外から見れば愛されて育ったように見えるらしい。ないない。内側はゴチャゴチャしてて、全然幸せじゃない。


実妹と絶縁したしないの言い合いになってしまい心が全く落ち着かなかったところに珍しく元婚約者から連絡が来て久しぶりに話してた。別れてからの15年のことを聞かれた。「昔も言ったと思うけど君の人生って本とか映画になるんじゃない?」って言われたけどもこれは今までに出会ってきた沢山の人からも聞いた言葉だ。本を書いた人や有名な人からも。いつかホントになったりしてね。ということでなんとなく流れを書いてみる。


幼稚園の初日、「自分の居場所はココじゃない!!」と強く思った。いつもじゃないけど、その感覚は時々やってきた。母親からはすでに殴られるようになっていた。ひとりで風の中に立ってるときなんかに、誰かが遠くから呼んでるはずなような、見えない誰かがわたしの顔や肩に触ろうとしてるような、変な気分になった。


人と同じが出来ない。能力が足りない。できるかもしれなくても、したくないことばかり。目立ちたいんじゃないけど、同じでないといけないのがわからなくて、自分が好きなようじゃないから全てが嫌だった。絵で見る世界のほうが好きだった。現実には綺麗なものは少なくて、さらに手の届く範囲にはまずなかった。テレビでも滅多に見なかったから、本で想像した中に入って遊ぶほうが好きだった。歌を習って「いってみたいな、よそのくに」という一節に、雷にうたれたような気がした。その「よそのくに」という言葉が体の表側をぐいぐい引っ張るような気がした。心の内側はとてもざわざわした。


小学校に上がって、図工の教科書を見て、半分ワクワク、半分ガッカリした。三角の牛乳パックに色紙を貼って作る孔雀は絶対やりたいと思った。木版画は、彫刻刀の使い方を習えるのは嬉しいけどなんで参考作品が皆均一でつまらないのかわからなかった。そしてそれと同じスタイルで自分もやらないと怒られたのが本当に納得がいかなかった。


写真家だった方の祖父がインド・ネパールの撮影旅行に行って、不思議な写真やキラキラ光る石や瓶詰めの飴や民族衣装、そして土産話をたくさん持って帰ってきた。子供の笑顔の種類が違うのだと聞いて、ネパールの帽子とベストを身に着けたわたしは「自分もその笑顔で笑えるように、いつかなれるだろうか」と思った。わたしにとっての「よそのくに」はインドのイメージだった。


その少し後、叔父の本棚を漁って阿刀田高のショート・ショート集で「人生のあらすじが決まっててそれに沿うだけって分かってるならわざわざ生きてみなくていいじゃない」的な話を読んだ。そうだそうだと思った。でもわたしの周りは目指してる人生のあらすじがあらかた決まってるようで、そしてみんなあらすじに満足してた。ちょっと好きだなと思ってた男の子が「将来は公務員になりたい、安定してるから」と言った時は自分でビックリするほど幻滅したのを覚えてる。その彼は市役所に就職してバッチリ地元密着型の人生を送っているらしい。夢を叶えたね。


母親には機嫌が悪ければ紅茶のカップで「どちらにしようかな」をやっただけで殴られるしバカとかグズとか呼ばれるし、少年少女世界文学全集に没頭し過ぎて「こんなん読むからキチガイになるんよ」と全部を隠され(後に捨てられ)てしまった。さらに「誰に言っても無駄やけね、あんたは嘘つきやって言いふらしてあるけん、あんたの言うことなんか誰も信じんのやけね」と幼稚園から言われていたので人に話すのは考えたことがなかった。いつも妄想の世界に逃げていた。後に2度目の配偶者(子育て経験あり)はその話を聞いて「確かに君は育てにくい子供だったと思うよ、特に人生経験の少ない若い母親には辛かったろう」とため息をついた。


この頃、テレビでブルース・ブラザーズを見た。8時消灯だったので洋画劇場は最後まで見られず録画してもらったのに、終盤のエレベーターのシーンでテープが切れていた。でも気にせずセリフをほとんど覚えるくらい繰り返し見た。吹き替えはバブルガム・ブラザーズだった。本当の言葉ではなんて言ってるか知りたくなったので、前編カセットテープに録音して毎晩寝ながら聴いた。特にJ山B作とレイ・チャールズと、キャブ・キャロウェイの部分はまた別のカセットテープに入れて何百回も聞きながら、父親の本棚から英和辞典を出して毎日めくった。叔父からは彼が中学から大学受験の時まで赤線を引きまくったというポケット辞書をもらった。「よそのくに」はアメリカのイメージだった。


だけど世界が、生きていくことが、嫌になりつつあった。筋肉少女帯に出会ったのもこの頃だ。大槻ケンヂの詩の世界に浸った。この世の全てを憎むまでは行かずとも、大概のことが嫌だった。男の先輩と家出をして手首を切ったけどもちろんおっかなびっくりだから死ねるほど深くは切れずに、そのまま死ぬまで歩き続けようと彼は自転車を押して、わたしは大きな黒豹のぬいぐるみを抱えてたくさん歩いた。やっぱり挫折して数日後、戻ってからは学校や鉄道警察や拝み屋さんや、色んなところに謝りに行かされた。当時まだ生きてた無法者なほうのおじいちゃんはわたしの頭にコツンと軽くゲンコツして「次に逃げたくなったらまず俺のとこへ来い」と言った。夢野久作の小説に出てきそうなおじいちゃんだった。


中学校で初めてわたしを褒めてくれたのは美術の先生だった。家出事件ですっかりハブられるようになったわたしに中島みゆきやディープ・パープルやスネークマン・ショーのカセットテープを貸してくれた。職員室でハイウェイスターの速弾きをやって見せてくれた。不思議に今でもFacebookで繋がってる。家出から帰ってきてまもなくだったからだろうけど、初めて拾った犬を飼うことを許された。


いじめられてた。不潔、死ねって。今考えると無理もないよね。ていうか家出騒ぎより前からなぜか一部の女子に囲まれて嫌なことを言われたりはしていた。もともと浮いていたんだ。救いは本を読むこと、絵を描くこと、筋肉少女帯とブリティッシュ・ハードロック、学校外の年上のお友達。バンドを組んだり同人活動をしたり。体育祭では「絵がうまいんだから描いてもらおう(もちろんイヤミだ、いつもひとりで絵を描いてたから)」と押し付けられてひとりで旗を描いた。英語の先生とだけはハキハキ喋ってるのを見られて、発表会では「喋るの好きなんでしょ」とスピーチを押し付けられた。イジメグループだけでなくクラス全体がそんなふうだった。悔しいから押し付けられたものは全部普通に、偶には普通以上にこなしてやった。英語の授業に来ていた外国人の先生に独学で喋った英語を褒められて、やっぱり「よそのくに」への鍵を手に入れようと決めたのだった。


それから数年後、高校の時。転校した先ではバイトができたので、サンドイッチ工場で働いて劇団四季のジーザス・クライスト・スーパスターや筒井康隆大一座や筋肉少女帯、ヤプーズ、エレファントカシマシなんかを見に行っていた。でもまた逃げた。高層アパートに住んでいたのだけど、友達はできたもののなんだか鬱々として、毎日飛び降りる夢を見るようになったのが嫌になったからだ。飛び降りるくらいなら「よそのくに」に近づくためにまた逃げるか、と考えたのだ。無法者なほうのおじいちゃんはまだ生きてたけど遠く離れた地元にいるので頼らなかった。今度は大阪のヤクザにかくまわれたのでしばらくは上手くいってたつもりが、当時の彼氏が家族と警察にバラしてしまった。わたしは大阪のミナミあたりでデザイン会社でバイトしながらも裏社会の怪しい仕事を手伝っていて、元締めの一人は吉本の芸人さんだったので警察沙汰はさんざん叱られた。でも引き続きお世話になった。バレた住所は警察の内偵に備えて組がいくつも抑えてるワンルームの1つだったのですぐに畳んでドヤ街に移動した。当時は仮名で銀行の通帳が作れたしウィークリーマンションも借りれた。西成は恰好の隠れ蓑だった。


それからまた数年後、地元に戻って結婚したり別居して東京に出たり鬱病になったり人生初めての猫を飼ったり自殺未遂したりドレッドヘアーにしたり国際放し飼い主婦とか呼ばれたりしながら香港・インド・アメリカあたりから居場所を選ぶことにしたのだった。中学生のとき拾った犬はこの頃死んだ。


香港は英語は通じるけど香港人に習っても広東語がなかなか覚えられず、しかも中国に返還されてしまったので除外した。インドはわりと本気で考えたものの、自由度の低さ(これは自分の選んだ現地の環境もあるけど)と宗教的な縛りが強くて、インドにいる間だけの期間限定ヒンドゥー教徒ならできるけど住んで一生儀式やしきたり・しがらみと無縁でいるのは難しい気がして、あと知人がトラブルで殺されたのだけど、わたしも標的のうちのひとりかもしれないと聞いたから。そして実はロシアもちょっと考えた。でも住んだ人の本を数冊読むうちに「あっわたしには無理」と分かった気がしたので行くことはついになかった。


アメリカは筋肉少女帯の歌にちなみつつ航空券が安く、街自体があまり広すぎないサンフランシスコから始まった。ヘイト・アシュベリーあたりでミュージシャンや色んなアーティストと知り合って、美術館や科学館に行ったり語学学校に通ったりヘアや着物のモデルをしたりした。ちょっとの間だけだけど、ロサンゼルスの気球の会社でパイロットを目指して働きながら飛行訓練を受けてたこともある。テキサスで開かれたアメリカ選手権にもクルー・チーフとして出た。


実家のゴタゴタが嫌になって日本人配偶者と離婚することにした。母親が老後の資金を使い込んでしまいそれを問い詰めたときのの「あんたがあの子と結婚してるのが悪いんよ」という一言にカッとなって「じゃあ速攻離婚してやるわ」と宣言したのだった。すぐに数年来の友人だったアメリカ人脳科学者と再婚した。シリコンバレーの寿司バーでウエイトレスもした。サンフランシスコに戻ってからはホームレス・アウトリーチ。あとブラブラ。あと同居・訪問で介護。これは何気にアートな出会いがいくつかあった。サンフランシスコを出るときに脳科学者とは半別居になり、しばらくカリフォルニアとワシントンを行き来して暮らしていたけど、結局離婚になった。これ以降は基本的に独身黒猫付き。


アンダーザテーブル、オンザテーブル、ボランティア、何でもやった。尼僧見習い、ギャング見習い、ホームレス(これは見習いじゃなくてガチ)、色々なった。ストーカー被害にあって殺されかけた。この問題の最後の方は、最高裁判所で接近禁止命令を出してもらったけど全く意味がなくて、ストーカーは釈放されるたびにその足でわたしの住む僧院にまっすぐやって来て通報・逮捕の繰り返しだった。それからコブラのひとり前の彼氏アンソニーにであって、用心棒替わりに僧院に連れ帰った。捨てられた子猫たちを拾った。そのうち一匹を自分たちで飼うことにした、これがるーるー。アンソニーと黒猫と一緒に僧院からも逃げ出して、ホームレスになって、仕事とアパートを見つけて、…アンソニーがお酒を飲むようになって、わたしが仕事と偽って浮気をしているという妄想に囚われた彼は家具を殴りつけながら怒鳴り散らすようになって…わたしもお酒を飲むようになり、自殺未遂で人生初の手錠をかけられた。拘置所の手続き中に通院歴が分かり、拘置はされずそのまま精神病院の閉鎖病棟に入れられた。そこをサイコセラピストが見つけ出して退院させてもらえるまでの間、いろいろ考えた。


小さなアパートに戻って、もうずっとわたしと黒猫とだけでいいと思った。でも住んでいた湖畔の街の三方が山火事に囲まれてしまい住民全員に避難命令が出た。コブラが突然アパートにやってきて、大家さんとそのペットたちと一緒に避難するから君もおいでと言った。「15分で荷造りして、君とるーるーの安全は守るから」って。


そのままモーターホームで避難生活をして、アパートには戻ったもののなんとなくコブラと過ごす時間が増えて、モーターホームであちこち旅したりしながらいつの間にかアリゾナ砂漠で開拓暮らし。コブラは強くて優しい。わたしの歴代彼氏・婚約者・配偶者は全て何か得意技があるが、コブラは得意技の星からきた人なのがハッキリわかるタイプ。


ここは空も景色も素晴らしい。人が暖かい。お友達も増えてきたし、地元のアートショウではカテゴリ1等のリボンを取った。自分の人魚プールも貰った。るーるーはお庭とはもう呼べないほどの広い敷地でお外遊びをして、ちゃんと帰ってきてくれる。これ当分いるパターンみたい。また何がしかの不可抗力に押し流されるまではここにいると思う。



…とりとめがなさすぎる、本とかにするときはどう区切ろう。各国編?各都市編?各彼氏編でもうまく分けられるかもしれない。故・三浦和義さんは、本を書くときは紙にたくさんキーワードを書いてそれを切り抜き、伝えたい順に1列に並べるのだと言っていた。「エミちゃんも書いてごらん、君の人生には面白そうなキーワードがいっぱいじゃないか」って。和義さん、わたしはあの後も新たなキーワード目白押しの人生を送っていますよ。


自由の国アメリカの砂漠で開拓で人魚で、モーターホームで病気療養でプレッパーでサボテンで拳銃で、ある土地のホームレス同士の言い方で「法のもとで生きるアウトロー」な感じです。