上皇方の拠点である白河殿(しらかわどの)の諸卿、諸将たちは、


まさか敵が奇襲攻撃に出てくると思っていませんでした。


夜が明けて明るくなってから、正々堂々と決戦をするつもりだったのです。


それでも、頼長は念のため斥候を出して敵方の動きを探らせると、


斥候たちは、大慌てで戻って来ました。


そして、息を荒げて「たいへんですっ!敵が攻め寄せてきます!」と報告します。


その報告が終るか終らないうちに加茂の川原に二度三度と


勇ましい天皇方のときの声が響き渡りました。


これを聞いた上皇方の為朝の悔しがりようは尋常ではありません。


上皇方の総司令官の頼長に向かって


「だから先ほど夜襲しかないと意見を具申したではありませんか…


この通り敵にしてやられましたよ!」と怒声を張り上げたのですが…


今更どうにもなりません。


頼長自身も心の中で『我、あやまてリ…』と思いつつ、


とにかく為朝の怒りを鎮めることしか考えませんでした。


「為朝に位階を与えよう。蔵人ではどうか?」と上皇様にお願いしたのです。


その様子を見ていた為朝は、


「これは、いったい何ですか?敵は迫って来ているのですよ?



防ぎの備えを御下知あるべきなのに除目(官位を与える)を行なうなんて、


なんとも殿下はお忙しいのですね。


肩書きをかざすだけで、世の中が動くとお思いですか?


このような修羅場で蔵人なんて肩書きがなんになりますか?


我は、もとのままの鎮西為朝でけっこうです!」


と言い切り自分の持ち場にかけ去りました。


その間にも天皇方は、怒涛の勢いで白河殿に迫って来ます。


義朝は加茂川の西の川原に、一方、清盛は東の川原に本陣を進めていました。



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一方、そのころの天皇方の情勢は、どうだったでしょうか。


最初の拠点だった手狭な高松殿(たかまつどの)から、広々した東三条殿(とうさんじょうどの)

へと拠点を移して着々と準備を整えていました。


関白忠通他、多数の殿上人が集まり、天皇の御前で作戦会議が開かれました。


武士の代表として源氏の義朝が呼ばれます。


義朝の身分が低いため、少納言入道信西(しょうなごんにゅうどうしんぜい)を通じて発言します。


義朝は信西に答えるかたちで


「いくさの方法はいろいろございます。あっというまに敵を打ち破り勝利をつかむには夜襲に


まさるものはございません。


聞けば奈良の僧兵たちが吉野・十津川のものどもを引き連れて、明日の朝、京へ入るそうです。


敵の兵力が大きくならないうちに先手をうち押し入りましょう。


御所の警護は平氏の清盛殿に任せて、源氏の手のものは全て攻撃に差し向けさせてください。


一挙に勝負をつけてまいります」と自信たっぷりに語ります。


それを聞いていた総司令官役の関白忠通は、信西に目で「内諾」の合図を送ります。


信西は「名案だ。詩や歌や音曲のたぐいは公卿の得意とするところだが、武芸は武士(もののふ)たる


そなた(義朝)に任せよう。『先んずる時は人を制す。後にする時は人に制される』とことわざにも


ある通り、敵の機先をくじいて今夜のうちにこちらから打って出るという考えは賢明だ。


そうなら清盛も御所に残す必要はない。武士総がかりで出かけるのだ。


天皇の御威光を軽んじた敵に天罰が下るであろう。


打ち平らげたのち、汝は昇殿を許されるであろう。」と義朝をはげまします。


「私は戦場に行く以上、生きて帰れると思っていません。ごほうびをいただけるのなら


今、この場でいただき、あの世(あのよ)へのみやげに致したく思います」と言うやいなや、


鎧に身を包んだまま、殿上の間に上って行きました。


「義朝っ!なにをする!」


信西は一喝しますが、天皇様は「よいよい」と喜ばれ、なんのおとがめもありませんでした。


時くを移さず、天皇方の部隊は出撃して行きます。


月は西に沈み、夜明け前の闇の中、目指す白河殿の方角には、かがり火の明かりが見えました。


時は、保元元年七月十一日、寅の刻(午前四時)…


義朝勢は三百余騎、清盛勢は六百余騎、頼政勢は二百余騎、その他、北面の武士たちを合わせ


千七百余騎…ひたひたと上皇方の白河殿に押し寄せます。



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それを聞いていた上皇方の中心人物、従一位、左大臣・藤原頼長は


皮肉の冷笑を顔に浮かべながら為朝に言います。


「為朝の先ほど言った考えは、とんでもない暴論である。


まだ十七才と年も若かろうからかもしれないが、


そもそも夜襲などというものは、貴公ら武士だけの間の十騎か二十騎程度の争いの場合だ。


いやしくも天皇様と上皇様との御仲で、御位を奪い合いなさろうという今度の合戦にあたり


貴公ら源氏も平氏も二派に分かれての総がかりの戦(いくさ)であって、


正々堂々と勝負するべきであって、夜襲などとそんな小細工はもってのほかだ。


今夜は味方の兵力は不足しているが、もうすぐ興福寺の僧兵らが十津川や吉野の地侍どもを


引き連れ千騎で馳せ参ずる。今宵は宇治に泊まり、明朝、ここへ来るはずである。


これをまって陣容を整えてから合戦をいたさんとおもう」


と自分勝手な判断を下し為朝の意見を退けたのです。


為朝は不安でした。


しかし、左大臣の裁定なのです。


上皇方の諸将らも従う姿勢を示している以上、おとなしく引き下がりました…


だが腹心の部下だけには、


「世の中で政治と軍事が一緒になってしまうと、とんでもないことになる。


貴族と武士は、それぞれ専門の分野で活躍するべきなのに…


合戦のことは武士にまかせるべきなのに…


大臣たるものが自分勝手に作戦を決めるとは…俺はどうかと思う…


兄の義朝はなかなかの戦上手だから、きっと今夜のうちに夜討ちをかけてくるに違いない。


奈良からの援軍が着くまで、敵が動かなかったらよいが、今すぐに押しかけてきたら…


敵が風上から火矢で襲ってきたら、ひとたまりもない。


それを思うと、残念だ…」と語ったのです。



                    <続きます>