責めない生き方 | ハリーの養生訓

ハリーの養生訓

僕が見つけた養生

リサ・ランキン著「病は心で治す」の巻末で矢作直樹先生(東京大学医学部救急医学分野教授)の解説があります。

そこでこのように述べています。

『ここで語られることは、すでに科学ではなく、一番大きな心の持ちよう、本当の意味での心の問題について、鋭い指摘をしていると思います。今の日本でもそれこそ「〇〇をすれば××が良くなる」などといった、たくさんの健康法があふれていますが、それらをあっさりと越え、気持ちの持ちようのほうが影響が大きい、とすべてひっくりかえしてしまうわけですから。しかしながら、「幸福は病気を予防する」「幸福であれば病気を治せるか」というのも、私は、一般論にしてはまずいと思っています。というのも、病気というのは、当然その人自身の生きてきた人生すべての結果が現れているのです。ということは、今生の人生だけではなくそれまで繰り返した人生の結果の分も背負っていることになります。だから、人により、それまでの生で解決できなかった課題をこの人生において病気というかたちをとってもう一度向き合って生き方を見直すだけでなく、病気と共存するように心がけることが必要になるかもしれません。だから「幸福であれば病気は治せる」とは言い切れません。』

現役の医師が、このような考えをもち、それを公にしていることに驚かされます。

僕自身、個人的な経験、さらに多くの人々から病気や健康についてのお話を伺う中で、常に抱いていた思いがあります。

病気になったのは、「あなたの生活習慣が悪いからだ」「心の持ち方がいけない」、このような言い方には常に疑問を抱いていました。

もちろん明らかな不摂生から引き起こされる病気もあるでしょう。

心の傾向や癖によるものもあるでしょう。

ただ、原因を断定してしまうことで、病気になったのは単なる過失に対する懲罰でしかなくなり、自他を責め裁く思いにさいなまれることになってしまうのです。

矢作先生の言う『今生の人生だけではなくそれまで繰り返した人生の結果の分も背負っていることになります。』は、まさに輪廻転生と業(カルマ)の肯定であって、課題としての病気、つまり、病気であることを自らすすんで選んでいるという視点に、病人に対する敬意と深い愛情を感じるのです。

生まれつきの病気もあります、幼い子どもの難病もあります。

たかだか数年の今生だけに原因を求めるのはあまりにも短絡的であるし、幼い子に責任を押し付け責めることほど酷なことはありません。

これは大人であってもそうです。

不自然きわまる現代に生を受け、出自、境遇を乗り越え、使命を果たし、額に汗して働き、家族を養い、日々身を削っている人に、いかにも模範的な健康生活を勧められるでしょうか。

みなが理想的な生活を送れるに越したことはありませんが、それは現実から目を背けたユートピア思想の範疇であって、まず現実社会に生きる我々の業を肯定してこそ、地に足のついた人生を営めるのだと思います。

治療行為というものがあるとすれば、施術者側をも含めた、それぞれの課題がまっとうされることを祈るだけであって、症状の消失があったとしても、それをとって人が人を治したと標榜できるものではないでしょう。

治すのではなく治るのであって、治る時に治るのです。

なにか特定のテクニックを行使したからと言って、それが直接的に作用して治るというのは機械論的であって早計だということです。

「病気が必要な時には治らない」この視点をもってすれば、治らないからといって、自分を責めたり、ましてや医師や治療家を責めることもないのです。

この境地に至って、課題はまっとうされるのではないでしょうか。