Def Identity
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Growing Paints

スーパー久しぶりの更新。パソコンに電源を入れてもつけただけとか、メールチェックするだけで終了とか。ていう以前に部屋にあまりいないので、勿論ブログだって更新できないし、その時間あったら外に出てコーヒー飲みながら座ってた方がよっぽど楽しいし、このブログも日記であまり人に教えてないから自分だけのモノだし。日記は毎日直筆で書いてるしね。とにかくこの一ヶ月は色々なことがあった。起こった順よりも、自分にとって大きかった順に書いていきます。

まずは二十歳をここ、韓国で迎えたこと。二十歳を母の母国である韓国で迎えるとは夢にも思っていなかったことだけど現実になった。十代の誕生日を海外で迎えたのは十回中七回で三回だけは日本だった。自慢でもなんでもなくて、母親の誕生日と俺の誕生日の月が同じこともあり、彼女の趣味に付き合わされたのが大半で後は留学とか、彼女に会いに行ったりとか色々。とにかく二十代最初の誕生日を韓国で迎えたことは自分にとって大きな意味があると思う。当日は祖母や母親、親戚と祖母の家で食事をした。静かな部屋の中で、けして盛大ではなかったし、高価なプレゼントを貰ったわけではないけれど、本当に幸せでした。

目の前にいるのは祖母であったり、母であったり、親戚であったり、他の人には分からないと思うけど在りえないメンツだった。幸せの基準は人それぞれ違うもので、今回の節目の誕生日は生涯忘れることのない特別なものになった。

二十歳になって、初めてしたことがある。それは祖父のお墓参りである。生まれたから一度も会ったことも、話したこともない祖父。母が高校一年生の時に亡くなったと聞いた。新聞記者であった祖父は次のひ大統領のインタビューを控えていた。家族で服装を確認したり、髪型や持ち物を確認したり、家族中が興奮したインタビュー前日。才能のある人が早死にするなと個人的に思うけれど、祖父も僕の中でその一人である。五年間の入院生活の後、祖父は亡くなった。そんな祖父の始めてのお墓参り。二十歳になって初めて祖父に会える。でも触れることも、会話を交わすこともなかったけど精一杯お祈りをした。でも一度でいいから会ってみたかった。

このブログは本当に思ったことを素直に書いているわけで、見直しも読み返すこともしないから文章がおかしかったり、時が間違ってたりすると思うけど読んでくれている人は目をつぶってください。

少ししんみりなりましたが、最近感じたことを単語で簡単に。言葉の能力、下心と真心、友情、雰囲気。

ではでは自分お疲れ。

Young is treasure

いよいよ10月、こっちにきてもう10日弱。もう留学も終わり何じゃないかってぐらいいろんな意味で内容の濃い時間だった。授業も始まり、生活のベースが出来てそれを中心に生活をしている、勿論。とは言うものの2日間授業のあとは3連休。まずは花の金曜日だが。。雨降り過ぎ!!とりあえず、死ぬほどリッカーを飲んだ後、韓国のクラブ上陸!チャージは鬼安の5ドル!!まあその訳は中に入ったら判明。おいおい、小さい、音楽はHIP-HOPでtoo slow,chicksもpureなkorean girlたちがtoo slowな曲に体を合わせているだけ。でも、久しぶりにで、しかも韓国、とりあえず踊って、飲んで、座った。座っていたのがdjブースの隣で回しているdj君と少し会話・・・・・15分後バトンタッチ。アドリブで在るレコードで1時間回してた。とは言うもののアナログじゃなかったので少しとまどい、すこし手伝ってもらいながらだったけど、人を操っている感じがここ韓国でも味わえた。その日を境に次の日、見事に晴れ昼間は親戚と夕食をして、限界を超える食べ物を入れ、いざ戦場へ!!12時学校がある新町からタクシーで10分(大体3ドルくらい)。クラブS。チャージはかなりでかいクラブ&free drinkで15ドル。戦場は広く、映像と音楽が共に流れ、それにのせオーディエンスが踊っていた。とりあえず、踊る、飲む、飲む、飲む、そしてchicksと踊る☆休みは昼と夜が真逆になり、本当に戦場から戻った兵士のような感じで、ベットへダイブ。今日も3時起床とおいおい、俺なにやってんだよと思うけど、それでぴんぴんしている。うん、若さって素晴らしい。

Hot in here

日本のお隣の国韓国について早5日、@言う間に過ぎてった。着いてからというものカツカツのスケジュールをこなし、帰ってくるなりベットの上でノックダウン。5日間を簡単に話すと、初日は2時間弱で韓国に着き、部屋に着き荷物の整理をしてから、引率の先生と他のメンバーと飯を食いに。メニューはサンギョプサル(豚の焼肉)これが馬鹿うまい!!日本でも家では日本食、韓国食半々だった僕はこれから飯には困らないと確信☆その時は先生のおごりだったが、大体一人3皿にビールを飲んで一人1000円いかないくらいで、他のメニューも例に出すとビビンバが300円とか冷麺も300円前後で食べれる。しかも今回行った店は焼肉を頼むと冷麺がただで何杯でも食えるし、もちろんサイドディッシュ(キムチやナムル)はお代わり自由!と韓国の物価の安さと味に感動だ。おっと、言い忘れたけど寮の部屋は2人1部屋。そう、ルームメイトと暮らすんだけど着いた日、僕のルームメイトはまだ着てなくその晩は一人寂しく、床についた。そして翌朝二日目、今日は朝から(10時から)オリエンテーション(俺らだけの)があり、色々と話や大学内の案内を受けた。その後現地の先生や現地の学生とお昼を食べることに。がしかし、量が半端ない!!!次から焼肉や餃子、うなぎやチヂミ、挙句の果てにはチゲ(韓国の鍋)まで出てきて、ほとんど残して終了。あるメンバーは残してはいけないと最後まで頑張っていたが、そんな彼女をみて先生が一言。何を無理している?昔なんか残したことによって店側は客を満足させたと逆に喜んだんだよと・・・。そう、きっと残さないことに越したことはないが残すことにより、店もお客にお腹一杯食べて満足させたという気になるようだ。とは言うものの本当に量が半端ない、是非色んなものを少しずつ食べたい人はいいかもしれない。お腹も満たされ、僕たちはあるイベントに向かった。なんでも今日は日本に当たる早慶戦が韓国でもあるようで、韓国では僕らが留学中の延世大学(日本の慶応)と高麗大学(早稲田)が二日間にわたり野球やバスケ、サッカーなど全五種目で対戦するスポーツイベントである。そこで私たちは現地の学生たちと一緒にその一戦を応援しようとイベントに向かった、というか連れて行かれた(笑)まずは野球・・・・・・おいおい。スタジアムの外でもなんと言う大声援だ?!そんな気持ちは中に入ったとたん崩れた。僕が見た光景はサッカーの日韓戦の韓国サポーターを想像してもらえればわかるだろうか?いやそれ以上である。いやまさに日韓戦!僕ら延世大学のカラーは青。対する高麗大学は赤。二色がある部分を境にクッキリと分かれている。まさに学校の威信をかけた負けられない戦いがそこにはあった。試合前から両陣営激しい応援バトルを繰り広げている。応援団が様々な曲をフリ、それぞれが激しく踊りながら熱唱する。みんな汗かきまくりの、ヒートアップし過ぎ!しかし僕はなぜか少し客観的に彼らの姿を見ていた(笑)てか間違いなく引く!え?!なぜかって?試合前から応援合戦をし合うのはいいが試合が始まっても試合そっちのけでひたすら歌を歌い、踊りを踊り、試合など見てもいない・・。おいおい、応援だろ?と僕はなぜか引いてしまったが、貴重な経験と共に、なぜ韓国の応援は日韓戦など様々な部分で激しいのか分かった気がする。最初は僕以外の他のメンバーも一緒に乗っていたが、韓国人の生徒のスタミナについていけず、後半はケチョンケチョンだった。にもかかわらず次はバスケの応援である。野球なら野外でやるもので、まだいいがバスケは室内。同じ声援が室内にこもり、頭に体に響く。みんなダウンeven俺も。それで僕らは途中で帰ることに。がしかしここからが韓国の人々に感動することだ。先輩の指示なのか、あるトトロみたいな少しチャビーな男の子が僕たちは寮の最寄駅まで送ってくれたのだ。しかも嫌な顔1つもせず片道1時間の道のりを!電車賃も自腹で幾ら頼まれたとは彼も疲れていたし、それなのに着いてそうそう、右も左も分からない僕らのために。本当嬉しかった。そんな彼に僕らも何かお礼をと彼の案内のもと夕食を共にし、ほんの気持ちでおごらせてもらった。きて二日目、いいねーこの国。
良く3日目、今日は祖母と親戚にあうことになっていた。11時半に駅のマックの前で待ち合わせ。5年ぶりにあう親戚、どれくらい変わり、どんな風になっているのか楽しみであった。実際、見たときはまったく分からなく小さく可愛らしい面影も今では、背の高い、女性らしい女性になっていた。今回会った親戚はお母さんの弟の娘(僕よりは1個下)僕のためにバイトを休みわざわざ時間を作ってくれた。彼女とまず、祖母の家に行きお昼を食べることに。5年ぶりの祖母再会は本当に嬉しく、元気そうでなによりであった。今はまだ韓国でのコミュニケーションは難しくても、かならず帰る頃には意思疎通を確実にしたいと思う瞬間でもあった。祖母と別れ、親戚と二人で色々な所にいった。僕は辞書を片手に、彼女は日本語の本を片手に。上手く向こうの言いたいこと理解できなかったり、向こうも俺の言葉の意味がわからずテンパルこともあったが、沢山の話をし沢山笑った。しかも、今日だけと彼女が食事からなにから払ってくれ、俺が悪いよーというと親戚になに気にしてるのよと一言。just awesome!しかももっと恥ずかしいことは、危ないからと彼女が寮まで僕を送ってくれた。おいおい、君女だろと言うと、今度は私は韓国人、ゆうたオッパ(オッパとは韓国語で年下の女性が年上の男性に向かって兄弟はもちろん友達などでも使うお兄さんを意味する言葉である)日本人じゃないと一言。はあ、少し情けないが、次俺が・・・と思った。
良く4日目、今日は次の日のテストの為昼に起床してからずっと勉強・・・まあ色々あった夜だったけど。あ、ちなみにアメリカや他の寮みたいに俺の寮が同じ建物だが男女お互いの部屋に出入り禁止で、24時間監視カメラが監視している。
5日目、いよいよテスト!テストはwritingとspeakingの2つ。うーーーーん、まあ何とかなるかな?!とポツリ。テストが終わって、グループのメンバーと先生と銀行と入国管理局へ。そしてご飯。また焼肉をおごってもらい、しかも飲みまくった。フラフラで寮に帰ると、ルームメイトと初日に仲良くなったイギリス人が俺を待っていた。おっと、俺のルームメイトとは二日目の夜に僕が帰ってきたら、部屋にいた。彼はすで1ヶ月前に韓国にきていて、別の所に住んでいたらしい。名前はウイリアムなのでウィル。韓国人の両親を持ち、韓国で生まれ生後七ヶ月でアメリカのミネソタに引越し、それからずっとアメリカで育った。ので国籍も母国語も英語。韓国語は少しだけで、僕との会話も英語。そうそう、僕の住んでいる寮は留学生のみの寮で寮で韓国語を話すことはほとんどなく基本的に英語。みんながみんな韓国語を勉強しているわけではなく、経済や法律などを勉強する学生や、両親が韓国人で、でもずっとアメリカやイギリスなどにいたいわゆる在米韓国人などである。なんにせよ、彼らとそれから夜の街にでかけた。weekdayということもあり、人影は少なかったが朝4時まで飲んでいた。
タイトルにもなっているwhere is hereだけど寮では英語、SAメンバーとは日本語、他ではもちろん韓国語と本当にここはどこだと思う。が間違いなくぼくのモットー欲張った生活ができている。

VIVA KOREA!

いよいよ始まった、第二の祖国韓国での生活!これから4ヶ月はここでの生活を中心に、日記っぽく付けていこうと思う。




9月22日出発の朝、準備のためほとんど眠れず1時間横になっただけで家を出た。しばらく家族とも友達とも別れるとなると、ここに来てやはり寂しいと思った。別れがあるから出会いがある、そう、韓国での出会いに期待!空港行きのバスに乗るため朝4時に親父にバス停まで送ってもらった。無事バスに乗り、予定よりかなり早く空港には着いた。(am7:00)重い荷物を引きずりながら空港にはいると、小さな女性が近寄ってきた。まさか、目黒ちゃんに会うとは!そう、彼女は超早い朝にも関わらず僕の見送りに着てくれた。素直に嬉しかった。目黒ちゃんとマクドに行って朝マックした。時間がなくて、逆に悪い事したなって思ったけど凄く嬉しかった。

AM10:00に日本は経ちわずか2時間弱で韓国の仁川空港へ着いた。5年ぶりにこの地を踏み興奮と同時に少し不安もあった。空港からは学校したバスが迎えに来ていて、@っと言う間に寮に着いた。日本からクソ重い荷物を持ってきたせいで、まじ疲れた。寮に着くなり、部屋の鍵を渡され、クソ重い荷物を5階の部屋まで運んだ。寮は1部屋2人で僕の部屋はまだルームメイトがいなかった。荷物を整理し、それから先生と他のメンバーと焼肉を食いに行った。ここで、寮から校門まで歩いてざっと30分。おいおい、そりゃないだろって感じ。みんなだんだんお腹も空き、それに比例してフラストレーションがたまって行きイライラし始めている。そんなわけで、店着いて死ぬほど焼肉をくった。まじまじまじ安すぎる!今回は払ってないけど大体一人3皿くらい食べて千円くらいかな?!キムチとかサイドデッシュはお代わり自由だし。間違いなくこれからご飯に困ることは少なくてもナイト感じた。




          とりあえず、留学中は挑戦と努力をすることが大事。日本と切り離し、韓国人ななる。

Viceland

みんな海外にそろそろ出発するね。この時期にその場所へ行ける事は一生に一度だよね。良く後悔だけはしたくないけど、それを意識するよりもその時その時にベストを尽くせばきっと平気だよね。もうすでに異国での生活を始めてる仲間、これから共に旅立つ仲間、とりあえず歩こう。面白いことはそこらじゅうに転がっているはずだから。

さて②タイトルのViceland。英語を読むことが楽しく感じ、日本と欧米との笑いのツボの違いに興味がある方はcheck it out!

Lay up for a rainy day

最近は秋の気配を感じる今日この頃。でもまだまだ残暑は続く日本列島。9月も半ばに入り、いよいよ第二の祖国へ旅立ちます。大学に入学し、SAなんて「まだ先だなーっ」て思っていた1年半前。気がつけば、もうそこに迫ってきている。とゆうかもう始まっているのかもしれない。友人たちはもうすでに、日本から世界へと旅立ち、それぞれの国でそれぞれの文化、食、言語、人間たちと触れ合い、多くのことから刺激を得て楽しんでいることだろう。その一方でまだ僕は日本にいる。もう1つのブログで書いた内容と重複するのでここでは書かないけど、この一週間はこれから挑戦する時間が充実したものになるためしっかりと準備している。とは言うものの具体的に勉強しているわけでもないし、その国を調べているわけではないけど、まずは自分を落ち着かせてから行動。2、3日は家でだらだらと久しぶりに過ごしてみた。いよいよ,カウントダウン!



Free bird. http://blog.livedoor.jp/freebirdz/

FASTION

俺のブログって何を書いてるんだろうって感じだよね、まあコラムっぽいかな。僕の周りのみんなは自分のことや、思っていることを書いているけど、自分には少しそれが出来ないから羨ましく感じたりもする。

てなわけで今回は自分の生活をチラッ見せしながら、生活感ある内容に書き上げたいと思います。

そんな感じで今回はFASTION。誰もが気をくばったり、それぞれの個性が現れる部分じゃないのでしょうか?その為に雑誌を買ってみたり、オシャレって言われてる人を真似てみたり、人を観察してみたりーって日々努力してる部分だと思う。FASTIONに気を使い始めたのはいつなんだろー。僕は小さいころは、お兄ちゃんのお下がりを着せられたり、小学生のころは母親が買った服を着たりと、ドイツのおばさんとか韓国の親戚とかから送られてくる服を着たりとか、とりあえず自己主張はなく、個性的でもなかったけど、かなりオシャレをさせてもらってたなーって幼少の自分を見て思う。自分自身で買ったり、気を使い始めたのは中学生のころかなーっ。中学校は専らB系だったなー(笑)髪もドレッドにしたり、コーンロールにしてみたり。当時は少し悪っぽい奴が持てて、俺も色々と悪いことして親にも迷惑をかけたりしてた時だったなー。そんなヤンチャな中学時代だったけど中学3年の時に受験にぶつかり、更正。結果は合えなく撃沈だったけど、この時から真面目な人間になった。高校入学し、1年過ごしてからすぐさまカナダへ。この時は古着が大好きで、Gパンは30本くらい持ってたし、あとビンテージとかすげぇ集めてたな。カナダでは古着屋でバイトしてて、djのアンドリューと会ったのもここだった。スケボーを教えてもらったり、djのノウハウを教えてくれたのも彼で、スゲェカッコイイ男だった。後に彼が回すクラブで僕も回すようになった。この時は基本は古着だけど、何か1つだけ高いものってゆうかブランド物を取りいれるようになった。そう、記憶の中で最初に買った一番高い買い物はヴィトンのショルダーのカバンだったな。これは留学時代、春休みを利用してアメリカ西海岸を回ったときにLAで$1300くらいで買ったのかな。僕の居たカナダは基本的にFASTIONに気を使う人は少なくて、ショップもロブソン通りという所にチョロチョロあるくらいで、本当にお金持ちが買いにくるだけって感じだった。高校の友達とかもスケーターが多くて、スケーターファッションが主流だったな。カナダで高校を卒業したあと、夏休みを利用してNYへ。NYは友達が住んでいて、友達の家に居候を3ヶ月弱。やっぱりNYは刺激物が多くて、毎日が新鮮だった。ニューヨークは東京とは違うFASTIONがあった。

@言う間の夏休みを過ごして、日本へ帰国。日本の高校に編入し、受験生。見事、志望校のはまた散ったけど、今でもいい選択したと思ってる。


Vincent Gallo

僕の最も尊敬する人間の一人である彼。



これからの話は嘘の様な本当の話である。高校3年生の夏、舞台はNY。そろそろカナダでの留学生活を終え、夏休み友達を追ってNYへと来た。そんな日から早いもので3ヶ月が過ぎ、日本への帰国を3日後に控えた夏の昼下がり。僕は毎日のように行っていたカフェ(本屋とカフェが一緒になっている)、その日も行きコーヒーを飲みながら本を読んでいた。店内はtea timeという事もあり、ビールを飲むものや、音楽を聴きながら勉強している学生、この店自慢のモンブランを求めてやってきた観光客などそれぞれ自分たちの時間を楽しんでいた。そこへ、一人の男が店内へと入ってきた。誰もその男に気を止める様子もなく、僕もそんな人の中の一人だった。しかし、その男が何を隠そうVincent Gallo その人である。え?なぜ彼だとわかったかって?カウンターに座っていた僕の隣座ると、彼に話かけられたからである。嘘のような本当の話、その時僕が呼んでいた本と彼が持っていた本が同じであり、まずは最初に「ニッコリ」と微笑み。そこで僕は「ハァ!」と心の中で叫んだ。ほんの15分という短い時間であったが、緊張で何も覚えていない。今思えば写真をとったり、サインをもらったりすれば良かったと思うけど・・・。

やっぱり彼はとても優しく、気さくなスターでした。

http://page.freett.com/moveonup/discs/08gallo.html

Let`s Begin now!!

昨日から今日にかけて、六本木にある某クラブで最後のイベントを行った。



高校時代にターンテーブル に出会ったあの日から早いもので5年が経った。今では自分の組み合わせる音で何百人が一斉に盛り上がる。そんな快感とも今日で最後である。やめる理由は色々あるけどSAが丁度いい区切りになってくれたから、将来これで自分がやって行くわけではないものだし新しい何かを見つけ出すのには丁度いい時期だと思った。資格の為の勉強もしばしの休憩、とりあえず約4ヶ月のLong Vacationを楽しむことだけに集中する。与えられた環境で0から何か始めてみよう。そう、Let`s Begin now!!

昔から好きな彼、He is just awesome!!

Valentin-Louis-Georges-Eugène-Marcel Proust


レニ・リーフェンシュタール

30年代のリーフェンシュタール
レニ・リーフェンシュタール(Bart Helene Amalie Riefenstahl)は1902年ベルリンで生まれた。
没年は2003年であるから、齢100まで重ねたことになる。彼女の経歴を見ると驚くばかりである。少女時代からダンスをはじめ、スターダンサーとして舞台を彩った。膝の怪我でダンスの道をあきらめた後は女優として活躍、まだ黎明期に会ったナチ党首、ヒトラーを魅了した。自ら監督、主演した『青い光』は第一回ヴェネツィア国際映画祭で銀賞を受けた。
ナチスが政権を獲得してからは、党大会記録映画『意志の勝利』をはじめ、ナチスのプロパガンダ映画製作の中心として活躍した。『意思の勝利』はヴェネツィア国際映画祭グラン・プリ、パリ万国博覧会金メダルを獲得した。ナチスオリンピックといわれた36年のベルリンオリンピックでは大会記録映画『オリンピア』を製作、これもヴェネツィア国際映画祭金賞を受賞し、世界中で公開された。名実ともに彼女は世界一の映画監督になったわけである。しかし、終戦後その評価は一変し、ナチスの宣伝者として逮捕されてしまう。世間ではヒトラーやゲッペルスとの関係を攻撃され、長い裁判の結果、ようやく無罪となった。しかし、戦時中に製作した映画『低地』は興行的に大失敗し、製作企画した映画も次々と資金的に失敗するなど、苦難に見舞われた。結局彼女が再び脚光を浴びるのは70年代にスーダンの一部族「ヌバ」を撮影した写真集を発表してからである。
映画を発表したのは晩年になってからで、90代のころに、年齢を50と偽り取得したスキューバ・ダイビングの免許を利用して撮った『Wonder Under Water‐原色の海‐』が戦後初でもあり、彼女としては最後の作品となった。
年代を見てもわかるとおりだが、彼女は100近くなっても創作意欲を衰えさせず、製作に邁進し続けている。まさに強烈な「求道者精神」の塊であって、その行動力とスキャンダル、政治的事件は孤高の画家ピカソにも通じるところがある。まさに全力で人生を駆け抜けた女流映画監督であった。


31年、ヒトラー率いるナチス党が鉤十字でドイツ全土を埋め尽くすと、リーフェンシュタールに後に彼女の人生を変えるであろう映画の製作依頼が来た。ナチス党のニュルンベルクで行われる党大会を記録する映画の監督業を依頼されたのだ。これはヒトラー自身の熱烈なオファーによるもので、題名は既に決められていたという。これが高度に芸術的であり、かつ政治的でもある映画『意志の勝利』誕生の背景である。後にリーフェンシュタールは「題名が非芸術的で気に食わなかったが、中身は自由にしてくれるというし、ヒトラーの熱烈な意志で引き受けることにした」と語っている。当時のドイツといえば第一次大戦後の「死刑宣告」といわれた殺人的な賠償金により、経済が破綻状態にあった。ヒトラーはそれを短期間で収拾し、生活を飛躍的に向上させた英雄として、国民に絶大な人気があった。当時としては「ヒトラーを嫌う」人間のほうがマイノリティであり、後の破滅的な戦争やホロコーストなど彼女は知る由もなかったろう。とにかく彼女は与えられた仕事を完璧にこなした。ヒトラーをより権威的に時には「神」として描き、完璧に統率された軍服と、敬礼、躍動感あふれる観衆の動きは「ファシズムの美学」として後々まで継承されている。
党大会自体の演出は建築家アルベルト・シュベーアで彼は後に軍需相として戦争に加担している。彼は新古典主義最末期の建築家である。新古典主義といえばルネサンス以降の華美で装飾過多の建築から脱し、バロック様式を改良した直線的崇高美を誇る建築様式である。パリの有名な凱旋門は新古典主義の傑作である。新古典主義はローマ、ギリシア建築を最高美とし、その模倣を目指し、考古学や人類学からヒントを得た建築を残した。結局、最終局面にはローマ建築対ギリシア建築という構図となり、どちらも激しく応酬した結果「《美》とは相対化に過ぎない」という思想を残し、モダニズムへと継承されていった。
リーフェンシュタールは「私は政治には全く興味がありませんでした。私はただ《美》に興味があっただけ」と語っている。私としては彼女の言葉は今となっては信用に値しないと考えている。彼女がうそしか言わないと考えているわけではない。彼女の言葉には一部一部「いいわけ」ともとれるニュアンスがあるのだ。そもそも当時ヒトラーを信用するということは当たり前のことであったはずだ。彼女のナチスに対する協力はしごく自然なことである。だから彼女は後に「いいわけ」したのかもしれない。
『意志の勝利』には肉体的美学を追求し、最新の映像機器を使用し、次の作品『オリンピア』につながる傾向を見ることができる。当時のドイツの映像技術といえば世界でも最先端を誇り、それがゲッペルス宣伝相を通してナチスのドイツ支配に絶大な役割を果たしたことは言うまでもない。

36年、史上まれに見る超プロパガンダ的なオリンピック、ベルリンオリンピックが開催された。この大会はナチスの宣伝活動とドイツのアピールに終始し、当然ながらリーフェンシュタールも記録映画監督として狩り出されることになった。前作の『意志の勝利』からであるが、宣伝相ゲッペルスとの関係がどうやら「普通じゃな」かったらしく、頻繁に「愛人関係だった」とか「仲が悪く、仕事で対立していた」などの噂が飛び交うことになった。ベルリン五輪がそのような性質のもとに造られたものだから、リーフェンシュタールの記録映画もプロパガンダ的に演出されている。あらゆる競技を当時最新の映像機器を駆使し、躍動感溢れる、肉体的美を強調して撮影、世界的選手の鍛錬された肉体を妖艶にとらえた。これは単なる記録映画の枠には留まらない映像美術であった。題名は『オリンピア』。古代オリンピック発祥の地でもあるギリシアの町の名と同名である。
彼女はこの時も「政治には興味がなかった」と後に語っているが、最後にクローズアップされる紋章やアーリア人を“古代ギリシアの血を受け継ぐ、肉体的に優秀な民族”とするような演出は明らかにナチ思想について宣伝したものである。ドイツは圧倒的な成績で持って五輪の幕を閉じた。
この二年後にはドイツがポーランドに電撃侵攻、第二次世界大戦が勃発する。そしてその翌年には盧溝橋事件を発端とする日中戦争もあっという間に大陸全土に広がりを見せ、世界は灰色に包まれていくわけだ。次回のオリンピックは当然40年であり、それは実はオリンピック東京大会であるはずだったが日本は戦争激化を理由に開催を辞退している。実は日本は同年に東京万国博覧会も辞退しており、近代化以来の永年の夢であった二大イベントを戦争によって逃したことはアジア最大の近代国家を自称する日本にとっては恥辱の極みであったろう。
話は変わるがつい最近、建築家丹下健三が死去した。東京都庁ビル、フジテレビ本社ビルなどで有名な彼であるが、彼が頭角をあらわしたのはちょうどこのころである。彼は日本において大東亜共栄圏本部機能を建設する大東亜コンペで一等を獲得し、若手ナンバーワンの建築家となり、戦後は「世界のタンゲ」として名を馳せることになるのである。幻の東京万博にも実は丹下健三が参加する予定であり、当然この五輪も万博もベルリンのようにプロパガンダに使われる予定であった。戦後現実的に五輪も万博も開かれることになり、丹下は今度は中心的存在として実際に関与している。美術史家椹木野衣氏はこの万博と五輪の熱狂と、建築をはじめとする諸芸術の万博に向けた意気込みを「大政翼賛」状態とし、丹下や岡本太郎らを「戦犯」としている。それだけ当時日本全体が国威発揚を目的とする万博、五輪に夢中になっていたのである。丹下や岡本は戦前戦後問わず、意欲的な活動を続け、時には首尾よく、時には大胆に活動をし、世渡り上手な一面を見せている。彼らはどんどん時代を進み続けた、ベトナム戦争もオイルショックもバブル崩壊も。一方リーフェンシュタールの『意志の勝利』も『オリンピア』もその根底に宿るのはヒトラーの「イデオロギー」であり、リーフェンシュタールの「《美》への愛」であるのだ。彼女の中にはこれしか存在しなかった。


彼女は戦中に『低地』という作品を製作している。これは全く政治的なものではなく、純粋に芸術的なものである。しかし、終戦後の彼女の評判は最悪で、興行的には失敗だった。一部の評論家には褒めるものもいた。これから彼女は金銭的に厳しい制作活動を強いられることになり、次回作には半世紀以上待たねばならなかった。その間に彼女は写真を撮っている。これで彼女の経歴に写真家というものが付け加えられた。
ヌバの写真2ヌバの写真1
彼女はスーダンの奥地で当時いまだ、文明に溶け込まない部族であったヌバ族を取材、さながら文化人類学者のように現地調査を行い、現地の生活に溶け込むことによって写真を撮り続けた。その写真は『最後のヌバ』として発表され、好評を博した。彼女自身もファシストの批難を解消した鉄の女というイメージでメディアに頻繁に出演するようになった。しかし、74年に痛烈な批判をある作家に受けることになる。アメリカのスーザン・ソンタグである。彼女はリーフェンシュタールの『最後のヌバ』を「ファシスト美学の再現」とし、ナチス時代の活動も「プロパガンダ作家」として一蹴した。いわゆる「ファッショネイティング・ファシズム」というものである。ファシズム美学とは単なる《美》の追求ではない。完全に統率され、鍛え上げられた肉体美、知性より感性を重んじ、禁欲を美化する傾向を併せ持つ、既成の統一美に「肉体的な妖艶さ」を付け加えた、性的表現がナチスの美学だという。
たしかにナチスの方針では国民皆労働、障害者の迫害など、肉体面に対する言及が多い。『最後のヌバ』もこの美学をもとに作られており、彼女がナチスと違うのは「《ナチズム美学》に人種的境界を設けなったこと」だけであるという。たしかに彼女はヌバの一員にわざわざポーズをとらせ、撮影している。また、写真の解説文にも禁欲賛美的な表現を与えるなど、どこかナチスのプロパガンダ写真を見ているような感覚に陥ることがある(実際に見たことはないですが)。彼女は政治的に無知であったかもしれないが、彼女の美的センスはナチスと深いところで結びついていたかもしれない。だからこそヒトラーに寵愛を受けることができたのだろう。
1970年に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げた三島由紀夫はその生涯の半分を「鍛錬」に費やし、自らの肉体を限界まで鍛え上げ、自衛隊に入隊、奇妙な制服を纏い、富士山ろくを行進したのであった。彼に宿っていたのもやはり、ナチズム的美学だろう、極限まで肉体を鍛え上げ性的なナルシズムに浸り、最期には時代錯誤的な妄言で自らヒーローとなりその命を果てた。

原色の海
晩年になってついに彼女は念願の映画を完成させることになる。『Wonder Under Water-原色の海‐』である。これは前述したとおりの強硬手段によって製作されたもので、ここまでくるとリーフェンシュタールの行動力に脱帽せざるを得ない。この作品は前の二作や、『最後のヌバ』と違い、肉体表現は全く見られない。海底の珊瑚とそこに生息する魚たちを水中カメラによって捉えたもので、この作品の最終目標はつまるところ、「環境保護」 にある。ここまでくるとソンタグの剣も役に立たなくなるのだろうか。
現在開催中の愛知万博のテーマはこの映画と同じく「環境保護」であることをご存知だろうか?前の大阪万博は「未来」がテーマであったのに対し、なんとも現実志向に落ち着いたものである。前年に見る京都議定書をはじめとし、今「環境」は世界中から注目を浴びている。そもそも万博の旧態依然のやり方である国別に館を分ける方式はもはや限界に来ているといっていいだろう。海外旅行が解禁されて30年余、日本において海外旅行は別段めずらしいものではなくなった。わざわざ遠くて混雑する万博会場まで行ってみるほどのものでもないだろう。「未来」というテーマももはや食傷気味でテレビとパソコンさえあれば大体の情報を受け取ることができるだろう。というわけで時代遅れとなった万博は新しいテーマを探すことになった。前述したような「技術」によってあらゆることが可能になった今、その弊害である「環境破壊」を人類的危機としてそれを克服すべく「環境保護」をテーマにあげたのだろう。もう「環境保護」は政治的なテーマになってしまったといえるだろう。というわけでやはり21世紀は環境の時代になるのかもしれない。リーフェンシュタールはそれを先取りし、正確に提示したかたちになる。
話をさかのぼってみよう。彼女は戦前にヴェネツィア国際映画祭で数多くの賞を受賞しているが、実はこの映画祭は国際的美術展ヴェネツィアビエンナーレの映画部門としてあったものが独立した形で発足したのである(いまではビエンナーレのほうが知られていないが)。このよう国際美術展というのは確固たるテーマがあるわけではなく、時間的に「現在」をバッサリと切り、そこにあった美術家たちを集めてくるのである。このような展覧会は西洋中心主義にみる「西洋が一番」という絶対主義的評価を克服し、国際的な美術を収集しようという「文化相対主義」に基づいている。国際展はもっとも大規模な近代特有の相対評価型展覧会である。もし初期のヴェネツィア国際映画祭もそのような精神のもとに運営されていたとしたら、「《美》とは相対化に過ぎない」という新古典主義の結果に一致することになる。ところが、リーフェンシュタールが追っていたのはヒトラーのイデオロギーであり、《美》であった。しかも彼女の《美》は数十年間ほぼ変わらないソンタグのいう《ナチズム美学》であり、それはナチズムゆえに「絶対」であったはずである。ところがヴェネツィアは嫌というほど彼女に賞を与えている。これはやはり、ヴェネツィアも政治的に敗北していたというほかない。当時のイタリア総統はムッソリーニであり、当然といえば当然であるが。あるいはどの作品と比較しても彼女の《美》は優れていたのか。彼女の《美》の表現力は他の追随を全く許さなかったのか?
5月のはじめに六本木ヒルズ森美術館《秘すれば花‐東アジアの現代美術‐》を鑑賞してきた。そこのウー・ホン氏の解説文に《美》についての考察が書かれてあったので参考にしたい。ウー氏は《美》を「作家と鑑賞者が共有する概念のコミュニケーション」と設定し、《美》をなくせばそのコミュニケーションはなくなると書いている。もし彼女が表現する《美》が絶大なもので圧倒的なコミュニケーション力を誇るとするならば、それをみだらに扱うことは政治的であればあるほど危険である。彼女の持つ剣は危険すぎるのかもしれない。同じ、全体主義国家であった日本の文化人たちと比較すればわかるのだが、甘粕は多様を好み、丹下らは時代に応じて進化していった。

 「絶対化の極み」という極地が戦時中のベルリンにできていた。あらゆる諸芸術をナチスのもとに集合させ、《退廃芸術展》によってドイツから追い出した後、芸術はナチスのものになった。ナチ以前、多様を極めた芸術はとある一点を目指すように教育されたのである。その一点に到達した後、芸術はどうなるのか?それは芸術の完全なる完成であり、墓場でもある。そのなかでもリーフェンシュタールの《美》と表現力は群を抜いていた。彼女の芸術は完成されているがゆえに「芸術の墓場」に最も近いのである。リーフェンシュタールのような完璧な芸術家には丹下や甘粕のように「進化」は必要なかった。
その完成された作品は彼女が政治的に無知であったゆえに利用された。最後の作品『Wonder Under Water-原色の海‐』ですら例外ではない。「環境保護」という全人類の政治的目標を先行して掲げてしまったのだ。彼女は最後まで政治的であり続けた。しかもその「政治的テーマ」を最高の《美》でもって主張したのである。ソンタグの剣はいまだ有効であったというべきだろう。いや、それどころか的確ですらある。彼女の《美》はやはりファシズムである。ヒトラーのファシズムとは違う。「鑑賞者と作家のコミュニケーション」を最大限に利用した。ファッショネイティング・ファシズムなのである。

誰かが「無知は罪だ」といったのを私は知っている。もっと罪なのは彼女のような“無知な天才芸術家”だ。