4本あるロープの2本目と3本目の間を広げ、高橋時男はリングの中に入った。
天井からは眩いライトが4方から時男を照らしていた。
時男は軽く身体を揺らしてリングを一周しながら、辺りを見回した。
うん、見える。
時男はリングサイドに座る観客の顔を見た。はっきりと一人一人の顔が、表情が見える。デビュー戦の時はまったく見えなかった。どこかボーッとした感覚で、これから試合をすると云う実感すらなかった。何も無い平坦なリングの上で躓いてしまうんではないかと思う程に力が入らず、浮足立ったようにフワフワした所を歩いている感じがした。
時男は左足をヒョイと上げ、力一杯に踏み下ろした。ドンと云う鈍い震動がリングに拡がり、4本のロープを震わせた。
うん、大丈夫。
時男はコーナーに居る沢渡を見て、頷いた。
青コーナー側から入場して来た西日本新人王を無視するかのように辺りを見回す時男は、2階席の真ん中辺りに森岡敦司と京子の夫妻を見付けた。ペコリと会釈したが、それは森岡夫妻には伝わらなかったようだ。
…こんなに周りが見えるのは初めてだ。大丈夫、今日は落ち着いている。
時男はそう自分に言い聞かせるように、右のグローブで自分の左胸を4回叩いた。
「赤コーナー」
レフェリーの声にリング中央を向くと、すでに対戦相手とそのセコンド達が集まっていた。
「いくぞ」
沢渡に背中を押され、時男もリング中央へと歩み寄った。
西日本新人王。
直接顔を合わすのは初めてだった。8戦8勝6KOのハードパンチャーは、マスコミにも取り上げられる程の有望株だった。
時男はいつものように俯いて、相手の足元を見ながらレフェリーの注意に耳を傾けた。
「両者、手を合わせて」
その言葉に視線を上げた時男の目に、対戦相手である西日本新人王の顔が映った。
まるで積年の恨みを持つ敵でも見るかのような形相で、時男を睨んでいた。
一瞬、時男の動きが止まった。
「おい!」
中尾会長が時男の首に腕を掛け、ぐいと引っ張った。「一旦コーナーに戻るぞ」
「は…、はい」
まずい。
沢渡は時男の背中を押しながら、その微妙な彼の変化に気付いた。リングに上がってからも落ち着いていられたのは、これまでの辛い練習を乗り越えて来た事への自信に他ならない。その自信は、自分の内から湧いて来たもので、外へ向けてのものではない。しかし、この土壇場に来て改めて気付いてしまった。頑張れば乗り越えられる練習なんかではなく、相手と闘って白黒をつける『勝負』だと云う事に。頑張ったからといって報われるとは限らない非情なリングに居る事に。
このまま、練習のままの精神状態で試合に臨む事が出来たなら、時男の圧勝だっただろう。
しかし、敵意…いや、殺意と言っても過言では無い程の闘志剥き出しの眼を見て、時男は思い出した。
ここが、リングの上であると云う事を。
「セコンドアウト、セコンドアウト」
場内アナウンスと共にブザーが鳴らされた。
沢渡は、それに軽く舌打ちしながら時男の背中に言葉を投げた。
「時男!集中しろ、集中だ!!」
「はい…」
中尾会長が差し出したマウスピースを口にくわえながら返事をした時男の眼は、初めて沢渡と会った時と同じ、焦点の合っていないようなぼやけた眼に見えた。
乾いた鐘の音が後楽園ホールに響いた。
リング中央に進み出た両者がグローブを合わせた。その動きだけを見ても、本来の爪先で滑るようなフットワークを使う時男のそれではなく完全なベタ足だった。
まずい!身体が硬い!!
沢渡の不安は的中した。まだ身体の解れていない時男に、相手の大振りの右フックがタイミング良く当たってしまった。
「あ"~!?時男は立ち上がりが悪いんだよぉ~!」
中尾会長が頭を抱える横で、沢渡は唇を噛んだ。
最悪のパターンだ。
相手のフォローの左フックが時男のテンプルをかすめた。
時男はもんどりうってリングに倒れた。