大げさかもしれないけど、私は生まれたときから看板を背負っていた。

父方、母方両方が商売をしていたからだ。

近所でも、「○○(親の商売)さんところの…」と必ず、看板形容詞がついた。

駅からの帰り道、買い食いしたら、翌日には、母親にバレていた。

東京という大きなカオスの中では、なかなかよくできた通報システムだったように思う(笑)


私は、小学校から私立のエスカレーターに乗せてもらった。

いやらしい受験戦争などない、本当におっとりとした世界だった。

何の迷いもなく、引かれたレールの上を歩いていた。競争なく、のびのびと、恵まれた環境で幼少時代をすごした。

疑問を感じずに歩いていたレールが、急に頼りないものに思えた。

「世間」というものを知ったからだ。

特別大きな「世間」の波にあったわけでもなく、ただ、漠然と、「私は世間で通用するのか?」と思った。

成績がそこまで悪いわけでもなく、常に中くらい。

でも、その成績っていうのが、どうやってついているのか、それを考えたら、突然自分があほに思えた。


高校1年の数学の期末の前の晩。

問題集を5回以上やり、答えを覚えちゃったくらい勉強した。最後の1回、さらーっとやってから寝よう、そう思って開いた。

第一問目からいきなりわからない。

あせりがあせりをよび、手の振るえがとまらなくなった。

足まで震えてきた。

怖くなって、たまたま日本に帰っていた兄の部屋に行った。どうしよう、振るえがとまらない。

息が苦しい。息を吸っても肺の奥まで空気が入っていかない感じ。


どうしてもとまらなくて、母を起こした。

夜中の2時に、もうしわけなくて、もっと苦しくなった。

結局、夜中に車で病院まで連れて行ってもらった。診断結果は、過呼吸。緊張して、息を吐くのを忘れるという、冗談のような病気。

医者に、「数学のテストなんて、人生長い目で見たら、ちっぽけなものだよ。もっとリラックスリラックス」、そういわれた。


引かれたレールだけを見て歩いてきて、数学のテストが巨大なモンスターのように思えてしまったのだ。

世界が狭くなると、ちっぽけなはずのものが巨大化しているのかもしれない…ちらっとそう思った。


兄の留学出発当日。

母が空港で目を真っ赤にして泣いていた。

「あれだけ自分のことを苦しめた息子がアメリカ行っちゃって、せいせいしているはずじゃないの?」

何で泣いているのかわからなかった。

空港からの帰り道、

「あの子がアメリカでどうかなっちゃっても、死んじゃったとしても、もう私にはどうしようもない。だから、あの子のがんばりを信じるしかないのよね」

泣いていた意味がやっとわかった。


兄がアメリカに行ったら、兄の本棚をもらうことになっていた。

本棚がほしすぎて、兄の出発を心待ちにしていた私は、空港から家に戻ってすぐ移動をさせた。

埃だらけだったから、雑巾で拭いた。

どういうわけか、涙があふれて仕方がなかった。雑巾掛けができないくらい、どーにもこーにもとまらなかった。

死んじゃえばいいと思っていたのに、寂しくて寂しくて仕方がなかった。一緒にいれば、喧嘩ばかりなのに、でも、やっぱり、家族5人が早々そろえなくなることが、苦しかった。



2年後、アメリカにいる兄のところに遊びに行った。

母が進めてくれた。

あんな兄にあってどうするの?と思いつつ。

アメリカ人とぺらぺら話をして、みんなから慕われている兄を見て、心がすっきりするのを実感した。

本当に本当にすっきりした。

そのときバイトでお世話していた日本人留学生予備軍が、兄を「憧れだ」といった。信じられないような言葉だけど、そのとおりだと思った。

兄を尊敬した。

落ちこぼれといわれ、自信もへったくれもないくらい、ドン詰まりだった兄が、本当に輝いていた。



その4年後、私も兄と同じくアメリカ留学を決意した。

今日は私の兄の誕生日だ。

お誕生日おめでとう、そういうために電話した。

数年前だったら考えられないようなことだった。


私の兄は、天敵だった。

中学受験をし、両親の出身校に入るという奇跡を起こした。

小学校高学年から毎日家庭教師にスパルタ教育された結果だった。


その反動か、1学期の最後に早速両親と呼び出され、落第生の烙印を押された。

「いくらエスカレーターでも、このままでは大学いけませんよ」


母親は毎日泣いていた。

きっと、良かれと思ってさせた受験がために、息子がおかしくなったと、責任を感じていたんだと思う。まじめな母は、正解を求めて本当に悩んだんだと思う。

でも、それでも、兄は勉強をしなかった。毎日毎日音楽を聞きまくり、ギターを弾きまくり、これでもか!というくらい親に反抗していた。

母は白髪が急激に増え、円形脱毛症になった。

幼心に、女としての痛みを感じ、それは、私の中の兄への恨みへと変わっていった。

毎日、死んでほしいと思っていた。怖い話に聞こえるけど、でも本当にそう思っていた。


小さいころから、毎日忙しかった父。

日曜日しか休みがなく、その休みは早起きして家族みんなでいろいろなところに出かけた。

週一日しか休みがないのに、3日分くらい充実していた。

ほかの人と比べる能力なんてないときから、私は本当に幸せな家庭に生まれてきたと自負し、それをこっそり感謝していた。

ずっとずっと幸せなままがいい…そう思っていた。


そんな思いが、中学受験をした兄によって壊されているように思えた。兄を恨んだ。

悲しんでいる母を助けたくて、また幸せな家族になりたくて、毎日喧嘩した。結果的には、その喧嘩がまた母の心労を増やしていただけなんだけど。でも、私は私なりに、自分をコアに支えているはずの家族の輪を求めてもがいた。


予想通り(?)、兄は大学にいけなかった。

いけるもんだったらやっぱりエスカレーターで大学に行きたかった、そういっていた兄が決めた進路はアメリカ留学。

心のそこから、「これから毎日この顔を見なくていいなんて」と喜んだ。