるかと思うので、皆絶対読んでね、とは言えないが、ここ数ヶ月の軌跡を辿っていこうと思う。


事の発端は正直かなりフワッとしている、本人も自覚症状は皆無だったそうだ。せいぜい、脇腹あたりの神経痛に悩まされていたくらい。


明るみになったのは、声帯が麻痺し誤嚥(喉が振り分けを間違えて気管の方に食べ物や飲み物が行ってしまう症状)が増えだしたことがきっかけだ。


9月頭に検査に行ったが、気を遣ったのか俺には結果を伝えてくれなかった。ちなみに俺が知ったのは9月の半ば頃。


主な症状としては脇腹あたりの神経痛と声帯麻痺による誤嚥のみ、本人は全くもって元気で、声帯が麻痺するまでは毎日酒も飲んでいたし、ご飯もバクバク食べていたし、煙草も吸っていた。


だがここから、誤嚥により食事が取りにくくなってしまう。極度の栄養失調に陥り、みるみる痩せていってしまう。


お腹が空いているのに食事が取れない、相当しんどかっただろうと思う。


入院し再検査が行われたが、全身のリンパ節への転移は見られたものの、肝心の臓器の癌が見当たらない状態だと言われた。原発不明癌という。


そうなると話は変わってくる。リンパ節や骨へ転移した癌はそれ単体ではそこまで悪さをするものではない。当の父も、寿命まで生きるわ、と言っていた。


家に帰って来たものの、食事が取れないこともあり、父の衰弱は止まらない。そのうち、胃痙攣や各所の痛みなどこれまでになかった症状も出てきた。




苦しさから出てしまう家族への理不尽な暴言に、腹が立ってしまうことが多々あった。今となっては申し訳ないことをしてしまったと思う。


自宅では回復の余地が見られず、再入院した。


栄養の点滴を受け、少し楽になったみたいだ。しかしやはり、父は家に帰りたいそうだった。


とりあえず声帯を先に手術し、食事をとれるようにしてやりたかった。ただ声帯の手術は通常、6ヶ月が経過しないとできないとのこと。6ヶ月間は回復の余地があるらしいが、どう考えてもリンパ節の癌が反回神経(声帯を司る神経、肺の下を通っている)を圧迫しており回復しないから声帯を手術して食事をとれるようにしてほしいと医師に頼んだが、やってもらえなかった。今思えばたぶん、そういう段階を既に超えていたのだろうと思う。




再検査が行われ、肺から癌細胞が確認された。最終的には原発不明癌として処理されたが、結局、臓器にもちゃんと癌はあったということだ。


正直、憤りを感じた。それならば最初からそう伝えてほしかった、寿命まで生きられるかもしれないという淡い期待を抱かせないでほしかった、この時まで父はまだ長く生きると思っていたのだから。


それから腎不全、肺の胸膜への転移などが見られ、肺に水が溜まったり体内の循環が上手く行えない状態となった。


肺の水は手術で取り除いたが、腎不全は透析をするわけにもいかず、輸血をするしかないとのこと。八方塞がり。要するに、末期癌だ。


面会に行きたいが、コロナにより面会そのものが解禁されたのが11月10日頃で、2度目のワクチン接種後2週間が経過、1日1組2人まで、15:00〜16:30の10分間のみ、という条件付き。




ワクチンの関係もあり、ようやく面会に行けたのは11月14日。


会話をし、去年旅立った犬の写真と俺がいつも付けているネックレスを置いてきた。俺とかん太(犬の名)だと思えって。家では何もしてやれなかったから、できる限りの全てを尽くそうと思った。


しんどそうではあったが、この頃は栄養点滴の他に、意識レベルを低下させて痛みや苦しみを緩和させる措置がとられていた。少し朦朧としているようだった。


この頃の父は何もかもを察しているような雰囲気で、だからこそか、どうしても家に帰りたいようだった。だけれども、あらゆる措置が取られて痛みや苦しみを感じていないわけで、希望を聞き入れることはできなかった。家でも同じ措置ができるならば帰してやりたかったが、医師に相談しても不可能だと言われてしまった。


父、母、俺、犬、亀という日常は去年崩れた。その後の父、母、俺、亀という日常も今まさに崩れてしまった。だから、父のところへ面会に行くことを日課にしようと思った。


翌日の11月15日も面会に行ったが、その日の面会人数が既に定員に達しているとのことで突っぱねられてしまった。


時間縛りがある手前、なかなか面会に行くのは難しい。そうして次に面会に行けたのは11月18日。


父は寝ていたが、5分ほど経ち目が覚めた。朦朧としているようだったが、少しだけ会話をした。明日も来る、と伝え部屋を去った。


少しの会話はしたものの、意識レベルが低下していたこともあり、しっかりとした会話は難しいようだった。本当は、これまで迷惑をかけてしまったことへの謝罪、育ててくれたことへの感謝、これからのことなど話したかったが、とても言い出すことができなかった。なので、人生初ではあるが、手紙を綴ることにした。明日読ませてやろうと。


そうして、少し恥ずかしいが手紙を読んでもらうことを楽しみに、明日を待った。


この頃の心境としては、音楽の道に行ってしまったがために多大なお金を使わせてしまったこと、藝大まで行ったが結局何の賞も取れず大成したとは言えないこと、恩返しをまだしていないこと、これら全てへの後悔で満ちていたと思う。父は自身の人生をどう思ったのだろうか、楽しかったと言えるのだろうか、じゃあ俺は何のために生まれてきたのだろうか、そんなことを毎日考えていたと思う。それでも、俺は強がりなもので、どうしても強くありたくて、いつもの俺を貫いてたと思う。


日が変わり深夜2:30くらいだったか、父の心臓が止まったと病院から連絡が入った。


動転した。自分の目で何が起きているか確認するまでは何も信じなかった。


母、俺、父の弟、その嫁が揃うまで病院へ入れなかった。


3:30頃だったろうか、ようやく対面した。


まだ暖かいが動かず、でかい人形のような父がいた。


日課にした面会はたった2回で終わり、初めて綴った手紙も読ませることができず、何の言葉もかけてやれなかった、何も伝えられなかった、挙句まだ何の恩返しもできていない、激しい後悔と目の前の光景に耐えきれず、俺は全てをシャットアウトしてしまった。


精神を現実世界から切り離す、まぁ俗に言う上の空といったところか、全てが浮世離れして見えていた。


独りっ子だが長男である俺が崩れるわけにはいかず、母や父の弟もしんどいであろう中で、俺以外に空気を保てる人間がいなかったと考えたら妥当な判断だったと思う。


しばらくは仮初の自分で生きることとなった。事情を話した友からは、不自然に明るいけど大丈夫かと労いの言葉をかけてもらったりした。


だがこうしないとやっていけなかった。本番などは休めないし、現実世界ではパッパラパーなことが起きているし。


数名には伝えたが、極力このことは伏せていた。気を遣われるのはあまり好きではないし、音楽やる上では正直関係のない話だったし。


だけれども本番があったのは正直助かった。事情はもちろん伝えていないが、皆のパワーというか何というか、よくわからないが謎の元気が出たのを覚えている。


父の意向で、式は火葬のみの密葬、散骨(とはいえ塩塚家の墓にも入れることにした)となった。


23日の火葬まで父は家におり、考えられる限りのもてなしをした。もう後悔したくなかったので、まあもう遅いのだけれども、食事ができない苦しみからは解放されたわけで、ありとあらゆる色々を買っては供物とした。


そんな中で一度だけ、12000枚ある自身のiPhoneの写真フォルダから父の写真を探している際に、切り離したはずの精神が地に堕ちてしまい、大崩壊をしてしまった。たまたま近くに友がおり、助けてくれた。不覚にも崩壊したことで少し楽になった。


今もまだ、精神は切り離し中だ。いや正確には半々といったところか。


沢山の方々が家に来ては父に線香をあげてくれた。式があれば当日の対面となるわけだが、火葬かつ密葬となると皆家に来てくれるのだ。昔話をしたりゆっくり父と対面したりなど、火葬で良かったと思う。


23日の火葬の日は寒かったがよく晴れていた。泣いてしまう親族もいたが、俺はお笑い担当を貫いた。俺に似た剽軽な従兄弟の存在が大きかったと思う。ものすごく笑わせてくれて勇気を貰った。


父の骨を収骨する時は最悪の気分だった。今朝まで父は家におり、ほんの1時間前まで父は棺の中にいたが、今はもうこの目の前の骨が父なわけだから。内心グチャグチャになったがそれでも、陰部の骨は俺が〜とか言って骨盤を収骨して皆を笑わせてやった。従兄弟も察してこれに続いてくれた。多少心細かったのもあり、とても助かった。


コロナ禍ではあるが、火葬後に食事会を開いた。どうしても父に美味い飯を捧げたかったからだ。


喪主なんてやらせるんじゃねえよと思いながら挨拶を済ませ、隣の父の席に食事を配膳してから自身も食事を取った。


似つかわしくはないが、父お気に入りのイタリアンを選んだ。死後にどうなるか、魂の存在なんて知らないが、きっと喜ぶと信じて、だ。


全てが終わり帰宅し、夜は父の好きな寿司にした。マグロの大トロ中トロ赤身を捧げた。


12月5日に納骨と散骨を行う。それまでは父の骨は家に安置する。


さっきも言ったが死後に世界があるのかなんて知らないし、そもそも魂というものの存在自体がよくわからない。が、願わくば去年旅立った犬と再会して好きなように過ごしてほしいと思う。


今はただ、これからどう生きていこうかを考えている。どうすれば父への懺悔が済むのかなんてわからない。音楽を続けることで少なからず何かを返せるのだろうか。正直何もわからない。あまりにも急展開すぎて、脳が全く追い付いていない。


実を言うと、10月に自身のリサイタルを企画していた。これがコロナで流れてしまい、代わりに3月に開催することになっている。


父の病気関係なく(企画した時は病気は発覚してない)何か返せるかなと思い企画したこのリサイタルだが、結局10月にやろうが3月にやろうが届けることはできなかったと思うと、胸が痛いところではある。


だが、今回の件を経て、後悔するくらいなら動け、やらずに悔やむならやって悔やめ、という思いが強くなり、聴かせる相手を1人失ってしまったものの、開催しようと思っている。


だから、できれば沢山の方々に来て欲しく思っている。


この精神がいつ地に降りてくるのか、いつからようやく仮初を終えて真の自分になれるのはわからないが、少しずつでも良いから、前を向いて歩いていこうと思う。


別にファザコンとかそういうわけじゃないのだけれど、独りっ子にとっての父って親であり良き友でありって感じだと思う。


まずは父との約束、母を北海道へ旅行に連れていく、これを果たさなきゃならないね。


こんなにも長い重い文章を読んでくれた方が果たしているのかはわからないが、もしいるのならば、読んでくれて本当にありがとうと伝えたい。


俺はまだ止まるには早いからね、せいぜい足掻いて頑張ってみることにするよ。