▼以下引用(朝日新聞・2023年8月26日(土)『悩みのるつぼ』より)
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生きる意味を教えてほしい
(50代、女性)
高1の息子は、高校へ入学してからほとんど勉強をせず、学校で指定購入したパソコンにラインやらゲームやらをインストールし、動画サイト見放題です。先日の三者面談で留年の可能性を指摘されているのに生活は変わりません。中学まで私の圧力で勉強をさせてたのが最大の原因と考え、教育に関する本を読んだりセミナーを聴いたりして、小言や命令を言わないように自分の感情を押し殺して接しています。でもそんな自分の、母親としての未熟さ、愚かさが苦しくて仕方ないのです。私がいない方がしっかり成長してくれるのではないだろうかとさえ思います。
50代にもなると身内の葬儀に参列することが増え、亡くなることへの恐怖も薄れてきたかんがあります。亡くならない人はいないし、苦しさから逃れようと思うことがどうして悪いことなのだろう?どうして苦しみながら生きなければならないのだろう?自分で寿命を決める生き方が良くないとは思えないのです。かと言って、私にはまだそんな勇気はないのですが、こんな風に考える私に、天寿を全うするまで生きていく意味を教えてほしいです。
回答者:政治学者 姜尚中
幸せで生きがいのある人生を謳歌している人が、あらためて生きる「意味」についてあれこれ悩むことはないはずです。あなたが今悩むのは、何事につけて満たされない空虚なものの影に包まれているからではないでしょうか。むなしさは私たちの心の中に巣くう最大の難物です。それが心を占拠すると、時には死への願望にとらわれてしまいかねないからです。
子への献身的な努力を重ねているのに報われず、また故人を見送る機会が増えるにつれ、人の一生のむなしさを感じるようになったようですね。あなたは自分のために生きるという人生のレッスンを経験しないまま「他者志向」の人生を歩んできたように見えます。
幸せを求めない人間などいないかもしれません。でも、幸せは人生の究極的な目的ではありません。幸せに恵まれる人もいれば、恵まれない人もいます。幸せでなければ人生には「意味」がないなどと、誰が決めつけられるでしょうか。
大切なことは私たちが人生の「意味」を問うというより、人生からその「意味」を問われているということです。そしてその都度、それに応えていくところに生きる「意味」が現れてくるのです。このことを私はナチスの強制収容所から生還し、「夜と霧」を著したビクトール・フランクルから学びました。
「意味が現れてくる」とは、生きることが「出会いという出来事」の連続であることを意味しています。
あなたは親子としての「出会いという出来事」を通じて、初めて親としての「意味」に目覚めたはずです。
「出来事」は自分を超えた何事かである以上、子どもの生きる意味をあなたが決められるわけはありません。彼は彼なりに生きる意味を自分で見いだすしかないのです。むなしさの中に「息子のために自分を犠牲にしてきたのに」という後悔の念があるとすれば、それは人生の「意味」をはき違えているとしかいいようがありません。人は事切れるまで出会いがあり、出会いを通じていつも、人生から新たに生きる「意味」を問われるはずです。
「生きてなさい!」。あえて上から目線のような口ぶりですが、そう言わせてください。生きていれば、「出来事」としての「出会い」はこの先、いくらでも可能性に開かれているからです。ということは、それを通じてあなたは自分も想像もできなかったような生きる「意味」を見つけ出すことだってありうるのです。「生きてなさい!」
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この悩み相談を見て、私の心に「復活」してきた大切な言葉がある。もうかなり昔に読んだ、とある文庫本の中に引用されていた、印象的な言葉。
現象に一喜一憂するのではなく、現象からの問いに答えなくてはならない。
そこには、人が人として生きるための意味が隠されているからだ。
-ヴィクトール・フランクル
私たちのような平凡な一般人がここニッポンの未来がどんどん閉じていくように感じるのは、権力者(政治家や企業の支配者層)の誰もが無責任で、誰も「問い」には答えようとしないからではないのか?
最近では『風の時代』と称し「放っておけば物事は上手くいく!」「ときめき・ワクワクだけに囚われる!」的ないわば思考停止の宗教を人々に広めようと躍起になって全国を駆け回る並木良和のような人がやたら多い気がするけれど...実は、そうやって無責任にみんなが問題解決を放棄した結果が今の詰んでるニッポンじゃないの?って思うのはあたしだけだろうか。