16/❹/⑵/1章/『スコ史』 | 藤原の田中のブログ

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 しかし、オズウィの息子エジフリズ(Egfrith)は、前に進みすぎて、685年、ネヒタンスミアの戦いに敗れて殺された。(訳注1)その後、アングル人はストラスクライドに矛先を変えた。731年、ウィットホーン(訳注2)にアングル人の司教が現れた。その後ほどなくして征服軍はカイルに進出していた。さらにはダンバートンにまで。(訳注3)彼らの進軍はピクト人との同盟によって容易にされた。おそらくほんの一時期のことであったが。同盟が成立したのは、一部には、エセルフリスの息子のエンフリスがピクト人の女性と結婚していたことがあったかも知れない。そして、ピクト人は母系で家が続いていく社会なので、ピクト人の王家の家系にアングル人の血が入ったことによると考えられる。


(訳注)

1.東海岸アンガス地方のアープロース近郊のネヒタンスミアで、北上してきたアングル人をピクト人が打ち破った。(武部,122頁)

2.ウィットホーン(Whithorn):今日のダンフリース・アンド・ギャロウェイ・カウンセルエリアの王立勅許都市。

3.アングル人とピクト人がタッグを組んで、ブリトン人の要塞ダンバートンを攻撃した。(756年)