考察のテーマ


 糸守町に彗星が衝突してから三葉と瀧が再開するまでの空白の8年間、三葉と瀧はそれぞれ誰とも交際等していなかったのかについて、以下、考察を試みる。

 前提として、考察についての判断材料は、映画「君の名は。」の劇中描写のみに限定されないものとする(劇中描写のみを判断材料とすべきとの考え方もあり得るところではあるが、今回はそのような前提を採らない)。

 したがって、ノベル版「君の名は。」、コミック版「君の名は。」、その他製作スタッフへのインタビュー等も劇中描写と等価な判断材料として位置付ける。

 初回は、三葉についての考察を行う。


 交際等の経験がなかったことを推認させる事情


 まず、三葉に交際等の経験がなかったことを推認させると考えられる事情を列挙し、その意味合いについて検討を行う。


(1) 三葉のイメージコンセプト


 概要

 新海(監督)及び川村(プロデューサー)は、三葉のイメージコンセプトについて、次の各発言を行っている。

・新海「川村さんに『ヒロインに最初から男がいたら萎えるよね』と言われて、最初から片思いの相手がいる役割を三葉から瀧に変えた」

・川村「三葉は巫女として『口噛み酒』を作るようなヒロインだから、聖母マリア的な存在として描いた方がいいと思った」

 考察

 上記各発言は、物語の開始時、三葉に彼氏や片思いの相手がいなかったことを示すものである(確定)。そして、川村の「彼氏がいたら萎える」という感覚は、通常、物語開始時と空白の8年間との間で異ならないものと考えるのが自然である。そうすると、川村の意向として、物語開始時のみならず空白の8年間にも三葉には彼氏や片思いの相手がいなかった設定にしたと考えるのが自然である。

 もっとも、上記インタビューにおいて直接言及されているのは物語開始時の設定である。また、彗星衝突後は宮水神社が消滅し、三葉は巫女としての立場を失ったとも考えられる。川村は、三葉が巫女であることを、聖母マリア的な存在として描く方がよいと考えた理由として掲げている。そうすると、彗星衝突後の三葉については、聖母マリア的な存在というイメージコンセプトの射程が及ばない考え方も成り立ちうる。三葉に彼氏等がいたという考え方も、完全には排斥されないことになる。

 もっとも、後者の解釈は不自然さを伴うことも否定できないから、彼氏等がいなかったと考える方が自然である点に変わりはない。


(2) 彗星衝突の8年後の三葉に交際相手がいないことの描写等


 概要

 コミック版第3巻に、次の各描写がある。

・瀧が就活活動をしている時期、沙耶香の「三葉はいい人おらんの?」という問いに対して、三葉は「どこかにそんな人おったらいいなと思うけど」と答えている。

・それに対して克彦・沙耶香は、「三葉も大変やなぁ」「まだあの彗星の時のこと引きずっとるんかな」「かもな……でももう8年も経つんやし好きに生きていいと思うけどな」と感想を零している。

・二人の再開の直前期、四葉は「おねーちゃんのお見合い相手勝手に選ぶでね!」と言っている。また、四葉の「それともいい人おらんの?」という問いに対して、三葉は「ええ!?いやあどうかなあ」と答えている。

・その直後、三葉は、男性からの食事の誘いに対して、連絡先削除と思われる措置を取っている。

 考察

 上記描写からは、直接には、次のことが読み取れる。

①三葉は、彗星衝突の8年後の時期において、交際相手がいなかった。

②三葉は、同じ頃、男性からの食事の申し出を断った。

 そして、克彦及び沙耶香の「もう好きに生きていいと思う」という台詞は、直前の流れからして交際についての言及と解釈するのが自然であることや、上記各描写は彗星衝突後の三葉の日常生活についてのワンシーンとして挿入されていることからすれば、彗星衝突後の8年間、三葉には交際経験がなく、また、男性から接近される度に同様に断っていたことを強く推認させる描写であるといえる。

 もっとも、直接には8年後の時点での描写に留まることを踏まえると、それより前に他の男性との交際等の経験があったとする反対仮説を100%排斥することはできない。

 しかし、(1)と同様、そのような解釈は素直な解釈とは言い難いから、交際等の経験はなかったと考える方が自然である点に変わりはない。


(3) 2人の再開に関する新海のコメント


 概要

 新海は、パンフレット第2弾のスタッフインタビュー欄において、「ラストシーンは最初から決めていました。瀧と三葉の青春期はあの瞬間に終わり、その後は、ごく普通の男性と女性としての人生が始まるのだと思います。」旨の発言をしている。

 考察

 上記発言は、三葉と瀧が、再会までの8(5)年間、互いに無意識に想い続けていたことを指し示すものと解釈することができる。想い続けることは、必ずしも他の相手と交際等しないこととイコールではない(例として、新海作品「秒速5センチメートル(ノベル版・コミック版)」の遠野貴樹)。しかし、想い人がいる場合は他の相手と交際等は行わない方が自然であるといえるから、上記発言は三葉に交際等の経験がなかったことを一定程度推認させる。


(4) ずっと誰かを探していた旨の独白


 概要

 映画、コミック版、ノベル版の全てに共通して、二人の再開時、二人がずっと誰かを探していた旨の独白がなされる。

 考察

 これも、(3)と同様、誰かを探し続けることは、必ずしも他の誰かと交際しないこととイコールではない。むしろ、探している誰かに似ている人物に、何かを期待して近づいたり、あるいは、そのような人物に接近された場合、興味本意でそれを受け入れるということもあり得なくはない。

 しかし、これも(3)と同様、探している誰かがいる場合にはそれに合致しない相手と交際等は行わない方が自然であるといえるから、上記描写は三葉に交際等の経験がなかったことを一定程度推認させる。


 交際等の経験がなかったとの推認を妨げる事情


(1) 交際等の経験がなかったことの推認に繋がる複数の言及等がなされているにもかかわらず、交際がなかったとの確定的な明言がないこと


 概要

 「君の名は。」スタッフは、上記2(1)乃至(4)の通りの発言及び描写をするものの、それらの機会に交際等がなかったとの明言やそれに準ずる描写をしていない。

 考察

 上記の通り、新海及び川村には、三葉が空白の8年間に誰とも交際等していなかったことを明言する機会が複数回あった(いずれも、明言してもおかしくない流れであった)。それにもかかわらず、両名はいずれの機会にもその旨の明言をせず、曖昧な表現に終始している。

 空白の8年間、三葉に、交際等の経験なしという設定にしたのなら、それを受け手に伝えるべく、劇外又は劇中を問わず、そう明言する方が自然である。そうしないのは、各自の想像力に応じて解釈する余地を残す古典的手法と考えるのが自然である。

 したがって、上記事実は、交際等があったこと推認する事情としては機能しないものの、交際等がなかったとの断定を妨げる事情としては機能する。


 結論


 以上を総合すると、三葉に交際等の経験がなかったことを推認させる事情が複数存在する一方、交際等の経験があったことを推認させる事情は特に認められないことから、三葉は交際経験がなかったものと考えるのが極めて自然である。

 一方では、交際等の経験があったという反対仮説を100%排斥しきれるものでもなく、人によってはそのような想像の余地が残されているものと言える。

 すなわち、三葉には交際等の経験がなかったと考えるのが受け手の主流的解釈及び製作スタッフの原則的意図となるが、各人の好みに応じて反対方向に解釈しても差し支えない、というのが製作スタッフの総合的意図であると理解されるものである。


以上