55歳の時、父は若年性アルツハイマーと診断された。

アルツハイマーていうのはもっとおじいちゃんがなる病気だと思っていたが、医者が言うにはどうやら呆けにも「若年」っていうのがあるらしい。

それからの僕たち家族の生活は変わった。

仕事のミスが続いたことから、そもそも父は病院受診を職場の人に勧められたらしい。

認知症、との診断がついてからというもの、父はすっかりふさぎ込んでしまった。

その当時大学生であった僕は、朝も夜も自宅に毎日父がいることが非常に違和感があった。

でも仕方ない、、仕事を辞めたのだから。

母が言っていた。実質クビだって、、一応早期退職という形になったけど。

退職の話を聞いたとき、「俺の学費大丈夫?」ってことが最初に浮かんできたんだから、ホントに自分は親に甘えたガキだったんだと、今になって恥ずかしくなる。

夜中に物音がしてリビングに行くと、何も放送されていないテレビ画面の砂嵐を見ながら父が「畜生、畜生」とつぶやき、肩を揺らして泣いていた。

あの時、どんな言葉をかけてあげればよかったのだろうか、、、、

徐々に母のそして僕の負担が増えていった。あれがない、これがない、と母を振り回し、あんなに温厚であったのに、些細なことで怒るようになった。母も何をどうしたら良いのかわからず、只々怯えていた。

そんな中、僕が大学を卒業。父がアルツハイマーと診断されてから2年くらいが経っていた。

卒業式の朝、大学のキャンパスで家族の到着を待っていたら、母から携帯の着信。「お父さんのお気に入りのネクタイが見つからなくて、卒業式にはどうしてもそれをつけていきたいって、、、どこにあるかわからないの、、、、」

僕はそのまま自宅に帰り、結局ネクタイは見つからなかったけど、その夜は3人で父の好物のすき

焼きを食べた。牛脂を嬉しそうに火にかかったすき焼き鍋の上で回す父は、本当にネクタイが見

つけられなかった父なのか、僕もわからなかった、いや、正確に言えばちゃんと現実を直視する

のが怖かったのかもしれない。卒業後僕は商社に就職した。いきなり大阪勤務になり、自宅を空

けなければならなくなった。あの時の母の寂しそうで不安そうな顔は今でもはっきりと覚えてい

る。でも、お母さんごめんね、僕は正直大阪に行けて、家から出られて嬉しかったんだ。しばら

く仕事が忙しくて自宅に連絡できないでいたら、母からの着信が携帯にあった。かけなおすと、

父が車を運転して事故にあったらしい。幸い誰かを傷つけたということもなく、父のけがも大し

たことはなかった。主治医の先生からは、認知症の診断を受けてから運転しないように、免許は

返納するように、と注意されていた。しかし、父がそれを守ることはなかった。母が何を言って

も効果はなかった。大きな声で怒鳴られたり、手が出てくるのを母だけが対処するのは不可能だ

ったし、僕?僕は、、、、現実から逃げていたから。 

警察から今回の事故をきっかけに改めて運転をしないことと免許を返納することを忠告されたよ

うだ。でも、どうやら警察が免許を取り上げることはできないみたい、、、期待してたの

に、、。僕と母で相談して車のカギがなくなったことにして、カギを隠すことにした。カギがな

くなったのであれば、父も諦めるであろう、と思っていた。 そしてまた、数か月たったところ

で、今度は警察から僕に連絡が入った。車のカギがないことに激怒した父が母に暴力をふるい、

耐えかねた母が警察に通報し、父が警察に保護された、、と。どうしても仕事の都合ですぐには

地元に戻れず、数日時間が経ってしまった。 僕が父にあったのは、自宅でも警察署でもなく、

精神病院だった。ベッドに縛られている父を見て、僕は事態が深刻であることを直視せざるを得

なかった。もう逃げられない、、、。父は認知症なのだ。