昨年4月25日の脱線事故の際、事故を起こした列車がオーバーランしたのが伊丹駅である。

伊丹駅は大都市の近郊ならどこにでもあるような駅だった。違うところと言えば、時折聞こえてくるジェットエンジンの騒音くらいか。日曜日の朝だったこともあって人影もまばらだ。
事故に関する報道から察すると、事故を起こした運転士は始発の宝塚駅から、停止位置オーバーのミスを繰り返していたようである。
「ミスの連鎖」で思い出すのが、1994年に当時の名古屋空港で起きた中華航空機事故だ。事故報告書は、機長らの最初のミスから墜落までの1分半を14に区分、その中で8段階の連鎖的なミスがあったと指摘している。そしてこのうちの一つでもミスをしなければ事故には至らなかったとされている。
昨年4月25日、この場所がまさに「ミスの連鎖」の渦中にあったとは、目の前にある穏やかな風景からはとても想像ができない。

同志社前行きの快速電車がやってきた。前から2両目に乗り込む。
事故があったのと同じ時間帯であるが、休日のため利用者も少なく、皆着席している。
車端ドアの窓越しに運転席の様子が見える。
スピートダウンが行われたとは聞いているが、それでもそこそこのスピードでとばす。
塚口駅を過ぎてしばらくすると減速をはじめる。運転席の窓の向こうに現場のマンションが現れ、その脇を"慎重にも慎重"なスピードで走り抜ける。それまで、視線を落としていた何人かの乗客が、窓の外にそれとなく目をやるのが印象的だった。
あの日、ミスの連鎖がどこかで運良く断ち切られていれば、事故はなかったかもしれない。しかし、もはやどうすることもできない厳然とした”結果"がある...。そう思うと、ただただ残念でならない。
私達にできることは、今、身の回りで巣喰っているのかもしれないミスの連鎖を断ち切ることである。
ミスの連鎖につながる土壌が「社会のゆるみ」と言っていいのだろう。その「社会のゆるみ」を見つけ出し対処することは、決して生やさしいことではないと思うし、私自身埋没してしまっているような気もする。無論それではいけないのだが。
犠牲になられた方々に改めて哀悼の意を捧げたい。