『ジョゼと虎と魚たち』(2003)を久しぶりに見直した。これで3回目。何度見ても、胸が熱くなる。そして、見るたびに作品に対する理解が深まる。今度は犬童一心監督のコメンタリー付きで見よう。

最近は映画館で良い映画にあまり出会えないので、DVDを借りて見ることが多い。先日も『GIRL』(2012)を観に行ったが、惨敗だった。あれだけ宣伝していて、こんなものか、と溜息が出てしまう。予告にも萎えた。『踊る大捜査線』の新作の予告だ。前作(THE MOVIE3)があんなにつまらなかったのに、よく新作を作ろうと思ったな、と腹の底で一人笑った。ブランド(うわべ)だけが一人歩きしている。もっと中身(コンテンツ)に目を向けてくれ。

本当に良いものが、正しく評価されるようにするために、どうすればよいか。そのためには、”良い(善い)”ということを明確に定義する必要があるな。だとしたら哲学だ、これは。あらゆる「善い」を飲みこんで、自分のものにすることができたなら、この世界を変える絶対的な存在になることができるのかもしれない。映画界において大きな力(絶対的な評価軸)を持った存在。僕が目指すべきものはそこかもしれない。ここで文学部の力を発揮すべし。哲学をやらざるものとの違いを見せつけてやれ。
梅田・北新地のラーメン屋『神虎』さん。
リクルートスーツを身にまとった僕は、オーソドックスな神虎ラーメンをひとつ注文。
注文するときに、いろいろなことを聞かれる。


「麺の太さはどうしますか?」

「ふつうで。」

「麺の固さはどうしますか?」

「あ、ふつうで。」

「背脂の量はどうしますか?」

「えーと、ふつうで。」


僕は細い麺に特別興味をひかれないし、固麺至上主義でもないし、ましてや背脂の量など気にしたこともない。
結局僕にとってはそれがベストだ。とくにこだわりはない。


ラーメンが僕の元へ運ばれる。

「お待たせしました。神虎ラーメン、オール"ふつう”でーす!!!」







『オール"ふつう"』
『オール"ふつう"』
『オール"ふつう"』








その言葉は、なんだか胸の奥を、きゅるきゅる、と疼かせる
リクルートスーツを身にまとった僕の顔が、背脂の浮かんだスープの表面に映る。






就職活動をしていると、なんだか奇妙な、というかもはや気色の悪いような感覚に陥る。
みんながみんな、同じ顔をしているように感じてしまうのだ。

切り抜いて貼り付けたような笑顔。
大量生産されたロボットのような格好と動き。
金太郎飴か、というような志望動機や自己PRの数々。

皆がはみ出すことを恐れながら、無難であることを心がけながら就活戦線を生き抜いている。
正直言ってしまえば、くだらないなあ、これ、って本気で思ったりなんだりしておりました。
「没個性の極み」のようにしか感じていなかった、反骨精神剥き出しのわたくしでありました。
まさに、『オール"ふつう"』集団を量産するイベントと定義せられました。






そんな思索がどりゃあっと頭の中を駆け巡る。
しかし、僕はこのラーメンを食べる際に、自ら『オール“ふつう”』を選択しているこの不思議。
とすれば、採用する人たちにとっても、同じことがいえるだろう。
つまり、バリ固でもなく、極細でもなく、背脂をたっぷりと載せたわけでもないラーメンだから

本当の“味”が分かるというもんである。






バリ固の麺でなくとも、うまい麺はうまく、むしろ普通に茹でてもうまい。
極細でなくとも、麺にコシがあれば、中太麺の方が歯ごたえがある。
背脂がたっぷり載ってなくとも、スープ本来のうまみがあれば、何も載せずともうまいのだ。





オール“ふつう”であっても、本当にうまいラーメンであればよい。
本当の自分の味は、オール“ふつう”で十分伝わる。むしろ伝わる。





じっくりことこと煮込んで、さあ、挑もうか。

受からないのかもしれない。
そう思うとしんどい。

先日、とても行きたいと思っている企業の最終面接がありました。
いろんなお話をしていただいた。
僕自身、いろんな話をすることになった。
その中で、自分の価値観とは異なる部分がいくつかあったように思う。
企業によって考え方や風土はそれぞれだ。
僕は、とてもその会社の価値観には納得できた。
入社したらその価値観に従って、粉骨砕身で仕事をしていきたいと考えている。
しかし、それは未来形の話なのです。
結果的に、現在形の僕の価値観とはそぐわないと考えられたように思う。



「仕事は辛いもの。やりたいことばかりではない」⇔「当社では、やりたいことすなわち仕事である。自分が楽しめないのでは、顧客を楽しませることはできない」

「アートとエンタテイメントのバランスをどのように取っていくかが課題ではないだろうか」⇔「アート、エンタテイメントというカテゴリにあえて分割することはしていない。顧客に満足してもらえるものを追求していくのみ」


こういった価値観の差異はたしかに存在してしまっていた。
この差異は、どのように捉えられるだろうか。
受からないのかもしれない。
と脳裏を掠める不安。


価値観の多様性をどのように乗り越えていくべきだろうか。
正しいか正しくないかではない。
しかし、相応しいか相応しくないか、という基準は存在するように思う。
場面によって、価値観を使い分けることが肝要ではあるよね、と思う。


価値観の引き出しをいくつか持っておくことが必要ですね。
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水)



明日は最終面接。
とにかく、一発勝負。
自分を信じて、やってみようと思います。

きっと、真っ白な白鳥ではないと思う。
いろんなことで、失敗してきた。
僕は、いろんな青さに染められている。
でも、だからこそ、誰でもなく、それが自分の色味であると信じている。
そこに漂白剤をぶっかけても、仕方がないのだ。

誰かに綺麗な色だと云ってもらえればそれでいい。
だから、明日は、自分らしくね。


“型”の思想。

古来より日本には“型”の思想があるらしい。
西洋ではモニュメントと呼ばれるような記念碑の類が、日本にはあまり見られぬのもそのためだと云う。
つまり、日本ではモノに対する信頼性が低いのだ。
仏教的な無常観にも因るのだろうが、モノに記憶を託すということにたいへん消極的であるのだそうだ。

伝統芸能に見られる、振付の型、動きの型。
そういった、毎度お決まりの型を演じたときには、客席では喝采が巻き起こる。
はてまた、伊勢神宮の神宮式年遷宮も型の思想に依るものだ。
20年に一度、内宮と外宮の社殿を新しく造り変えて、神座を遷す。
古くなった建材を新しいものと取り換えるが、様式はまったくそのままである。

日本人は、モノに頼らない“型”を受け継いでいくことに重きを置いているのだ。
人の記憶の中で、永遠に生き続けていく思い。
なんだか素敵だな、と思う。


そう考えると、カタチばかりに拘っているようなビジネスには、未来がないのかもしれない。

もちろん利益ばかりに目を奪われているような会社がそうだろうし、なんらかのスペックだったり、モノ自体の価値ばかりを追求するのにも限界があるだろう。
大事なのは、“型”だ。
変化の暇なきそれぞれの物質でも、共通できるようなストーリーを作っていくこと。
それが大事なのかもしれないなぁ。
「今日はどこまで自分を信じることができましたか?」



失敗続きの日々。
でも自分を信じていないといけなくて。
矛盾するかもしれない。
いや、だからこそだろう。
理論ではないから



信じる。







あ、あとアメブロさん。
ページ戻ったりするとき、「テキストが消えてしまいますがよろしいですか」っていう表示がでるようにしてくれませんか?
書こうと思ってた文章全部消えちゃったよ。
春休み。
弟が彼女とディズニーランドに行くと言っていた。
待て。ここは大阪だぞ。どうやって行くんだ。
夜行バスで。
ふうーん。あっそ。

なんだか私は言いようのない違和感を感じたのを覚えている。




私だったら決してそんなことはしたくない、とはっきり思った。
もちろん、どちらが正しいでもなく、私なりの感性の問題だが。
というのも、なんだか世の中に溢れている、“理想の○○”に踊らされているような気がしてならないからだ。





一般的に、「ディズニーランド」でデートするのが理想的。

一般的に、「シャネルの財布」をプレゼントするのが理想的。

一般的に、「二人で撮ったプリクラをお互いケータイの電池パックの蓋の裏に貼っておく」のが理想的。




なんじゃそら。と思ってしまう。
結局、「一般的に」っていう言葉の裏側に、自分なりの工夫が一切見えないような気がしてならないのだ。
それはあくまで、世の中の大多数の人が感じる幸せであって、そのカタログを眺めているだけで、自分たちにとって本当のスタイルみたいなもんを追求することを怠っているんでないの!!!
と声を大にして言いたいわけです。





私だったら、

デートは小さな映画館ですげーマイナーな映画を見て、そのあとカフェでコーヒーを片手にその映画について徹底的に議論することであり、

プレゼントは川上未映子さんの『すべて真夜中の恋人たち』であろうし、

愛の証は、お互いのiPodにN'夙川BOYSのアルバムを入れているということであるのだ。





わざわざディズニーランドに行かなくとも、僕にとってはそのことの方が極めて幸せであるのだ。
それは僕にとってオリジナルな幸せなのだ。
そして、僕の極めて幸せそうな顔を見てくれているならば、同時に恋人も幸せなのではないかと思う。
どちらともなく、中途半端にディズニーランドをそこそこ楽しんでいるよりも。

もちろん僕のオリジナルな幸せを共有してくれたのなら、次は、恋人のオリジナルな幸せを共有するつもりだ。
今度は、僕が恋人の心の底から幸せそうにしている顔を見る番である。




「ねぇねぇ、私、プーさんが本当に大好きなの。プーさんのハニーハントに一回でいいから乗ってみたいの。だから、本当に、心の底からディズニーランドに行きたいの」





ふむ。


ディズニーランドに行くか。夜行バスで。
学校への道すがらよく見かける女性がいる。

いつも上着として部活のジャージを羽織っている女性。
下に着てるのは普通の私服なんだけどね。
なんでそれ着ちゃうの、ダサいなぁ、とか思いながらも、同時にとても愛らしくも思う。
なぜだろう。そんな、女がの見せるそんな“隙”みたいなもんがなんとなく好きだ。


今日もその人を見かけた。
ところがどっこい。今日は全身私服ではないか。
でも、あれ・・・・。
めちゃくちゃかわいいじゃないか。いっつそーきゅーと!
胸がきゅふーん、と締め付けられる。
これまでダサかったがために、相対的に言ってその人の見せた本気はとんでもなく胸に響いたのだった。
これはすごい現象であって、恋愛において多くの人が誤解しがちなポイントなのではないだろうかと思い至る。



たとえば、初めてデートする異性だったりすると、そのときの服装には大変気を遣う。
何枚も服を着直しては鏡の前に立ち、なんだか違うな、を繰り返すのである。
私などは結局新たに服を買いに行ってしまったことすらある。
ただ、少し考えてもみてくれ。


いきなりそんな本気出しちゃっていいの?



毎回が本気なら、結局それが標準化してしまうのだ。
つまり、少しでもミスを犯せば、それが高めに設定された標準に比べて見劣りすることとなる。
そんなことを繰り返していれば、減点方式だ。ポイントはどんどん減っていくばかり。
飽きが来るのもまた早いだろう。


実は、少しダサい、くらいがちょうどいいのかもしれない。
もちろん、退かれぬ程度に、ね。
そして、ワンポイントだけ本気を出してあげればいいのだと思う。
例えば、靴下だけめっちゃおしゃれだったり、シャツのボタンだけやけに綺麗だったり、メガネの縁だけやけに凝った装飾がしてあったり。
つまり、本気を“小出し”にしてやるのだ。


「決して手を抜いているわけではないんだ!この一点において君を愛しているんだ!その証に気付いて!
でも、小出しにしているから、まだまだ引き出しにはたくさんあるんだよ、僕の本気。まだまだこれから。」


そうやって積み重ねた月日。そして迎えた勝負の日。
その時にはとくと見せつけてやればいい。お前の持っている全身本気のモビルスーツ!!!!
いつもダサいのに、あなたってこんな格好もできるのね!ステキよ!きゅふーん!!



ってなればいいんだけどなぁ、なはーんてずっと授業中考えていたらば


皆が席を立ち始めた。



ああ丸い料理食べたい丸い鍋丸いお皿に丸いお茶碗


黒崎恵未さん
(ダ・ヴィンチ4月号「短歌ください」より)







* * * * * * *










冒頭に載せた短歌は、ダヴィンチという雑誌の「短歌ください」というコーナーにおいて、一般の方が投稿して採用された短歌です。





作者のコメントで、「最近スーパーのお弁当やお惣菜ばかり食べていて、久しぶりに家で作った料理が食べたくなった」とのこと。
スーパーやコンビニのお弁当は、四角い包装のものが多いから、と。







































たしかに家庭料理は、「丸い料理」と言えるかもしれませんね。





この歌を読んで初めて、家庭料理って丸いんだ、と気づかされました。





あたりまえにそこにあるものが、これまでとは異なる意味性を帯びて浮かび上がってきた瞬間でした。





いや、あたりまえ、だからこそなのだろう。そもそも新たな切り口から切り出そうと思わないものです。
そのままで、なんの不便もないのですから。







































こんな風に、「あたりまえ」を新たな視点から捉え直したら、いろんなものが発見できる。
そう思えたら、なんだかとても素敵な気分に満ちてきませんか。






言葉の響きを追求するうちに、言葉の組み合わせが生みだす新鮮味を欲するうちに





それが言葉だけでなく、リアル(現実)にも大きなインパクトを与えうるのではないだろうか。





リアルは、もっともっと驚きに満ちたものに違いない。





僕らが生きているのは、思いこみや常識によって作り出された仮想空間そのものだ。





もっともっと、リアルに触れる体験を持とう、とそう誓ってみる。





そう、誓ってみるよ。















さぁ、リアルとのかくれんぼ。





鬼は僕だよ。もうーいいーかーい?





〆夢みてた 夢を見ながら 夢みてた 

 明日を見ながら 今日を見もせず / tak










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本日は良い天気で

暖かい春の日差しに、だんだんと寒気も肩身の狭い思いをしていることだろう。





こんな日には、昼間からビールでも飲むのが脳に心地良いに違いない。

太陽のエネルギーをたっぷりと全身に受けながら

公園のベンチにでも座ってその黄金色の液体を胃の中に注ぎ込みたい。

とろーりとした、バターのような朗らかな一日だ。














いっぽう僕はといえば











誰もいない部屋の中にいて、いつまでたっても笑えずにいた。

どこかのメイクのへたくそな、どこまでも一般的な女子の、とって付けたような愛想笑いより

ずーーーーーっと気色の悪い笑顔しかできない僕だった。

つまりは

苦悶していた。
























「死んでしまえ。腐れ。ちぎれろ。」と

倫理にも超発してしまえるような状態だった。

明くる日には、目の前に広がる空の色にも懐疑するに違いない。

苦悶苦悶苦悶苦悶苦悶公文公文

自分があまりにも情けない。そんなの知ってる。




























人間いつだってやり直せるかな。

情けなくない自分を生みだすことができるかな。

そう思えばなんとか、やっていけそうだけどな。

なぜだろう。

過去がどこまでも僕の周りをうろちょろする。

消えてくれ。消滅しろ。滅亡しろ。粉々になれ。
























人間いつだってやり直せるかな。

過去でなく今がスタートっていえるかい。

本当に、そうなのかな。