アジア:
・インドネシア/ジョコ大統領
・カンボジア/フン・セン首相
・スリランカ/ウィクラマシンハ首相
・パキスタン/シャリフ首相
・フィリピン/ドゥテルテ大統領
・ベトナム/クアン国家主席
・マレーシア/ナジブ首相
・ミャンマー/アウン・サン・スー・チー国家顧問
・モンゴル/エルデネバト首相
・ラオス/ブンニャン国家主席
・ロシア/プーチン大統領
中央アジア:
・ウズベキスタン/ミルジヨエフ大統領
・カザフスタン/ナザルバエフ大統領
・キルギス/アタムバエフ大統領
ヨーロッパ:
・イタリア/ジェンティローニ首相
・ギリシャ/チプラス首相
・スイス/ロイトハルト大統領
・スペイン/ラホイ首相
・セルビア/ブチッチ首相
・チェコ/ゼマン大統領
・トルコ/エルドアン大統領
・ハンガリー/オルバン首相
・ベラルーシ/ルカシェンコ大統領
・ポーランド/シドゥウォ首相
アフリカ:
・エチオピア/ハイレマリアム首相
・ケニア/ケニヤッタ大統領
南米:
・アルゼンチン/マクリ大統領
・チリ/バチェレ大統領
オセアニア:
・フィジー/バイニマラマ首相
日本からは自民党の二階幹事長ら官民約50人が出席しています。
しかし、地理的には全然関係のない南米やフィジーらの国々が参加しているのはどうしてなんだろう?習近平さんから、お小遣いもらったからかな?
ここで思い出すのは、第二次世界大戦中、日独が同じ目にあったことだ。いやもっと、厳しかった!日独に戦線布告しろと圧力をかけたのだから・・
アメリカの言うことを受け入れ、日独に宣戦布告した国々(連合国)が、国際連合の現加盟国となっている。
国連の英語名は、United Nations(連合国)なのだ。なんか、戦後の日本は、国連を平和の理念を体現したものと考えがちであるが、実は第二次世界大戦の戦勝国の既得権益なのだ。
その証拠に、米英仏露中は、拒否権などという絶対的な権利を保持している。日本は、巨額の国連分担金を支払いながら、永遠に常任理事国にはなれないのである。
おまけに、日独は国連の“敵国条項”に規定されており、戦争の結果確定した事項に反したり、侵略政策を再現する行動等を起こした場合、国際連合加盟国や地域安全保障機構は、安保理の許可がなくとも当該国に対して軍事制裁を科すことができる、としている。
つまり、あらゆる紛争を国連に預けることを規定した、先の国連憲章51条の規定には縛られず、敵国条項に該当する国が起こした紛争に対して、自由に軍事制裁を課する事が容認されるのである。さらに言えば、これらの条文は敵国が敵国でなくなる状態について言及していない。
そのため旧敵国を永久に無法者と宣言したのも同様であり、旧敵国との紛争については平和的に解決義務すら負わされていないとされている。従って、敵国が起こした軍事行動に対しては話し合いなど必要なく、有無を言わさず攻撃しても良いということである。米国を敵国としたツケは大きすぎる!!
しかし、今日、日本が米国側にいることを安堵してしまう自分である。
江戸末期、ヤクザの組長であったし清水次郎長は、旅途中の僧侶に、次郎長の短い生命線を見て、「そなたは長くない」と告げられたという。
その後、次郎長は東海道を歩いていたときに、心中しようとしていた若い二人を諭した。
「馬鹿なことはおよしなせえ」
二人は、考え直し、次郎長に感謝したという。
そのお蔭か、次郎長の生命線は飛躍的に伸び長生きしたという。
仏教では、他の人々を救済することで、自分も救済することになるという教えがある。
次郎長親分は、正にそれを実践したのであった。
私たちは、自分の価値観でしか世の中を見ることが多いです。なぜならば、「類は人を呼ぶ」といわれるように、同じ考え方の人たちが自分の周りに自然と集まってくるのです。
仏教では、「この世にあるものは全て仮のものであり、真実なものは仏の教えのみ」という『世間虚仮』という考え方があります。
過去は永遠に眠り、現在は矢のように過ぎ去り、未来はためらいなく近づくというように、今という瞬間は、仮の状態であり、直ぐに未来にとって変わられていきます。
また、異国や異郷に長らく住んでいると、今までのことに違和感を感じたり、世の中を複眼的に見ていくことができるようになります。
お釈迦さまは、この世の中を仮の世界と考え、常にあらゆるものは変化し続けるということを言われました。そして、法(真理)にのっとって思考し、生活していくことを広められたのです。
平然としている獅子の様であれ、
どんな網にも捕らえられない風の様であれ。
どんなに濁った泥水にも汚れずに美しく咲く蓮の様であれ、
それでいて、いくつしみと憐みを身に着け、
何をするにおいても自分の利益をはからないようにせよ。
獅子の様か・・
最後の文が気にかかる「何をするにおいても自分の利益をはからないようにせよ」
これは、王者のみ許される言葉ではないのだろうか?
せめて、自分の食い扶持、又は、自分の子供の食い扶持くらいの
収入が無くてはならない。現実として・・・
あんまり自分が、力が無いと、他の皆様に憐みを乞う人物になり、
他に人たちのお世話になってしまう・・・
大富豪になり、もはや自分の利益を求めなくても良いほどの人物となり、
困っている人々を助ける立場になりたいものだ。
そうなれば、「獅子の様に」「風の様に」「蓮の様に」成れるだろう!
自らを賢いと思うとき、自分は愚か者であると知れ。
井の中の蛙になるなと言う意味??
結構、狭い組織でトップになると、独裁者の様に振る舞う人いるよね・・・
周りは、太鼓持ちに成っちゃうしね・・・
結局、気を付けないと、そういう人は、『裸の王様』みたいになってしまうということでしょうね。
スッタニパータ経は、最古の仏典のひとつとされ、対応する漢訳は一部を除いて存在しないらしい。でも、中国経由のものだと、中国の色がついてしまうだろう。奈良か京都にあった四天王の四名様が、皆、中国の唐時代の鎧を着てらっしゃる。熱帯のインドで、あんな熱々しい鎧をまとったら、きっと、熱中症になってしまうでしょうね・・・・
体を大切にしなさい。
人には心ばかりではなく、体もある。
その体を傷つけたり、蔑ろにしたり、傷みつけないように。
よい行いをするときでも、そこには自分の体が無ければならないのだ。
だから、自分の体をよい行いのために使いなさい。
悪い行いするならば、自分の心ばかりではなく、
自分の体をも汚したことになる。
言葉、心、体。そのどれも傷つけないように
給料のいい仕事は、危険だったり、深夜勤務だったり、競合者を貶めたりすることは、自分の体を痛みつけたり、他人を傷つけたりすることではないだろうか。
出来るだけ、お金を使わないように、ずっと瞑想しているのが、一番、仏に近づけるかもしれない。
であるならば、煩い子供や、世話のやける夫などというものはいらないのではないか?そんなものがあると怒ったり、イライラしたり、心の平安を失うことになる。
必要最小限の人の為になる仕事をして、あとは瞑想してよう。
静かに死を待とう・・・まだ、早いか??
あぜ、死んだのだと天に問い続ける者たちよ。
死を最大の災厄のように思う人たちよ。
人間が死ぬのはまったく不思議なことではない。
大パリニッバーナ経は『涅槃経』と言われるもの。この書から、ブッダの最後の旅の様子や死の原因やその時のブッダの言葉など、詳しく伝えられている。
自分の死に際して、「わが齢は熟した。 わが余命はいくばくもない。
汝らを捨てて、わたしは行くであろう。
わたしは自己に帰依することをなしとげた。
汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、よく戒めをたもて。
その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし。
この説教と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、苦しみも終滅するであろう」と。そしてブッダ最後のことば「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
要するに、この世の中はつらいことが、楽しいことよりずっと多い、修行の場だから、修行がうまくいった者たちはもう生まれ変わることはないし、修行が足りないものはまた、別のところで生まれ変わって、頑張りなさいと言うことだ。この『涅槃経』には、極楽に行けるでしょうとか、そういう事は関係ないらしい。人間に生まれても動物に生まれても、生きるということは、動植物の命を断ち切って、自らの命を保っているのであるから、また生まれ変わるなどということはいいことではあるまい。
自分も「生まれをくりかえす輪廻」を終わらせるために、善行をして生きていこう。


