未だ気を抜けば雪が降る如月の、しかし妙に暖かい夜、春と紛う程優しく吹き渡る東風に戸外へ誘われる事が無いだろうか。私はそんな夜、決まって思い出す歌がある。あれから随分経ったけれど、その曲は私の中で永遠で、輝きを失う事は無いだろう。
多くの人がそうであるように、多感な時代に聴いた曲はきっと――その人にとって――永遠になるのだろう。
その頃はどれも最新でぴかぴかだった訳だけど、今思えばそのどれもが数十年前の話である事に愕然とする。少し頭の弱かった'71年製の私が、初めて明確な自分の意志や志向を以て気に入った曲は多分、大瀧詠一氏の『君は天然色』であったと記憶する。
動画はSony Music (Japan)〔official〕大滝詠一「君は天然色」 Music Video (40th Anniversary Version)より
イラスト:永井博 製作:依田伸隆
Eiichi Ohtaki Kimiwa Tennenshoku Music Video (40th Anniversary Version)
illustration :Hiroshi Nagai direction:Nobutaka Yoda
『A LONG VACATION 40th Anniversary Edition』2021.03.21 Release
この曲のリリースは'81年。私は未だ9歳(リリース時)かそこら。未だ寒い大森アヴェニュー(第二京浜。叔父はこう呼んだ)の春色の空を車窓から見上げながら、親戚の中で唯一気の合った叔父の駆るDATSUN S30のナビシートで聴いたのが初めてだった。
私たちはお互い「なんだコレ、軟派な歌!」とか言い合いながら、それでも魅入られたようにヘビーローテーションを繰り返す。その時ばかりは三連装のウェーバー達の奏でる心地よい吸気音にも、L28改エンヂンの唸る快音にも負けぬ魅力を感じて、何度も「巻き戻し」と「再生」を繰り返したものだ。
パッセンジャーコンパートメント内に漂う叔父のガラムタバコやヤナギヤのポマードの匂いと、当時のスポーツカー特有のスパルタンな香りが、精々その辺を回る程度のドライヴを冒険の旅の様に錯覚させる。
行先はタバコ臭い横須賀や福生辺りの怪しい米軍ハウス、チャンダナの香りのする叔父の情婦の部屋等で、私はいつも、その情婦が合流すると彼女の膝に座った。
(S30は2シーターだった。私は低栄養により非常にコンパクトであった為それ程迷惑では無かったと思う。道路交通法違反については、大昔の事なのでお許し頂きたい)
美術系ヒッピーくずれだった彼女は、叔父との間には表立って子どもを設けられない関係からなのか、私を偏愛レベルで溺愛して居り、お気に入りのこのレコードのジャケットを彩る巧みなイラストを構成する色彩を指し示して「プールや空の水色がグラデーションで描かれて居るでしょう。水色にも種類がいっぱいあるの。ここはHorizon Blue、ここはlight saxe blue、ここは……」と一つ一つ教えてくれるのだが、カッチカチに足回りを固めた車で延々下を向いてジャケ写を眺めて居るもので気持ち悪くなり、彼女の上で下呂を〇いてしまった事もあった。
当時の私たちはまるで家族の様だった。何分当時の私は頭がアレだったので、普通の人間なら聴き過ぎて頭が悪くなる程この曲を聴いた。叔父とその情婦は嫌な顔一つせず、高価なメタルポジションのTDK"MA"60分テープに、この曲だけをみっしりと編集してエンドレスで流してくれた。
ロールバーを避けた複雑な造りのリアトレイに設置されたpioneer”Lonesome Car-boy”のエンクロージャーから流れるロリポップみたいに甘い曲は、一聴只爽やかな恋や別れの歌のようだが、「別れの気配――」「写真に話しかけ――」「今夢まくらに――」等、ちりばめられた不穏なキーワードが何故か必要以上の喪失感――『死別』――を連想させ〔※〕て、それがHorizon Blueの曲中に点々と、隠しきれない悲しみ色の滲みをつくって居る。それを、聴く度飽かずに観測した。まるで治りかけの傷痕を何度も撫でるのを止められぬ様に、私はそれを繰り返した。
〔※〕当時を知る者には改めて語る必要もないが、この曲の歌詞は、最愛の妹を亡くしたばかりだった松本隆による。松本は、スランプを理由に他の作詞家を探す様頼んだが、大瀧の「君の詞でなければ」と云う強い意向から、松本に依頼された。(←結果アルバムの発売は半年遅れたが)松本は、どん底の精神状況で見た街の色から「想い出はモノクローム」と云うフレーズを思い付き、続く「色を点けてくれ」という詞を「人が死ぬと風景は色を失う。だから何色でもいい。染めて欲しい」と願いを込めて綴ったと云う。
細かい話は兎も角、私が当時背伸びして聴いて居たハードな洋楽とは異なる、トゥーマッチな程ストレートでポップなサウンドから感じる、圧倒的な疾走感と季節感とに魅了された。
それは、この後空前絶後の好況に沸く80年代の始まりの頃の思い出と地続きで、ポップで、どこか軽薄で、パステル色の――優しい春の様な――思い出で、それを想う時、私はいつも少し切ない。ウォークマンやカーオーディオは音楽を街に連れ出して、ハイソなデートカーやスパルタンなスポーツカーが街に溢れて、日本製品は世界を席巻した。毎日新しい何かが生まれて、暗闇が街から駆逐される様な気すらした。
明日が必ず今日より良い日である事が約束された様な時代、夢の様な'80s。あの輝きを伴うこの曲の思い出を、私は忘れる事が出来ないのだ。
―――了―――
ここから先は余談に成る。
叔父が突然2by2(四人乗り)のGS30に乗り換えたのは、何年の事だったか、よく覚えてはいない。ただ情婦と叔父が最高の蜜月を迎えた頃だったと記憶する。家族が増えた時の為に、と云う理由で買い替えた。と叔父から聞いた気がする。
子どもとキャッチボールするのが夢だったと語る叔父は、大人用と子ども用のグローブを用意してくれた。御幸公園や多摩川の河川敷辺りでキャッチボールしたが、当時の私は常に他所事に気を取られて居たので全く捕球も送球も出来ず、専ら叔父だけが運動して居たのを、彼女は幸せそうに笑って見て居た。当時は全く気が付かなかったが、状況から考えるに、この頃、彼女は身重だったのかも知れぬ。
前述した通り彼女は私を溺愛して居り、当時の私はそれが恥ずかしくて、四人乗りへ乗り換えたのを機にバックシートへ逃げて居たが、彼女からの訴えに業を煮やした叔父によって、再びロールバーが組まれてバックシートが外されてしまった。私は不承不承、上機嫌の彼女の膝の上でどこへでも行ったものっだったが、それは突然終わりを告げた。
叔父とその情婦との最後のドライヴの情景を記憶して居る。私を膝から降ろして車を降りた彼女は、私のお気に入りだったこの曲の入ったアルバムをくれた。そして、その視線の先が私へであるか叔父へであるか傍目では分からぬ程潤ませた瞳を閉じて数粒の泪を落とすと、微かに何かを呟いて踵を返し、夜の街へと帰って行った。
叔父はその視線を避ける様に明後日の方向を向いて、夜だと云うのにキャッツアイグラスを掛けた。私はしばらく背を向けた叔父のダックテイルと、楽園の様相を描いたアルバムのジャケットを交互に眺め、彼女の残したチャンダナの香りがこれ以上消えてしまわぬ様に窓を閉めて、パッセンジャーコンパートメント内に閉じ込めた。
彼女があの時何を呟いて居たのかを知る術は無い。だがある日、彼女のくれたアルバムのジャケ写に描かれた楽園のイラストを眺めて居た折、私を膝に乗せた彼女が教えてくれた言葉を思い出した。
「プールや空の水色がグラデーションで描かれて居るでしょう。水色にも種類がいっぱいあるの。ここはHorizon Blue、ここはlight saxe blue、この水色はforget-me-notって云うの。『忘れないで』って意味なのよ…」
大人の男と女の事は、当時の私には全く解らなかったが、それ以来彼女の事を話題にするのが憚られる事だけは、何度も空気を読まず失敗した末に理解出来た。だから、私だけは彼女の事を覚えて居ようと思った。彼女は親戚中で孤立無援だった叔父と私を愛してくれた数少ない人間で、束の間の家族だった。
あの頃の私には何だか気持ちの整理が付かなかったが、さらっと彼女の事を無かった事の様に普通の生活を送る叔父に幾ばくかの反感が生まれたのは否めない。あの頃の私たちは叔父が父役を務める家族の様なもので、彼女は私の母みたいなものだった。そして、男の子は永遠に母の同盟相手なのだ。
後年、長じた私が購入した'69年式のFIAT500を叔父に見せに行った折り、全塗装したボディの仕上がりを「欧州車らしいいい色だな」と褒められた。私は「いいでしょ、特別に調色したんだ。R:44.7% G:77.6% B:93.7%。forget-me-not blue〔※〕って云う色だよ」そう答えた私を叔父は一瞥して、何とも苦い笑いを浮かべ、込み上げる息を呑む様に「ふむ」と押し黙った。
ふいっと私に背を向けた叔父の、最早毛量もめっきり薄く真白に成ったダックテイルが、あの晩の様に微かな嗚咽と共に細かく震えて居る。私の中には、どこか叔父の薄情を責める、積年の告発めいた気分があったのかも知れない。だから、叔父の中にも彼女の想い出が息づく事を確認して、私はひどく満足し、そして非常に安心したのである。
〔※〕「forget-me-not」は花の名前として一般的に使われ、否定文でなく1つの名詞なのでハイフンを入れて使う。日本語でも「勿忘草(忘れな草)」と言われ、この花の様な青色を「forget-me-not blue」と云う。
花言葉は「真実の愛」「私を忘れないで」であり、語源としては中世ドイツの悲恋伝説に由来し、ドイツ語名は「Vergissmeinnicht」と云う。
多くの人がそうであるように、多感な時代に聴いた曲はきっと――その人にとって――永遠になるのだろう。
その頃はどれも最新でぴかぴかだった訳だけど、今思えばそのどれもが数十年前の話である事に愕然とする。少し頭の弱かった'71年製の私が、初めて明確な自分の意志や志向を以て気に入った曲は多分、大瀧詠一氏の『君は天然色』であったと記憶する。
動画はSony Music (Japan)〔official〕大滝詠一「君は天然色」 Music Video (40th Anniversary Version)より
イラスト:永井博 製作:依田伸隆
Eiichi Ohtaki Kimiwa Tennenshoku Music Video (40th Anniversary Version)
illustration :Hiroshi Nagai direction:Nobutaka Yoda
『A LONG VACATION 40th Anniversary Edition』2021.03.21 Release
この曲のリリースは'81年。私は未だ9歳(リリース時)かそこら。未だ寒い大森アヴェニュー(第二京浜。叔父はこう呼んだ)の春色の空を車窓から見上げながら、親戚の中で唯一気の合った叔父の駆るDATSUN S30のナビシートで聴いたのが初めてだった。
私たちはお互い「なんだコレ、軟派な歌!」とか言い合いながら、それでも魅入られたようにヘビーローテーションを繰り返す。その時ばかりは三連装のウェーバー達の奏でる心地よい吸気音にも、L28改エンヂンの唸る快音にも負けぬ魅力を感じて、何度も「巻き戻し」と「再生」を繰り返したものだ。
パッセンジャーコンパートメント内に漂う叔父のガラムタバコやヤナギヤのポマードの匂いと、当時のスポーツカー特有のスパルタンな香りが、精々その辺を回る程度のドライヴを冒険の旅の様に錯覚させる。
行先はタバコ臭い横須賀や福生辺りの怪しい米軍ハウス、チャンダナの香りのする叔父の情婦の部屋等で、私はいつも、その情婦が合流すると彼女の膝に座った。
(S30は2シーターだった。私は低栄養により非常にコンパクトであった為それ程迷惑では無かったと思う。道路交通法違反については、大昔の事なのでお許し頂きたい)
美術系ヒッピーくずれだった彼女は、叔父との間には表立って子どもを設けられない関係からなのか、私を偏愛レベルで溺愛して居り、お気に入りのこのレコードのジャケットを彩る巧みなイラストを構成する色彩を指し示して「プールや空の水色がグラデーションで描かれて居るでしょう。水色にも種類がいっぱいあるの。ここはHorizon Blue、ここはlight saxe blue、ここは……」と一つ一つ教えてくれるのだが、カッチカチに足回りを固めた車で延々下を向いてジャケ写を眺めて居るもので気持ち悪くなり、彼女の上で下呂を〇いてしまった事もあった。
当時の私たちはまるで家族の様だった。何分当時の私は頭がアレだったので、普通の人間なら聴き過ぎて頭が悪くなる程この曲を聴いた。叔父とその情婦は嫌な顔一つせず、高価なメタルポジションのTDK"MA"60分テープに、この曲だけをみっしりと編集してエンドレスで流してくれた。
ロールバーを避けた複雑な造りのリアトレイに設置されたpioneer”Lonesome Car-boy”のエンクロージャーから流れるロリポップみたいに甘い曲は、一聴只爽やかな恋や別れの歌のようだが、「別れの気配――」「写真に話しかけ――」「今夢まくらに――」等、ちりばめられた不穏なキーワードが何故か必要以上の喪失感――『死別』――を連想させ〔※〕て、それがHorizon Blueの曲中に点々と、隠しきれない悲しみ色の滲みをつくって居る。それを、聴く度飽かずに観測した。まるで治りかけの傷痕を何度も撫でるのを止められぬ様に、私はそれを繰り返した。
〔※〕当時を知る者には改めて語る必要もないが、この曲の歌詞は、最愛の妹を亡くしたばかりだった松本隆による。松本は、スランプを理由に他の作詞家を探す様頼んだが、大瀧の「君の詞でなければ」と云う強い意向から、松本に依頼された。(←結果アルバムの発売は半年遅れたが)松本は、どん底の精神状況で見た街の色から「想い出はモノクローム」と云うフレーズを思い付き、続く「色を点けてくれ」という詞を「人が死ぬと風景は色を失う。だから何色でもいい。染めて欲しい」と願いを込めて綴ったと云う。
細かい話は兎も角、私が当時背伸びして聴いて居たハードな洋楽とは異なる、トゥーマッチな程ストレートでポップなサウンドから感じる、圧倒的な疾走感と季節感とに魅了された。
それは、この後空前絶後の好況に沸く80年代の始まりの頃の思い出と地続きで、ポップで、どこか軽薄で、パステル色の――優しい春の様な――思い出で、それを想う時、私はいつも少し切ない。ウォークマンやカーオーディオは音楽を街に連れ出して、ハイソなデートカーやスパルタンなスポーツカーが街に溢れて、日本製品は世界を席巻した。毎日新しい何かが生まれて、暗闇が街から駆逐される様な気すらした。
明日が必ず今日より良い日である事が約束された様な時代、夢の様な'80s。あの輝きを伴うこの曲の思い出を、私は忘れる事が出来ないのだ。
―――了―――
ここから先は余談に成る。
叔父が突然2by2(四人乗り)のGS30に乗り換えたのは、何年の事だったか、よく覚えてはいない。ただ情婦と叔父が最高の蜜月を迎えた頃だったと記憶する。家族が増えた時の為に、と云う理由で買い替えた。と叔父から聞いた気がする。
子どもとキャッチボールするのが夢だったと語る叔父は、大人用と子ども用のグローブを用意してくれた。御幸公園や多摩川の河川敷辺りでキャッチボールしたが、当時の私は常に他所事に気を取られて居たので全く捕球も送球も出来ず、専ら叔父だけが運動して居たのを、彼女は幸せそうに笑って見て居た。当時は全く気が付かなかったが、状況から考えるに、この頃、彼女は身重だったのかも知れぬ。
前述した通り彼女は私を溺愛して居り、当時の私はそれが恥ずかしくて、四人乗りへ乗り換えたのを機にバックシートへ逃げて居たが、彼女からの訴えに業を煮やした叔父によって、再びロールバーが組まれてバックシートが外されてしまった。私は不承不承、上機嫌の彼女の膝の上でどこへでも行ったものっだったが、それは突然終わりを告げた。
叔父とその情婦との最後のドライヴの情景を記憶して居る。私を膝から降ろして車を降りた彼女は、私のお気に入りだったこの曲の入ったアルバムをくれた。そして、その視線の先が私へであるか叔父へであるか傍目では分からぬ程潤ませた瞳を閉じて数粒の泪を落とすと、微かに何かを呟いて踵を返し、夜の街へと帰って行った。
叔父はその視線を避ける様に明後日の方向を向いて、夜だと云うのにキャッツアイグラスを掛けた。私はしばらく背を向けた叔父のダックテイルと、楽園の様相を描いたアルバムのジャケットを交互に眺め、彼女の残したチャンダナの香りがこれ以上消えてしまわぬ様に窓を閉めて、パッセンジャーコンパートメント内に閉じ込めた。
彼女があの時何を呟いて居たのかを知る術は無い。だがある日、彼女のくれたアルバムのジャケ写に描かれた楽園のイラストを眺めて居た折、私を膝に乗せた彼女が教えてくれた言葉を思い出した。
「プールや空の水色がグラデーションで描かれて居るでしょう。水色にも種類がいっぱいあるの。ここはHorizon Blue、ここはlight saxe blue、この水色はforget-me-notって云うの。『忘れないで』って意味なのよ…」
大人の男と女の事は、当時の私には全く解らなかったが、それ以来彼女の事を話題にするのが憚られる事だけは、何度も空気を読まず失敗した末に理解出来た。だから、私だけは彼女の事を覚えて居ようと思った。彼女は親戚中で孤立無援だった叔父と私を愛してくれた数少ない人間で、束の間の家族だった。
あの頃の私には何だか気持ちの整理が付かなかったが、さらっと彼女の事を無かった事の様に普通の生活を送る叔父に幾ばくかの反感が生まれたのは否めない。あの頃の私たちは叔父が父役を務める家族の様なもので、彼女は私の母みたいなものだった。そして、男の子は永遠に母の同盟相手なのだ。
後年、長じた私が購入した'69年式のFIAT500を叔父に見せに行った折り、全塗装したボディの仕上がりを「欧州車らしいいい色だな」と褒められた。私は「いいでしょ、特別に調色したんだ。R:44.7% G:77.6% B:93.7%。forget-me-not blue〔※〕って云う色だよ」そう答えた私を叔父は一瞥して、何とも苦い笑いを浮かべ、込み上げる息を呑む様に「ふむ」と押し黙った。
ふいっと私に背を向けた叔父の、最早毛量もめっきり薄く真白に成ったダックテイルが、あの晩の様に微かな嗚咽と共に細かく震えて居る。私の中には、どこか叔父の薄情を責める、積年の告発めいた気分があったのかも知れない。だから、叔父の中にも彼女の想い出が息づく事を確認して、私はひどく満足し、そして非常に安心したのである。
〔※〕「forget-me-not」は花の名前として一般的に使われ、否定文でなく1つの名詞なのでハイフンを入れて使う。日本語でも「勿忘草(忘れな草)」と言われ、この花の様な青色を「forget-me-not blue」と云う。
花言葉は「真実の愛」「私を忘れないで」であり、語源としては中世ドイツの悲恋伝説に由来し、ドイツ語名は「Vergissmeinnicht」と云う。