せんのブログ -12ページ目

せんのブログ

徒らな報告・連絡・相談・ぼやき・愚痴り・啓蒙・布教などを目的とする、甚だチンケな駄文を綴る程度の自己満足ブログに過ぎないわけなのです。

 終戦の日を迎え、没後47年目の、別に何のキリも良くないこの年のこの夏、勝手に「三島由紀夫」をテーマに、私なりに方々を行脚してきたつもりなので、ここらでひとつまとめてみたいと思う。
 
 かの天才文豪の胸に去来していたものは何であったのか。
 
 私自身、恥ずかしながら氏の作品を読んだのは、学部時代における指導教授の強制によってであり、雅で流麗な文体に触れた(触れさせられた)のもこの時が初めてである。何やら小難しい文章だなと思いつつ、半ば意味も分からないまま、それでも心に打った箇所が辛うじてあった。
 祭囃子の掛け声、太鼓の音などに混じって聞こえてくる木遣り唄の声が、「人間と永遠とのきわめて卑俗な公会、或る敬虔な乱倫によってしか成就されない公会の悲しみを、愬(うった)えているよう」(『仮面の告白』)と書かれているさまは、なるほど、今でも夏になると思い出す、あの懐かしさと土臭さとの感覚を、極めて的を射て表現していると、妙に納得したものだ。
 「一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている」。これは「女ぎらひの弁」のなかで女性を批判した三島の言葉だが、男でありながら、これを読んだ当時の私はハッと気付かされた。その頃、与えられた響きの良い役割に責任感を感じ、それに伴う異常なほどの優越感と高揚感とにまみれていた。ただの親の脛かじりのくせに、どこかで自分は特別で、周りより優れた例外的存在だと、盲目的に信じていたところがあった。これは今でも、卒業する高3生へ贈る言葉の1つとしてだけではなく、自分への戒めとして機能している。
 先日、妻より借りて読んだ小説には、「やはり人間にとって一番こわいのは不確定な事柄で、『これだったのか』と思い当ると、俄に恐怖は薄れるものらしい」(『命売ります』)とあった。とても合点がいった。仕事でも何でも、置かれた状況や指示された業務内容に先が見えないと、たちどころに不安になる。(私だけかもしれないが。)他の人に指示を出すときには、このことを念頭に置いて、物事を円滑に進めたいと感じた。
 
 さて、冒頭の画像は、作家三島由紀夫の有名な真影である。
 
 こちらは鹿苑寺金閣の舎利殿。ご存知『金閣寺』の舞台で、主人公の溝口が美の象徴として捉えたモデルを久しぶりに拝観し、改めて、その完全無欠な美しさに圧倒させられた。
 
 次は、念願叶って本日やっと見学できた市ヶ谷記念館である。
 防衛省敷地内で移設された、三島が檄文を撒いて演説をしたのちに割腹自殺を遂げた市ヶ谷記念館。当時の総監室はほぼそのまま保存されており、楯の会による刀傷も生々しく残っていた。
 
 また、次の写真は、昭和39年から自決するまでの7年間、毎年三島が家族とともに泊まりに来ていたという下田東急ホテルとその界隈である。
 最後の大きな椎の木は、川端康成と下田城山公園を散歩の際に、「呼ばれている気がする」と言って幹に耳を当てた樹齢500年の老木だそうだ。
 以上のように、作家三島の所縁の地を訪ねてみたわけだが、最後に、次の2つの言葉から、再度、想いを馳せてみたい。
 
 日本で「育ちがいい」といふことは、つまり西洋風な生活を体で知つてゐるといふことだけのことなんだからね。純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。これからの日本では、そのどちらも少なくなるだらう。日本といふ純粋な毒は薄まつて、世界中のどこの国の人の口にも合ふ嗜好品になつたのだ。 (『豊饒の海』)
 
 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。(「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」・『産経新聞』昭和45年7月7日付夕刊)
 
 今日で戦後72年。昭和56年生まれの私は、ちょうど戦後の半分を生きたことになる。かねてより日本の孕む矛盾は、抱える問題点は、三島の生きていた時代より複雑で、それでいて遥かに分かりやすく、目に見えるかたちで、我々の前に姿を現している。これからの日本を憂う気持ちを完全に払拭することは難しいのかもしれないが、せめて、我が国の行く末を正しい方向へ導くことのできる優秀な人材の育成に力を注ぎ、明るい未来(先)を産(生)みだせるような、「先」を「生」かしうる存在であり続けたい。