ブログご来訪ありがとうございます。


しつこく山下町センチメンタルウォーキングの

続きの記事です。

(乗馬記事でなくて🙇‍♀️)


横浜は1859年の開港以来、

わずか86年間に2度、壊滅しました。


1923年9月1日   11時58分 関東大震災 


横浜みなと博物館の特別展のチラシから

写真は横浜港の大桟橋の惨状です。


横浜みなと博物館

二宮和也さんが横浜港付近を走り回る走る人ドラマ

「ONE DAY 〜聖夜のから騒ぎ〜」で、

二宮和也さんが倒れていた所ですね。


横浜開港資料館でも、特別展がありました。




横浜開港資料館の展示写真から。

惨憺たる横浜駅ホームに立ち尽くす駅長。

不眠不休で応対に当たったそうです。


奥に見えるのはジャックの塔(開港記念会館)



洋館が並ぶ山下町では、崩れたレンガや石材で、

道路は塞がれ、被災者たちは逃げ場を失いました。

(この写真では既に片付けられています。)


祖父母や曾祖父母達はこんな情景を見ていたのだと

思いました。

(この記事をお読みいただいている方々の中には、

阪神淡路、東北北関東の大震災を経験されている

方もいらっしゃるでしょう。

ごめんなさい、言葉が見つかりません。)


横浜市の死者23,440人、不明者3,183人


父方の祖母の父は、

今もある山手のゼネラルホスピタルの医師で

遊郭に往診に行って亡くなりました。


久保山墓地に身元不明者三千三百余人が

合祀された墓地があります。



震災後の大混乱のさなか、流言飛語によるリンチで

亡くなった朝鮮の方々の慰霊碑もありました。


祖母は逃げる時に、リンチを目撃したのですが、


その祖母も、白系ロシア人に間違われる顔立ちから

「おまえ、ガイジンか!?」と、詰め寄られ、

一緒に逃げた人が、「この人は日本人です。」と、

かばってくれたそうです。


海からの山下公園

震災の瓦礫を埋め立て、昭和5年(1930年) に

開園しました。



昭和14年(1939年)の山下公園




ワカメちゃんは私の母です。(3歳)

隣のカツオ君は母の兄で、まもなく

中耳炎をこじらせて亡くなりました。


手すりから幼児が落ちてもおかしくない状況なのに

誰も大人は注意を払っていませんねー驚き


この震災復興の平和なひとときも長くはなく

太平洋戦争で再びカタストロフィが襲い

その後の復興は長く険しい道でした。


私の幼児期の記憶では、横浜駅東口は

何もなく、汚くみすぼらしい所で

戦前の駅舎がただ、ガラんとありました。

横浜自体も、きらびやかな東京に比べれば

くすんだ印象でした。

なぜでしょう? 


初めて司馬遼太郎の「街道をゆく  横浜散歩」

を読んだ時、その答えを知りました。


首都の玄関である神奈川県の悲哀というか、

他県に類を見ないほど戦後、駐留米軍に

広範囲の地域を接収されたからです。


ことに県庁所在地の横浜市は市街地の殆どを、

更に心臓部と言うべき横浜港は全面的に接収され

その後も何と!港湾施設の

90%以上が20年間返還されませんでした。


その為の財政的損害は莫大で、他県に比べて

著しく復興が遅れ、神戸などのライバル港に

遅れをとったのでした。


 明治後も、東京の外港といってよく、

 それだけに、日本国の命運とじかに

 関わらざるを得なかった。 

   「街道をゆく  横浜散歩」から抜粋


対して神戸港は、国家の運命に直撃されることが

少ないだろうと述べています。

更に明るく開放的な神戸と対比して

横浜は歴史意識が強く、新築ホテルにしても


できたてのホテルに感ずる浮きたつような印象が

すくなく、むしろ50年も経つと、

古色を帯びて重厚な風格が

出てくるのではないかとおもったりした。

中略


時間についての意識をもちすぎているだけに

横浜は神戸より暗く哲学めいている。

神戸はそれをより薄くもっているだけに、

優れたカラーリストの絵を見るように明るい


司馬遼太郎が横浜を訪れたのは1982年で

みなとみらいが再開発される前ですから、

暗く哲学めいた横浜と言うのは、

山下町あたりの雰囲気のことです。

(実際に汚いということではないですからね!)


独特の司馬節でわかりにくいかもしれませんが

私も神戸には何回か行っておりますので、

なんとなく理解できます。

神戸の方がオシャレでハイカラな印象です。  


1945年、廃墟になってしまった市の一角で、

当時の市長(半井清)が、

これで先人の築いた横浜はすべてを失った。

とつぶやいたという。


日本全国が廃墟の中から立ち上がったのでしたが、

横浜は駐留米軍という足かせがありました。


念のため申しますが、

私も含め神奈川県民には、それでも

反米感情がほとんどないということです。(多分)


心臓部の港をもぎ取られても

横浜は生き続け復活します。


司馬遼太郎は、「街道をゆく 横浜散歩」の

最初に山下町を横浜の原形と述べて

最後に横浜の象徴と表現したものがあります。


横浜の象徴とは何でしょう?


又、長くなってしまいました凝視

後日、続きをお読み頂ければ幸いです。  


オマヌケ2コマ写真

   (撮影by師匠)




お読み頂きありがとうございました。