晴れが続くかと思いきや突然の雨。ローヌ川からガンベッタ通りを突き抜けていく風が次第に温もりを帯びていき、それを受ける僕は次第にくしゃみが増していき。。
毎年この究極に過疎なブログを書くこの時期、時候の挨拶を上段に持っていこうとすると卒業式の生徒代表の挨拶みたいになってしまうのが悩みでしたが、今年はなんだか不思議な感覚です。皆様お元気にしていますか?
21歳になりました。20歳までの誕生日といえば、毎年「未成年」との闘争のような忙しい日々の中、運転免許、酒、タバコを嗜む権利を勝ち取っていく無我夢中の過程でした(結局免許も持っていないしタバコもやめましたが笑)。
その全てをヘソ出して横になっているうちに得られてしまったその後の21歳の誕生日。今までの誕生日は自分を祝っていましたが、今は自分の周りを祝う気持ちに満ちています。本心。
生まれてはじめて「歳を取りたくない」を実感しています。誕生日とは自分の為だと思っていたのですが、お祝いを言ってくれる人、いつも通りLINEをしてくれる人、今日誕生日だといったらおまけをしてくれた釣り具屋のおじさん。そうした人々に対する感謝は、そう、あの責任という忌々しい言葉に結びつけられるものです。
責任を感じる。周りの人を祝う気持ちは、そのまま他者に対する責任に結びつく。そう考える年頃になってしまいました。
だのに、目下自分がやっていることは不誠実と拒絶の数々。
フランスは正直、とても僕にとっては辛いところです。なによりその辛さの原因は自分の語学力の欠乏だとは思いますが。関わりのないものには関わらない、が徹底している印象でしょうか。
何度も言っている言い訳として、僕の留学の動機は人との会話や国際交流とはほど遠く、ただ単にフランス文学をやっている身として、フランス語ができないのはマズい、と思ったからです。
今の日本では既に、得たいフランスの情報、主要な文学のほとんどは日本語で読めますし、僕も昔からそれに慣れ親しんでいました。
しかし、やはり血となり肉となる言語に対するそうした姿勢は失礼だ、というフランス語の先生の言葉と、意を決して東京から離れる決心をしたある大切な友人に触発され、一人で東京から離れ、フランスに行く事を決めました。
検索する言葉を変える。同じものを見ても、「出会う」ものを変える。パリで出会った世界一周の方々ほどではなくとも、それなりに旅を愛する僕なりの旅の意味はこういったものです。フランスに行き、慣れ親しんだ「日本語のフランス」と違うものに出会いにいこう、そしてフランス語に囲まれて生きてみよう。それが留学当初の思いでした。
昔書いたものを見て書きました。皆さんには見えない僕の今打っているキーボードのまわりを見まわすと、悲しくなります。本当に語学というのは難しいもので、それなりに単語と構文を覚えて挑んだつもりでも、彼らは口を揃えて「J'ai pas compris.(お前は何を言っているんだ?)」。なにくそ精神というモノもすっかり尽き、怖じ気づいてすっかり鬱になった時期もありました。
今はそれほどでもありませんが、やはり気心知れた釣り仲間の人と話す木曜の夜の楽しい時間以外はちょっとした運動と授業を除いて引きこもりのようになってしまっています。人と話す事にこれほど勇気のいることを知らないまま、とんでもない所に来てしまったな、とつくづく感じています。
ルソーを生み出した国は伊達ではないですね笑。僕の枕頭の書、「孤独な散歩者の夢想」の出だしにも、「こんなに人との交わりを愛する私が‥」という一節があります。
彼が出した結論は「全ての望みを棄て、自分に向き合う」でした。そうすれば些細な希望につけ込み絶望を味わせる敵から距離を置く事が出来るからだそうです。
僕はまだそこまでの境地には入れません。なぜなら誠実になれる人々や好きなものがまだ若干ながら、自分に与えられているからです。
カントが論を尽くしてだした結論も、孔子が詩三百の後に出した結論も、「誠実」「思無邪」でした。どんなに論をこねたところで、結局誠実に生きるしかない。倫理学の教授の最終講の投げやりにも聞こえたこの言葉は印象的です。
前のルソーも、自暴自棄ではなく、自分に向き合う為に望みを棄てるその姿勢は誠実そのものであり、今日までの思想の流れを作っています。
差別は良くない、といいながら、よくよく考えれば黒人の人に唾を吐かれ、道を塞がれ、ガキに銃で撃つ遊びをされ(これは多分おふざけ笑)、郵便局に不当な扱いをされ。そんな僕が向き合っているのは今、つい最近まで絶対的に善と思っていたリベラリズム(らしきもの)への疑問です。でも差別は絶対に違う。テロも絶対に違う。そもそも、ある集団を嫌えるほどの精神エネルギーが一人の人間に備わっているはずがない。
ようやく、言葉にする必要性があるモノが得られてきたような感じがするのです。まだまだ、これからも勉強ですが、ようやく道筋が見えてきたような気がします。
そろそろ進路も決めなければ行けない今、僕はとにかく「書く」ことに携わりたい一心でいます。新聞でも雑誌でも評論でも、とにかく今危うい抽象、人文知。でも、危ういというのはお金儲けとして危ういだけで、決して人の側から棄ててはいけないもののはず。
でも、僕は将来絵に描いたような幸せな人生でもいたい。
実際に僕を支えてくれている人にとにかく何かお返しをしたい。
そう考えながら、絞っていってます。
では、21歳の自分にセルフお誕生日の夕食を賄ってきます。笑
