ずっと探し求めていた答えが見つかった。

「何のために勉強するんですか?」
「なぜ勉強しなければならないのですか?」
という問いに対する答え。

学校の先生になってから(正確には自分が学校に通っていた頃から)ずっと考え続け,何度か答えらしきものにたどり着いていた。

例えば
「いい学校に行って,いい生活をするため」とか,
「大人になって困らないため」とか,
「未来の社会をよりよいものにするため」とか。

でも,どれもしっくりこなかった。
「何かのため」にするのって,勉強じゃないんだよ。

例えば,動物だって「食べるために」「生きるため」に,道具を習得したり,狩りの仕方を考えたり,芸を覚えたりして学習する。

しかし,勉強はしない。
動物に育てられた少女は,結局人間にはなれなかった。

「いい学校に行くため」「就職するため」「旨いものを食べるため」「いい服を着るため」「困らないため」「恥をかかないため」「社会をよりよくするため」「自己実現をするため」などなどは,すべて先ほどの動物の論理と一緒。

つまり,学習はしても「勉強」はしない。

言い換えれば,勉強は「何の役にも立たない」から勉強なのだ。

「役に立たないんなら無駄だ!そんなものやらなきゃいい」って?
おいおい,それじゃ動物と一緒だよ。

そう,勉強するから人間なんだ。
勉強をするのに目的なんかない。
強いて言うなら理由は「人間だから」。

食べる,寝る,子孫を残す,勉強する。
息を吸う,用を足す,運動する,勉強する。

単純に知的欲求を満たす行為が勉強。
知的欲求が満たされなければ物足りなく思うのが人間。

勉強!勉強!!勉強!!!
もっともっと勉強しよう!
はやく人間になりた~い!!!!!
夕食の時,長男が
「宿題があるから漫画が描けないんだよ。」
と言い出した。

長男は,漫画を書くのが趣味である。

すかさず私が,
「あなたがもっと賢くなって,宿題なんてあっという間に終わらせればいいんだよ。」
と答えると,妻も強く頷く。

それでも長男が,
「宿題なんて無ければいいのに」
としつこいので,

「子どもの仕事は勉強だ!つべこべ言わずに勉強あるのみ!」
とおきまりのフレーズで会話を打ち切った。

その時,ふと思った。

いつからだろうか?
「子どもの仕事は勉強だ!」
って言わなくなったのは。

いつからだろうか?
「○○ちゃんはよく勉強してえらいねぇ。」
って言わなくなったのは。

いつからだろうか?
「末は博士か?大臣か?」
って言わなくなったのは。

祖母に「おじいちゃんは大学に行きたくても行かれなかったんだから,しっかり勉強して大学に行くのよ。」って言われたことも思い出した。

私は,声を大にして言い続けたい。
「子どもの仕事は勉強だ!仕事をしない奴に食わせる飯など無い!」と。
リビングに散らかったものを片付け,掃除機をかける。
こざっぱりした部屋を見渡した時,満ち足りた気持ちになる。

休日。昼食後に小上がりの畳スペースに横になり,リビングを見渡す。
家族が思い思いに,のんびり過ごしている。
やっぱり満ち足りた気持ちになる。

「僕は,この時間を守るために働いているんだなぁ。」

お金とか出世とか,名誉とかじゃない。
そんな僕は,草食系?

でも,それでいい。
それがいい。
おいしいご飯を食べると,おかわりしたくなる。
おいしい料理は,何度も食べたくなる。
おいしいお店は,何度でも行きたくなる。

読書も一緒で,何度も何度も読み返したくなる本ってありますよね。

そんな本で読書感想文を書けばいいのにって,この時期になると毎年思います。

たった一回しか読んでいない本の感想って,そりゃありきたりになりますよ。
たった一回しか読みたくない本の感想って,そりゃ薄っぺらくなりますよ。

いい読書感想文を書くためには「おかわりしたくなる本」との出会いが欠かせません。

みんな,おかわりしたくなる本(=愛読書)を見つけよう!
そうだ「おかわり読書」をしよう!
子どもには 
百とおりある。
子どもには
百のことば
百の手
百の考え
百の考え方
遊び方や話し方
百いつでも百の
聞き方
驚き方,愛し方
歌ったり,理解するのに
百の喜び
発見するのに
百の世界
発明するのに
百の世界
夢見るのに
百の世界がある。
子どもには
百のことばがある
(それからもっともっともっと)
けれど九十九は奪われる。
学校や文化が
頭とからだをバラバラにする。
そして子どもにいう
手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい
話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい
愛したり驚いたりは
復活祭とクリスマスだけ。
そして子どもにいう
目の前にある世界を発見しなさい 
そして百のうち
九十九を奪ってしまう。
そして子どもにいう
遊びと仕事
現実と空想
科学と想像
空と大地
道理と夢は
一緒にはならないものだと。

つまり
百なんかないという。
子どもはいう
でも、百はある。

レッジョ・エミリア幼児教育のの創設者の1人であるローリス・マラグッツィの詩。(訳は,田辺敬子)

行ってきました,「レッジョ・エミリア 驚くべき学びの世界展」@ワタリウム美術館。

入ってすぐに,この詩にカウンターパンチを浴びせられ,その後の子どもたちの言葉や作品の一つ一つにノックアウトされました。

僕は,これまで目の前の子どもたちのもつ,無限の可能性をせっせせっせと刈り取っていたんだな。
くやしさとせつなさで胸がいっぱいになりました。

時間がたつにつれて,そんなやるせない思いまで,子どもたちの言葉や作品がきれいに洗い流してくれました。

しだいに心が空っぽになり,そこに子どもたちの言葉や作品がどんどん響いてきました。

「ああ,僕は,まだまだ現場でやり残したことがいっぱいある!」

「やらなきゃ!」

最後は,強い決意をしていました。

レッジョ・エミリア 驚くべき学びの世界展」@ワタリウム美術館,今月末までです。
残り2日しかありませんが,まだ行ってない人は,場に身を置くだけの価値あり!

お勧めします!