「身心一如」完結編 | ハリーの養生訓

ハリーの養生訓

僕が見つけた養生

「宗医一体の真意」と題した文章を概観してきましたが、その文章を書いた半年後に、僕自身の体に激烈な症状が現れるようになります。

全身の皮膚が炎症を起こし、血や体液が滲み出し痛痒く、ほとんど一睡もできないような日々が続きます。精神も抑うつになり、そのうち夜間に頻繁に喘息発作が起きるようになって、突発的に死を想うことも多くなりました。

最終的に体力の低下が著しくなり、帯状疱疹を発症するにいたって、精根が尽き果てました。

今思えば、そこで余分な力みが取れたのが良かったのでしょう。
2週間の断食を行い、その後小康状態になり、薄皮をはぐように軽快していきました。

かねてから、病気との向き合い方を思索してきた僕が、実際に試されることになったわけです。

わかってはいても、目の前の苦しみに、心が折れてしまうことも経験しました。

その上で、僕は2014年「観の転換から本心の開発へ」という文章を書きました。

文末に、「日々行ずる尊さ」に気づいた、としめくくっています。

「この身を通して、日々行ずること」

不器用な僕がたどり着いた結論でした。

今まさに病気に苦しんでいる人に読んでいただき、その苦しみが少しでも楽になればと思います。

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なぜ病気になったのだろう?
なぜ治らないのだろう?
病気とはそもそもなんなのだろう?
治るとはどういうことなのだろう?

たとえ病気になっても、数日から数週間で完治するものであれば、こうした疑問に向き合うこともないでしょう。

ところが、先進の現代医学をもってしても治らない業病とも言える宿痾、痼疾に苛まれて、初めてこうした疑問に直面することになります。

苦しみから逃れたい一心で、なんとしてでも治したいと、治療法を模索する日々。

自らの心身に鞭を打ち、次第に消耗する体力と気力は、「もう終わりにしたい」「いっそ楽になりたい」と人生を投げ出すことさえ厭わない心境に陥れていきます。

絶望の淵に立たされて、宗教が救いになることもあるでしょう。

人生観や哲学といったものが、一筋の光になることもあると思います。

いずれにしても、病気に意味を見出し、治るということについて、今一度考えてみたいと思うのです。

小林正観氏は「治さない治し方」についてこう述べています。

『気の力で病気を治すという超能力者がいて、この方は、1年間に3万人ほどを治したそうです。
その人とは、一度も会うことがないのですが、もし会うことができたら、私は一言アドバイスをしたかったことがありました。その人は、一年に3万人を治したそうですが、3万1人目というのは1人目の人なのです。実は、治っていないでグルグル回っているだけ。その時は改善されて治ったように見えますが、単にポンと治してもらって自分の考え方や生き方を全く変えなければ、また同じ病気になる。そして、一年たったときに、またガン細胞ができていました。この方は、ただ単に病気を治しているだけ。生き方やイライラや腹を立てたり、怒ったり、怒鳴ったりということについては、一切この人を変えようとはしていない。治療を受けた方は、「治った」と言って喜んで、そして、「また調子が悪い」と言ってくるのです。そして、それをまた治している。同じことの繰り返し。それを3年位続けたときに、やっていても無意味だとわかったようです。だから一人ひとりを治すという「治す治し方」の方向ではなくて、「治る治し方」をすることをお勧めします。
ーー中略ーー
最終的なことを言いますと、治さなくてもいい。このようなことは、どうでもいいのです。つまり、治るとか、治らないとかの問題ではなくて、人間のもっと根源的な部分の話をすると人間は長生きをすることが目的ではなくて死ぬまでに何をするか、何を残すかだけ、そのことが理解できたならば、「体を治すとか治さない」という問題でなくなるのです。

人間の寿命

人間は50歳で死ぬ、80歳で死ぬ、100歳で死ぬ、身長が170センチ、体重が何キロ、足が何センチというように、一人ひとりがみんな違う。それを個性と言います。それと同じように自分の体に身についている、ある種の宿っている命題というものがあります。寿命というのも全部生まれ前に決めてきている。でも、医者からは2カ月の命と言われた病人が、ある人のアドバイスによって何か新しい療法をやったら20年も生きているという例があります。「その人が教えてくれた療法をやらなければ、助からなかったではないか。じゃあ、延命したのではないか」と言う人がいますが、寿命が変わったのではなくて、その人がそういうアドバイスを持ちこんできてくれて、その結果として延命したことが、もともとのブログラム。だから、そういう話を持ち込まれて「やってみようかな」と思ったらやってみればいい。それをやってみたら助かったではないか」とか「助からなかったではないか」と思うことは無意味。だから、その人に対して、ものすごく感謝をする必要もない代わり、「そうでなかったじゃないか」と言って恨むのも間違いです。そういう話を持ち込まれること自体が自分の運命、自分の書いたプログラム。それをやった結果として延命した場合もプログラム。やらなくてもそのまま亡くなった場合もプログラムです。人間は病気で死ぬこともないし、事故で死ぬこともありません。人間が死ぬ理由はたった一つ「寿命」というものです。
「寿命ではなくて、老衰や病気で死ぬのではないか。事故で死ぬのではないか」と言う人がいました。これは、「病気という名の寿命」「事故という名の寿命」なのです。私は自分の死ぬときを知っていますが、何でもありません、予定どおりに死んでいくだけ。だから、いかに長生きするかではなくて、死ぬまでに何をするか、ということなのです。』


肉体的な変化をもって治るのではなく、病気の原因となる心に目を向けることで初めて治るのだということを説いているのでしょう。

言い方を変えれば、人間は、心を変える、あるいは進化させるために生まれ、そして生きているのだという示唆を含んでいます。

また「寿命は決まっている」と信じることができれば、運命に抗う執着や力み、無用な不安がなくなるということでしょう。

この小林正観氏の治し方の分類は、沖正弘氏の思想によるところが大きいようです。

沖正弘氏はこう述べています。

『私は治し方を三つに分けて考えている。その第一は「治す治し方」である。これは、外部から何らかの方法によって患者に接し、物理的、化学的な方法のみによって変化させようとする考えである。患者の内部の生命力、自然治癒能力に働きかけることを第一義としていないので、患者に依頼心を起こさせ、また生命に聞く方法をとらないために、危険なことや無理も生じやすいのである。第二は「治る治し方」である。この方法は内部の生命力と外部の働きかけが、心、身、生活の全部にわたって一つになったもので、自然治癒能力を高めるために生命に聞く自然の方法をとっており、ヨガの消極的方法である。積極的方法は第三の「治さない治し方」である。これは、治すための方法を一切とらないというのではなく、治す治さないという気持ちを離れ、正しさを求め行うことだけを目的として病気とともに生きようという心境になった時、自然と病が治っていく方法である。これを「治さない治し方」と私はいっているが、心の奥底の問題まで、深くかかわってくるので、この治り方ができるまでには、かなりの修養と修行が必要である。治さない治し方とは自他一如、つまり病と一体(三昧)になり、自己を正していくことで、病気が自然に治っていくことをいうのである。

私が、永年の間、実際に数多くの人たちに健康法、治療法、悟道法を指導させていただいて、痛切に感じていることがある。それは、自分自身だけの心身を整え、高め、強めることは一生懸命に研究し、行っているけれども、自分以外の他(社会)に対する共栄の生き方に心を配る生き方を忘れている人が多いということである。自己中心、利己主義、自己本位の健康法ではそれはかたよりであるから、いくら正しい方法であっても、けっして真の健康体にはなれないのである。われわれは、お互い同士が生かし合って生きている存在であるから、他に喜びを与えるような生活の仕方をしないかぎり、また、仕事が喜んでくださるような仕事の仕方をしないかぎり、相手に嫌われることになる。つまり相手から害をされることになるのである。私は、「他に喜ばれるような生き方をしないかぎり、救われないし、健康にもなれない。嫌えば嫌われ、いじめればいじめられ、愛すれば愛され、与えれば与えられ、奪えば奪われるのが自然の法則である。あなたが救われたかったら他を救いなさい。あなたが治りたかったら他の治ることに協力しなさい。他を救った程度にあなたが救われるのである。この他に喜んでいただけるような生活や仕事をすることが最高の生活健康法である」と教えている。』


自らの心身を改造し、生き方を積極的に変えること。

ヨガが修行法として自力行であるとすれば、その対極に阿弥陀様におすがりし、念仏さえ唱えれば浄土に行けるとする浄土系の教えは、他力行となるでしょう。

現代にその他力行を蘇らせた五井昌久氏はこう述べています。

『病気を治したい人が、この病気を治したい、治したいと、想いがいつまでも病気を追っていたら、病気はいつまでも治りません(中略)どの宗教でも病気は治ると思います。何故治るか。たとえば一生懸命お題目をあげるんだ、とやっていますとそこに想いが集中しますでしょ。そうすると題目に想いが集中して、足の悪さとか体の悪さを忘れちゃうんです。想いが凝っていたのがだんだんほぐれて、知らない間に治るんです。これは観の転換といって、何も神さまが治すんでも、仏さまが治すんでもない。だけれども、病気は治るけれども真理を知ったわけじゃない。病気が治ったことは嬉しいけれども、本心が現れたわけじゃないから、今度は違った形で現れてくる。人にいじめられるとか、やっつけられるとかいう形になって、業が現れてくるわけですね。業が変わってくるだけだから。
宗教の根本というものは、魂が清らかになる。心がどんな場合でも安らかでいられる、ということです。この根本に立ちまして、病気も治ってゆく、家庭の不調和もなくなる。不幸もなくなる、ということになるのです。』

「観の転換」と「本心の開発」が同時並行で行われることで、病気は消えていくことになります。

浄土宗開祖の法然は、この両者を念仏を唱えるだけで達成されると言っています。

これは法然が亡くなる直前、弟子である源智上人の要請に応えて、称名念仏の意味・心構え・態度について書かれた「御誓言の書」があります。

現代語訳

「私(法然)の説いてきた念佛は、中国や日本の多くの智者や学者が論じてきたような、仏の姿や浄土の様子を心を静めて思い浮かべるといった観想の念仏ではありません。また、仏教を学んで念佛の意味を理解してから唱える念佛でもありません。

ただ、阿弥陀佛の極楽浄土へ往生するためには、ただひたすら南無阿弥陀佛と唱えれば間違いなく往生できるのだと信じて唱えるほかに、とりたてて何もありません。

ただし、念佛を唱える心の持ち方としての三心(至誠心、深心、回向発願心)や念佛者の生活態度としての四修(恭敬修、無余修、無間修、長時修)といわれるものがありますが、これらの教えはみな南無阿弥陀と唱えればかならず往生すると思ううちに、自然と身についてくるものなのです。

このほかにもっと深い理由をつけたりすると、お釈迦さまや阿弥陀仏の慈悲の御心に背き、救いの本願にもれてしまうでしょう。

念佛を信じる人は、たとえお釈迦様が生涯かけて説かれた教えをよく学んだとしても、お経の一文すら理解できない愚か者の立場に立ち、無学な尼や仏教知識の乏しい者と同じように、才智学問をひけらかすような態度をとらないで、ただひたすら念佛を唱えなさい。

以上のことに偽りがない証として、両手の印を押します(両手の判を押して自身が証明します)。
浄土宗の信心の持ち方と実践の方法、この一枚に記したことに尽きています。

私(源空=法然上人)の考え方は、ここに記した以外に別の考え方はありません。私の死後に間違った考え方が出てくることを防ぐために、私の考えを記しておきました。」


「ただひたすら念仏を唱えなさい」

念仏に専念することで自然に心がついてくるという法然の教えは、翻って、世の中にある健康法いずれを採用したとしても、それに専念し「観の転換」が行われ、さらに「本心の開発」に結びつくのであれば、自力行と思えたものも、結局同じことを言っているように思います。

凡夫にとって「治したい」という気持ちを手放すことは、そうたやすくできることではありません。

だからこそ、手始めに肉体的な次元における取り組みに没入することをもって、漸次、ゆるやかに心の世界に入っていくようになれば良く、それがまさに健康法の意義でしょう。

もっと言えば、「この方法でなければならない」とか「もっと強度を高め、負荷をかけなければならない」といった気負いは、一切いらないということです。

改めて、背伸びせず、手の届くところで、地に足つけて、日々行ずる尊さに、今さらながら気づかされるというものです。