「身心一如」 | ハリーの養生訓

ハリーの養生訓

僕が見つけた養生

これから2010年に書いた文章を3回に渡って載せたいと思います。

2011年に入って体調を崩したので、これを書いていた頃はまだ元気な頃だったのだと思い返します。

なぜ今になって過去の文章を引っ張り出してきたかというと、養生館を始めるにあたって、その軸となるコンセプトを考えあぐねていたわけですが、ここ最近ストンと腑に落ちたからです。

ずっと悩んでいました。

いろいろと新奇なものをと考えていたのですが、付け焼き刃な感じを否めないのと、自分の中でどうもしっくりこない。

そして、迷走の挙句、原点に帰ることにしました。

自分は何が好きなのだろう?

好きなもの、心が浮き立つもの、今まで歩んできた道を振り返ってみました。

そして浮かんできた言葉は

「身心一如」

でした。

自分には専門分野がないのが負い目でした。

ゼネラリストではあってもスペシャリストではないという。

だから、自分の外に、より良いものが何かあるはずだと思っていたのでした。

しかし、今となれば、点と点がつながり、自分が歩んできた道、習得してきたもの、今まさに自分の中に息づいているもの、すべてに通底するものが「身心一如」だったわけです。

この発見は、雲が晴れたような喜びでした。

これから「身心一如」について、このブログで深め、それを養生館で実践していくことになりますが、その前に「宗医一体の真意」と題した、過去の自らの文章を概観してから始めたいと思います。

2011年を境に、僕は大病を経験し、大きく変わりました。

しかし、読み返すに、不思議と変わらない部分も見て取れます。

それを踏まえて、論を進めたいと思うのです。

まずは3編のうちの前編から。

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同じ志をもつ盟友と久しぶりに杯を交わす機会があった。

そこでの話。

治療行為は「なぜ病気になり」「なぜ治るのか」を徹底して思索した上でなければならないという認識で一致した。

そうすれば「治す」という一方的な我欲や自意識が出てこないだろうと。

我欲をもって人をモノのように扱い、容赦なく物理的刺激を与える治療家がいる。
それで本当に治るだろうか。

「治そうと思うと治らない」

本質に迫ると、その真理に気がつく。

体に激しい動揺を与え、ただ変化しただけなのか、本当に永続的に治ったのか、見極めねばならないだろう。

病気は一方的に「治すもの」ではなくて「治るもの」に違いない。

なにがなんでも早く治す必要もないだろう。

病気になった原因があるからだ。

「治療家」という職業があるとすれば、症状という「自然治癒力の表れ」をとらえて、その自然な経過に添いながら、ともに病気の真意に気付いていくことではないだろうか。

たとえば二人で行う指圧。

「力でおす」

我の押し付けでしかない。

「寄り添い、もたれかかる」

支え合い、補い合いの境地が立ち現れてくる。

何かに飢え、渇望し、不足を感じているところを、理解し共感して差し上げる。
それ以上でも、それ以下でもない。
小手先のテクニックは二の次となる。

世間には様々な技法、理論があるが、すべて方便なのだろうと思う。

治癒という現象は、内的な変化、つまり心の好転が必ず伴っているはずだ。

その表れのひとつとして生活習慣の改善がある。

肉体を物質として捉え、人為的に操作することだけで人は決して治らないだろう。

そう断言するのは、心身の精妙さに謙虚に畏敬の念をはらっているからに他ならない。

「見えるもの」だけに囚われた物質的な志向は、手なり指先から伝わり、受け手は敏感に直感的にそれを感じとるものだ。

それでは精神的な不足を補うものにはならない。
むしろ肉体という器にとじこめられた根元的な孤独を突きつけられるかもしれない。

「治してやる」などという傲慢を排し、支え合う、補い合うという、きわめて本質的にして原初的な連帯、調和、共生としての人間の在り方のうちに真の治癒現象があるのだろう。

病気にも意味がある、否、意味を見い出し、それを進化向上に活かせるのは人間だけではないか。

親の子殺し、子の親殺しが頻発する昨今。

求められるのは、専売特許として専門家に独占されたギルド的な治療行為ではなく、人間関係の最小単位である家族間のふれあいに還元するという、いわば個人の疾病と社会的病理を含み込んだ巨視的な「本治」ではなかろうか。

…蒸し暑い東京上野の夜、居酒屋で冷や酒をチビチビやりながらの話は、こんな主旨であった。

次回はこの結論にたどりつくために、学び、これからも学び続けていく二人の師の言説を紹介し思索を深めていきたいと思う。