子供の頃は山が遊び場だった。

学校の裏を流れる沢の始まる所、
最初の一滴が湧き出す処を求めて、泥だらけで山を歩いた。
真昼なのに、空に蒼く浮んでいる月を追いかけて、
真っ直ぐに、何処までも登って行った事も有った。

夜中迄稼働する町工場生まれの俺と、
母親がスナック勤めで忙しいツッチーだけが、
帰りの時間を気にしないで遊べた。

俺もツッチーもPTAの嫌われ者で、
それは俺達にしてみれば、
片親だって事を、
同情のオブラートに包んだ好奇の眼差しに晒されたり、
親の商売を、
親切ごかして巧妙に小馬鹿にする連中に対しての、
魂と名誉と尊厳を守る聖戦だったのだけど、
相手が大人でも、
彼等が馬鹿にしている親を誇って毅然として居る俺達が、

彼等には、忌々しく小賢しい只の乱暴者にしか見えなかったらしく、
俺達は付き合ってはイケナイ子供リストの上位を独占、
そろそろ殿堂入りって感じだった。

丁度良い。
こっちから願い下げだって思ってたけど。
‥俺はともかく、
世間の皆に、あいつはどう見えて居たんだろう。

優しい奴だった。
花が好きで、母親に見せるのだと言って拙い絵を描いて居た。
摘んで行けばいいと言うと、
秀でた眉を曇らせて、
「(花が)かわいそうだ」と言った。

俺が親父に追い出された時は、
自分の大好きな母を心配させ、
一晩中探し回らせる事を踏まえた上で、
俺に付き合って山の中で震えて眠ってくれた。

ある日、
あいつは、新しい父親と弟が出来るってはしゃいで、
一緒に山に来るからって、
登り辛い砂岩の直壁にタガネとハンマーで足場を作ってた。
跳ね返る岩を避けもしないで、
カーン、カーンって。
満面の笑みで。

子供時代のツッチーと会ったのは、その日が最後だ。

噂だけが生き甲斐みたいな町の大人から、
新しい父親と引っ越した事、
その父と上手く行って居無い事が聞こえて来たのは最初の内だけで、
それっきりだった。

随分経って盛り場の路地で、
ツッチーを見た。

一目で判る程荒んだ彼が、
本当にあの優しく誇り高いツッチーかどうか、
一瞬判りかねた。

「おめぇ、ツッチーだべ」って言ったら、
「ダセぇあだ名で呼ぶなよ~
他の奴だったらブっ殺してんよ」ってちょっと笑った。

誰かの悪口を絶対に言わ無かったツッチーは、
新しい親父さんと弟と上手く行って無い事は話さ無い。

変わって無い。

チンピラみたいに成ってる今の状態を、
本人も良しとはして無い様子だったけど、
「気が付いたらこう成ってた」って、
困った様に笑った。

学校出て、単車で旅をし始めてた俺は、
暫く俺と旅をしようと誘った。

ほとぼりが冷める迄旅しながら働いて、
(身)ガラかわして戻って来たら堅気の仕事して、
そして、
あの山に行こうって。

あいつはあの頃みたいな良い顔で笑って。
「いいなぁ。山。
でもなぁ、
そう云うの切り捨てて生きてんだ。
優しい思い出とかさ。
もうダセェって」
言い捨てて、人ごみに消えて行った。

それから暫くして、
ツッチーは死んだ。

幾ら寝無いでも平気な結晶だか、
空を飛べる(気がする)切手だか、
トモダチ100人出来(た様な気に成っ)ちゃう錠剤だかを飲み過ぎて。

それを知ったのも随分後の事だ。

図書館で新聞の縮小版を見る。
知ら無い苗字に成ったツッチーが死んだって、書いて有った。

これを見た殆どの人が思っただろう。

「あぁ、町の馬鹿が知れ切った死を迎えた。
清々した」って。

”町の馬鹿”じゃない。
確かにあいつは馬鹿だったけど。

苗字が変わって、ツッチーじゃ無く成ったけど、
あいつの名前はツッチーだ。
一緒に真昼の月を追いかけたんだ。
咲いて居る花を決して手折ら無い奴だったんだ。
大好きなお母さんを差し置いて俺と山に居てくれたんだ。
優しい奴だったんだ。
神の雷に打たれるのも厭わず、逃亡奴隷を助けたハックフィンの様な奴だったんだ。

どうしてあいつは悪く成った?
子供が自分で悪くなんて成るもんか!
これは、町のチンピラの死亡記事じゃ無い。

あの優しい、ハックルベリーフィンが行方不明に成ったって記事だ。

だけど、
そんな記事の事なんて皆忘れただろう?
俺だって、関係無ければ読み飛ばす。

ただ、
皆が忘れても、俺だけは覚えてる。
あいつがダセェって言った優しい思い出に今日もまどろむ。
山に登る。
住宅街が麓迄侵食した、思い出の山を。

見ろよツッチー。
お前が”切り捨てた”って言っても、
山は健在だ。
俺達が死んじゃっても、
きっとずっと此処にあるぞ。

あの日お前が付けた足場は、もう見る影も無いけどな。
だけど、
確かにここなんだ。

口の中に跳ねた石くれが飛び込むのも構わずに、

「新しいお父さんとさ、
弟に登らせてやるんだ。
あいつ等俺達と違ってトロいからさ」って、笑ってさ。

カーン、カーンってさ。

山の上で、笑ったよな。