邯鄲の夢 -20ページ目

邯鄲の夢

道はいろいろ。想いもいろいろ。

東京人って忙しいから、春先は腰が重い。
まともに頭も働かないしね。残念。

メディアは頭の悪い人間を量産し、
苦労を騙ってヘラヘラ踊っているうちに
そこに所属する人間の首すら、いずれ着実に絞める。

人前で発言する人間とは到底思えないレベルで
田嶋陽子氏に暴言を吐く二人。
(三宅久之氏+勝谷誠彦氏

きっと更年期障害の渦中なんだろうな。
まあ、三宅さんは年齢からすると
その長い苦しみから徐々に抜けつつある時期か。

それにしても、なんと醜いことよ。
少々のガス抜き(カス抜き?)は必要、という言い訳も
ネット右翼ばりの奈落に墜しては意味がない。

いずれにしても子どもたちには
とてもじゃないけど見せられない。
人ごとながら、なんとももの悲しく切ない午後。

いまだ、書き手以外の人が日記を読むという状況に
不思議感がまとわりつく。
知人の日記やブログをたまに読ませてもらうときも
微妙な罪悪感や緊張感、あったりなかったり。

かつて自分にとって日記とは
周囲からなんだか必死で隠すものだったし、
そして見事なほどにワンパターンに
存在を忘れていってしまうものだった。

編集もされずナマで出版される日記など
個人的にはアリエナかったし、
没後にそれを公開されてしまった人を
なんだか気の毒に思ったりもした。

そして今、ネットを通じての他者との繋がりが
人生の多くを占めるようになり、
そこに自分がぽっかり浮かぶ。
気を抜いているといずれ、この世界に飲み込まれ、
閉じ込められた状態で右往左往することになってしまう。

そういう不安を意識するたび、
直接話すことの価値、会うことの意味が
自分の中でさらに膨らんでいく。
限りある時間を意識したときに訪れる
何ものにも替え難いその快感。

やっぱこっちがわで行こうっと。

みんなといるだけで、
ほんっとしあわせです。

あんなに楽しくって、寿命縮まないかな(笑)。
ほんとにほんとにありがとう。

またすぐに、ネタ作って会おうね。

通信、インターネットと、ここ数十年のうちに
国境とは別の概念を持つ新しい世界ができてきたけれど、

その新しい世界の中に
時系列的、文化的細胞分裂が着実に起こり、
うまくこなれないままに定着していっていることを
再認識する今日この頃。

新しい文化が花開き
育ちゆくのはとても素敵なこと。
でもそれと同時に、成長過程にあるものには、
別の、既に在る文化への対応能力も期待される。

ほんとは学校ってこういう、
生きていく術とかその周辺知識とかを
教えるべきところなんだよね。

一方、裏返せば、
軋轢から来る不快感につきあうこともまた、
先を歩く(または歩いているつもりの)人々に今後
期待される叡智。

オトナたちはどこでそれを
学んでいくのだろう。

儲け優先、儲けを唯一無二のものとして生きてる人たちが
大手を振って隙を狙い続けている限り、
この手の問題はこれからも常に
繰り返していくだろうから、

ひとりひとりが心を鍛え、肥やしてゆくことが、
そしてその自力が、
ほんとに必要になってくる。

いずれにしても、のらりくらりと生きていたい人間には
なかなか難しい時代。