近年のアイドルにおける最大の課題というか、障壁というか、そう言った感じのものは「アイドルアンチ」だと思う。

わかりやすい例では、CDの売り上げに対する批判だ。

通称でAKB商法とか言われてる。

 

この商法がヘイトを貯めたのは、これにより過去のシンガーたちの記録が塗り替えられたことがおおきそうだ。

そして彼らは言う。こんな数字に意味はない。過去の栄光を汚すな。

そのヘイトは形を変えて、アイドル音楽は低いレベルだの、歌が下手だの。

そして、過去のアイドルと比較する例も散見する。昔のアイドルは〇〇だったのに今は...とか言う意見も見られる。

 

まずだが、(こんなことを言うとさらに怒りを買いそうだが)CDの売り上げに関しては抜け道を使ったのだと言う印象しか受けない。ましてこれは誰にもできたことであった。

 

秋元康の戦略はうまかったと思う。90年代から00年代初期に形成されたCDの売り上げにおける強い価値観をCD衰退期に圧倒的枚数で売り上げることでイメージ戦略を図った。結果は今見れる通りだ。

 

正味今日CDの売り上げは形骸化したものだろう。わざわざCDを買うのは余程興味がある人間くらいだろう。YouYube視聴が容易でサブスクが主流となった今、アーティストのつまみ食いが多くなっている。

CDが売り上げには意味がないと言う層の方は是非ともそう言ったランキング、自分が合理的だと思うランキングを信じてみてはいかがだろうか。自分にとって意味がないランキングやデータを見続け、批判したところでそれも紛れない事実なのだから。

 

あと最近見かけるのでいいと思うのは、今逆にアルバムを販売すると言う人たちも見る。シングルはデジタルで、アルバムはCDで。それもありではないかと思う。ライトな層との棲み分けではいいんじゃないかと思う。

 

 

 

次に真っ向から否定したい点がある。

アイドルの楽曲の詞および曲についてだ。

まず詞については坂道については秋元康が担当しているが、彼のすごい点はびっくりするほど若者の感覚に近づけるところだ。

乃木坂46の17枚目シングル「インフルエンサー」これは当時ではまだ出てきたばかりの言葉であった。それをいきなり曲のタイトルに持ってきている。

逆に欅坂46の1枚目シングル「サイレントマジョリティー」はベトナム戦争の時期に用いられた言葉をうまく引用している。

この独特の感性は彼の一つの特徴であり、凄みであるだろう。

 

そして作曲家については、世間的には有名ではないかもしれないが、音楽の最盛期を若者として過ごした層が担当しがちだ。それを考えるとその時代をリスペクトした作品もあり、また特徴として耳に馴染むと言うのがある。これはなかなかできたことではないだろうし、アイドルソングの強みであると思う。

 

と言うか、表題曲の数曲をかじってこのアイドルはこうだとか決めつける人間は本当に音楽好きなのかと思う。

 

 

 

だから自分が本当に音楽が好きな人に言いたいのは「アイドルの曲だから」ってことばやめませんか?

6th シングル『ガールズルール』収録「他の星から」

参加メンバー:伊藤万理華、井上小百合、斉藤優里、桜井玲香、中田花奈、西野七瀬、若月佑美

 

 

 

この楽曲といえばPVの世界観が独特でまたライブでも人気の楽曲である。

参加メンバーを見て思ったがもう残り一人になってしまったのか。

 

 

 

 

先に自分が考えた答えを述べよう。

この楽曲のテーマは『静かなサイレントマジョリティー』だ。

意味がダブってしまっているように感じるがとりあえず進める。

 

まず『サイレントマジョリティー』といえば、欅坂46のデビューシングルとして、世間に非常に強いインパクトを与えた。

また最近ではアメリカ大統領ドナルド・トランプ氏がTwitterで『SILENT MAJORITY!』と呟き話題にもなった。

そもそもこのワードは1969年のニクソン大統領の発言に遡る。

意味は「物言わぬ多数派」とあり、積極的に発言しないが大多数である勢力のことである。

 

楽曲『サイレントマジョリティー』では、ニュアンス的に同調圧力の下、権力を握った大人(親だったり教師、政治権力を指してると思われる)存在に屈せず自分らしさを取り戻さねばならないという意味合いが込められている。

 

この意見には様々言われることがあると思うが、現実世界でのこの姿勢に自分は否定も肯定もしないでおこう。

 

話を戻すと『サイレントマジョリティー』は『動的なサイレントマジョリティー』だろう。というか直接的なのだ。

それがこの曲の良さなのだ。

 

つまりは「他の星から」は超比喩的なサイレントマジョリティーの存在を訴えているのだ。

それでは考察していこう。

 

 

1、微かな違和感

皆さんは生活しているときにふと違和感を感じることはないだろうか。毎日「見ていた」はずの景色がなんだか違うように感じる。こんなとこにこんなものあったっけ?こんな建物あったっけ?

多分私たちは「見ていなかった」のだろう。というか「関わろう」としていないのだ。無関心なのだ。

 

これは他者に当てはまる。友人や毎日会う人とは「関わっている」。つまりは感情や思考、行動を考え、相互作用を持ちうる。それは好きだったり、嫌いというこちらの感情を誘起する。

有名な言葉がある。「愛の反対は憎しみではなく無関心です。」マザーテレサの言葉だ。

 

これは主観の話だ。客観的に自らを見たときどうだろうか。他者と関わらないように仮面を被っているのではないだろうか。

 

この考えを社会にまで拡張する。必ずなんらかのコミュニティに属さねば生きられない。大きく言えば国家、自治体、小さいところでは学校や家族。そして現代ではSNSを通じた身体距離を取っ払ったグループを持つ。

それぞれは違うものだが、大きな差異はない。

 

ではもし関心を持つことを積極的に行う、もしくはこの曲のように無関心に気づいたらどうだろう?

 

「街の作りも(人々も)ジオラマみたい」「誰もが同じ与えられた仮面で表情がない」

没個性で、無関心の存在を指している。これは好きでやってるのではないだろう。同調同圧がもたらすのだ。

 

 

ではここに全くの異分子の存在、「ノイジーマイノリティー」が紛れ込んできたらどうだろう。

これまでとは全く逆の態度を示すのかもしれない。少し出た杭は打ちやすいが、出過ぎた杭には何もできない。では関わらない方が身のためだと思ってしまうのだ。そしてそれを迎合してしまうのだ。受け入れを飲まざるを得ない状況を作ってしまう。

 

「妄想なんか誰も気にしてない しあわせに思えるんだったら知らない間に滅亡してたってみんなと一緒なら楽しそう」

「サイレントマジョリティー」が淘汰される瞬間だ。それは幸せな変化かもしれないし、それは危険をもたらす変化かもしれない。

 

よく「サイレントマジョリティー」になってはいけないというが、真にそうかは懐疑的だ。サイレントな理由を無視しているからだ。十分な知識もなく騒ぎ立てる連中を時々見かける、彼らにとってこの時代は非常に生きやすい時代なのだ。

SNSは使い方さえコントロールすれば大きな武器となる。武器は守るものにも何かを壊すにも便利だ。

それっぽいことを発信し、現状に不満を唱え、煽る。これだけで盲目的に動いてしまう人間がいる。十分なエビデンスもないのに、そして専門家でもないのに声の大きさだけは一流。そんな奴には絶好の環境なのだ。メディアリテラシーの名のもとみたくない情報を捨て、都合のいい情報の切り抜きをする。

全く楽なお仕事だ。

 

 

 

2、具体的変化

「世界の危機ってこと私にはわかるけど ああそれより三味線のお稽古に遅れそうなの」

「当たり前は(当たり前は)怖いものだ いつもと同じが好きだ(はい)変化は嫌い 都合の良いロープで縛られよう」

変化を拒む様子が顕著に出てる。変化をしないことは楽なのだ。ほっとけば進むのだから。そのかわり他者がもたらしてくれる変化は楽なのだ。やってくれるのだから。でももう手遅れなのかもしれない。世界の危機なのかもしれない。

 

「遠い星から来た(初対面)未確認たち(侵略かもね) 誰かがきっと心配してくれるでしょ

 法律がどう変わっていい 紀の善であんみつ食べられればそれ以上の贅沢は望まない」

この国特有の誰か任せが出てきている。自分で動こうとしない。「サイレントマジョリティー」となっている存在が描かれている。

 

 

ほんとうか?

マジョリティーはマジョリティーなのだ。この国にはまともな選挙システムがある。そこには少なからず反映される。時として恐怖を与えるのは「ノイジーマイノリティ」なのだ。選挙システムにケチをつけ、不正が行われている、絶対におかしい結果だ、陰謀論を唱える勢力を見かけた。証拠はなんだろう?昔、どっかの宗教団体がそんなこと言ってる映像を見た記憶もある。

彼らに甘んじ始めた時こそ本当の危機でないだろうか?

エビデンスもなく、声が大きいだけ、それを正当化するマスメディア。それを監視する「サイレントマジョリティー」もときには必要ではないだろうか?

 

 

サイレントマジョリティーのままではいけないとの主張もあるがときにそれを疑うことそれも必要ではないだろうか。でないと、他の星のものに気づいたら浸食されているかもしれない。

 

 

3、最後に

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この文章のエビデンスは?

疑うことをお忘れなきように。

 

 

 

 

 

2015年発売1stアルバム『透明な色』収録「僕のいる場所」

 

 

 

 

0.はじめに

皆さんは「死」が怖いだろうか。

 

 

 

多くの人は怖いと答えるだろう。実際自分もある時期を境に怖くなった。

最近のことだが夢で余命宣告された夢をみた。朝起きた時は尋常ではない汗をかいていた。思い返すと最後にしようとしたのは昔からの友人に会いに行きたいと言っていた。ただこの状況下だからという葛藤があった。

その夢の真意はまだわからない。

死と向き合うことは難しい。

死後を想像することは人間誰しもやってきた。だからこそ宗教が生まれたりしたし、哲学も生まれた。未来永劫このテーマは終わらないことだろう。

 

 

1、死んでしまった「僕」

この曲はメロディーは明るい。メンバーもPOPに歌っている。

しかし、歌詞に注目すると、印象が一変する。

 

この「僕」は病気で、余命短かったのだろう。でなければ、若者が死んだ後のことを具体的に考えることなんてないだろう。

「君」はきっと泣くと言っている。互いに思いあった仲なのだろう。

 

一番中で状況が変わるシーンがある。

「僕」は死んでしまった。ただしまだこれは想像だ。

 

ただ、一つの約束をしている。「部屋の右側の壁の端っこに寂しくなったらここへおいで」と言っている。

普通ならこの世界に未練があるから現世に残ってしまった、成仏できなかったと考えられるが、

ここではそのような死生観はないのだろう。ただ無神的に相手を思う気持ちだけがあるのだろう。

亡くなってからもこっちの世界で見守りたいと思える人がいるって相当幸せなことだと思う。それを直接的ではないが教えてくれている。

 

 

2、生まれ変わった「僕」

仏教の中では輪廻することは苦行を抜けれないとしているがそんなことは一旦忘れよう。

 

自分は先に生まれ変わってしまう。だから生まれ変わってから出会った時の約束を決める。「手を握り2回ウィンクする」

それに応えとしてキスをして欲しいと言っている。

1で述べたが生まれ変わってからも一緒になりたい。関係性の形が変化しても一緒になりたい。そう言えるくらいに想うことができるだろうか。

これは今若者だからというわけではなく、歳をとってもこう言える人間ってすごいと思うし憧れる。

 

3、不可能な想像とリアルな願望

1、2は基本的に未知の願望だ。死後なんて体験して報告してくれた人間はいないし、輪廻を確かにしたという根拠はない。

実現不可能な願望である可能性が高い。でもそう想像することが幸せではないかと思う。

 

ただ最後にリアルな願望がくる。

「一週間くらい泣いて暮らしたら 深呼吸をして空を見上げ笑顔を見せて」と言っている。

この部分だけは二人としての願望ではなく、「君」に対する願望のウェイトが大きい。

僕のことを想って泣くのは一週間だけにして、そのあとは「笑顔を見せて」欲しい。幸せになって欲しいという願望が語られる。

 

ここで全く別のシンガーではあるが福山雅治の「最愛」という曲を思い出した。この楽曲は『容疑者Xの献身』の主題歌で、映画の内容に非常にリンクした曲である。

自分が愛する人が犯した過ちを自分が犠牲となって、その人を守りたいという難しいテーマなのだが、

曲中では自分のことは愛さなくてもいい。ただ幸せになってくれればという意味が込められてた。

 

これらには通ずることがある。自分以上に誰かを想うことが幸せとなることはこの上ない幸せだということだ。

もちろん自分の人生なのだから自分が幸せにならなくてどうするという意見もあるだろうが、自分はそれも一つの幸せとして存在してもおかしくはないし、ありだと思っている。

 

 

最後に「ずっとそばにいたいけど 別れはやってくる」

となっている。もしかすると短い人生であることをまだ伝えていないのだろう。もしかすると伝える気はないのかもしれない。

実現が難しい願望を語るのではなく、しあわせを静かに願う。

それが彼の考え方の強さなのかもしれない。

 

 

 

 

明るいメロディーだからこそかける歌詞であり、若者に支持される乃木坂46だからこそ伝え考えさせるテーマなのではないか。

死に感する問題は日本では敬遠されがちだ。しかし、悪と捉えるのではなく、どう向き合うかを考えることが大切ではないか。大切な人がいるからこそ大事なのではないだろうか。そう自分には考えるきっかけとなった。