ここまでをまとめると、親鸞は、次のような流れをたどっていることになります

 

 

9歳で出家 → 20年間の修行生活(比叡山) → 下山(人生最大の挫折) → 百日参籠(京都:六角堂) → 神秘体験(六角夢告) → 法然に弟子入り(再出発)

 

 

修行の実際は、早起きして、読経。食事や剃髪などの身支度。日中は、漢文の経典を学ぶ講義なんかもあったんでしょうか。その合間に、食事作りや掃除・洗濯のような家事仕事。ときには、山中の回峰とか、托鉢のようなこともやったのかなあ。結構、忙しかったんじゃないでしょうかね。自由時間なんかあったのか。何をして過ごしていたんだろう・・・。

 

 

修行の背景に、出家者としての厳しい戒律を守る生活があることも当然です。

 

 

そこで、戒律とはどんなものか調べてみたんですが、意外なことが分かりました。日本の仏教は、他国の仏教に比べて、戒律がゆるいそうです。

 

3000人が受講したという仏教の学び場を主催する、長南瑞生先生の、日本仏教学院「現代人の仏教教養講座」仏教ウェブ入門講座の「戒律とは」によると、

 

 

中国をはじめとする仏教の戒律では、出家僧は、具足戒という戒律を守ります。具足戒には、次の5つに大別される250の戒律が規定されているそうで、

 

 

<具足戒の内容>

① 波羅夷(はらい)

男女の交わり、殺人、大泥棒、悟っていないのに悟ったという大嘘の4箇条で、これを破ると、永久追放になります。

 

② 僧残(そうざん)

誤って異性に触れる、規定以上の大きさの家に住むなど、13箇条で、これを破ると、別のところに謹慎して7日間懺悔するか、懺悔しない場合は、追放されます。

 

③ 波逸提(はいつだい)

所有に関する罪30箇条で、例えば4着目以上の衣や、2個目以上のお碗、お金など、所有してはいけないものを所有した場合、懺悔して、所有し過ぎたものは没収になります。

 

④ 提舎尼(だしゃに)

嘘、両舌(=悪口)、飲酒、非時食などの罪90箇条で、③④の120箇条は、別名「地獄に堕ちる罪」と言われています。

 

⑤ 突吉羅(ときら)

罪を告白して反省すれば消えるとされる113箇条。

 

 

10人の僧侶(注:僧侶として相応しい人物かどうか判断する面接官のようなもの)に見守られるなか、戒壇(かいだん)(注:出家の儀式を行う、結界のととのった場所)において、具足戒を守ることを誓うんだそうです。(あああ、大変そうだ・・・。)

 

 

一方、日本の仏教の戒律では、出家僧は、大乗戒(=菩薩戒)という戒律を守ります。大乗戒は、①②③の3つからなり、

 

 

<大乗戒の内容>

① 摂律儀戒(しょうりつぎかい):悪いことをやめることで、十重禁戒(じゅうじゅうごんかい)と四十八軽戒(しじゅうはちきょうかい)の2つに分けられます。

 

①−1 十重禁戒(じゅうじゅうごんかい)

ここには、以下の10の戒律が含まれます。

 

1 殺戒(せっかい):生き物を殺さない

2 盗戒(とうかい):他人のものを盗まない

3 婬戒(いんかい):性的な男女関係を持たない

4 妄語戒(もうごかい):嘘を言わない

5 酤酒戒(こしゅかい):酒の売買をしない、もちろん飲まない

6 説四衆過戒(せつししゅかかい):他人の過ちを非難しない

7 自讚毀他戒(じさんきたかい):自分をほめて他人をおとしめない

8 慳惜加毀戒(けんじゃくかきかい):もの惜しみをしない

9 瞋心不受悔戒(しんじんふじゅげかい):怒らない

10謗三宝戒(ほうさんぽうかい):仏・法・僧の三宝を軽んじない

 

①−2 四十八軽戒(しじゅうはちきょうかい)

ここには、肉を食べない、にらなどを食べてはならない、戒律を破った人を見過ごしてはならない、捕まっている動物は逃がさなければならない、犬や猫を飼ってはならない、仏教講座が開かれているのに欠席してはならない、などのほか、「新人はまず身体や腕、指を焼いて諸仏に布施しなければならない」「大乗の戒律を、自分の皮をはいで、自分の骨を筆として、自分の血で書写しなければならない」などの厳しい戒律も含まれます。

 

② 摂善法戒(しょうぜんぽうかい):善いことをする。

 

③ 摂衆生戒(しょうしゅじょうかい):苦しむ人に仏法を伝えて救う

 

(以上、引用、ここまで)

 

 

いやいや、具足戒よりもゆるいと言っても、大乗戒を守ることは、とんでもなく大変そうですねえ。怒らない、嘘をつかない、悪口を言わない、などに加えて、飲酒とか、性的関係とか、白黒をごまかしようがないものも含まれていますねえ。

 

 

さて、日本だけ、出家僧侶の戒律が違うというのは不思議なんですが、平安時代に、最澄がつくり、当時の朝廷が承認した、公式の戒律だそうです。ただし、仏教の正式な僧侶の戒律としては具足戒しか認めないという立場から、大乗戒には批判もあるそうです。大乗戒は、下線をひいたような、はじめからできそうもない戒律が含まれているため、どちらかというと、精神面を重視したものと言えるでしょう。

 

 

出家僧侶が、悟りという、至高のきわみを目指そうとしていることは理解できます。しかしそのための誓いが、こんなにも大変なものだったとは・・・。

 

凡人には、とても守れそうにありませんよねえ。

 

 

そもそも、出家とは、「師僧から正しい戒律を授かり、世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教コニュ二ティに入ること」ですから、自宅から出て、寺院で暮らし、修行をはじめる、というようなものではなくて、最初にまず、これから生涯、守るべき戒律が、師匠先生から授けられる。そういう厳粛な儀式からスタートするものなんですね。

 

ときは鎌倉。比叡山の戒壇において、親鸞も、大乗戒を授戒したわけです。

 

 

大乗戒を授けられたとき、どんな気持ちになるんでしょうか・・・。

 

厳しい戒律。守れないのが当たり前の戒律。そういう現実と、どう折り合いをつけられるかが、出家僧には試されるとも言えるわけです。

 

しかし、大人とちがって、わずか9歳で出家した親鸞に、大乗戒はどのように映ったんでしょう。

 

たぶん、こわかったと思います。守れなければ、地獄に堕ちるという約束なんですからねえ。

 

 

つまり、大乗戒に、大人感覚でのぞめればいいんですが、戒律を額面通り受けとめて、忠実に守ろうすればするほど、苦しみは大きくなると思いますよね。だって、守れないんですからね。

 

ああ、きょうも守れなかった、あしたも守れそうにない。あああああ。どうして自分は弱いんだろう、ダメなんだろう。

 

人一倍、修行に取り組んで来たであろう親鸞は、そんな苦しみに襲われたかもしれません。他のひとのことなんてたぶん、見ていないんです、親鸞は。

 

自分は戒律を守れず、煩悩も振り払えない。そんな自分の弱さを責めたり、あきれたり。ときには、絶望したかもしれませんね。

 

 

そしていつか・・・、修行は続けたほうがいいことは分かっている。でも、自分にはとても無理だ。親鸞は、それに気づいてしまい、20年かけてようやく自分の弱さを認め、弱さを乗り越えるための、新しい方法をみつけるアクションとして、比叡山を下山したんじゃないでしょうか。

 

親鸞は、たとえ他人が見ていなくても、ごまかしをせず、毎日、毎日、大乗戒をひたすら守ろうとして懸命に取り組んできたからこそ、「弱さ」に人間の本質があると気づいたんじゃないでしょうか。

 

わたしは、そんな風に思っているので、親鸞の気づきに、強い関心を持っているわけなんです。