「ねぇ、この花どう思う?」
夕方と夜の間。グラデーションのように薄暗くなっていく部屋の中。
無機質な画面を真っ直ぐその瞳に映しながら、香奈は静かに呟いた。
並んでソファに座っているために、表情は半分しか伺えない。差し出されたスマートフォンの画面を、亮はそっと覗き込む。
黄色い雌しべに白い花弁。正直に言ってしまえば、どこにでも咲いていそうな花だ。ただ、香奈がわざわざ聞いてきたということは、何か良い感想を期待しているのではないか。聡い頭脳を回転させ、綺麗だね、と伝えた。
「じゃあ、こっちは?」
その答えが合っているのか間違っているのかよく分からないまま、香奈は別の画像をタップする。一見同じ花だが、雌しべの周りを濃い桃色が囲っていた。
ちょっと、怖いかな。
思わず口に出してしまいそうになった。
一輪ならば美しいかもしれないけれど、濃い桃色の模様がいくつも重なっているせいか、どことなく気味が悪かった。
今まで花にこんな感情を持ったことはない。
ただ、綺麗だと思っている香奈が同意を求めてきていたとしたら、正直に伝えると傷付けてしまうかもしれないと思ったのだ。
「これも綺麗だね」
「……そっか。ちょっと印象変わるなって思って」
そう言い終えてから、香奈はローテーブルに置かれたティーカップを取って、コクリと一口飲み下した。揺らめく薄茶色の液体は、その細い喉を通って胃へ落ちていったのだろう。淹れてから時間の経ったそれは、決して温度を持たないはずなのに、香奈はまるで熱いものを体内へ送り届けたかのように、ほぅと息をつく。
原稿を捲ったアナウンサーは、どこかの地域の凶悪事件を読み上げる。自宅に押し入り強盗殺人。犯人は逃走中。背格好やおおよその年齢層、情報提供はこちらまで。
カップを持ったまま、香奈はじっと画面を見つめている。
「他の色もあるの?」
かちゃり。次のニュースに移ったタイミングで、ソーサーにカップを戻した香奈は、濃いピンクもあるよ、と言って、プツリとテレビの電源を落とした。コンマ数秒のラグもなく真っ暗になった画面には、色鮮やかな画像とは打って変わって、色のない亮と香奈が並んで映し出される。
「花言葉もちゃんとある」
画面に反射した香奈は変わらない笑顔を浮かべていて、思わず暗いそこから目を逸らした。何とも言えない感覚に、けれど何かがあって、何かが起きようとしているような。
移した視界に入ったローテーブルに置かれる、白いティーカップが二つ。部屋の薄暗さも相まって、それはどこまでも冷たく無機質に思われた。
もう一度。
構える必要もないのに、変に緊張しながら横目に見た香奈の笑顔は。やっぱり変わらず、まるで今無機物に抱いた感覚と同じものを抱いて。
「片想いとか、幸せそうなのとかよくあるじゃん」
人間味のない、無機質さを覚えて。
「でもこの花は、ちょっと特殊」
──そう思って。
奇妙な違和感が、背筋を走った。
「……そうなんだ、」
その問いとも言い切れない言葉に対して、応えようとした亮の声は、いやに掠れ切っていた。まるで意味を持つ前の音が、喉に張り付いたかのように、その半分以上が生み出される前に消え去って。
きっと、この答えを間違えてはいけない。
間違えたら何が起こるのかは分からないけれど、それが決して良いものではない、とおかしな事に確信を持てた。
けれど、何が正解で、何が不正解なのか、全くもって検討もつかない。聞いていいのか、ただ流せばいいのか、何かの答えを待っているのか、全て正解のようで全てが不正解に感じる。香奈からは決して一つの情報も与えられず、まるでゲーム内で主人公の選択を待っているNPCのよう。彼らはシナリオを進めるために、同じ表情、同じ言葉しか返さない。動かさない身体。何も語らない笑顔。
漏れる息さえも、聞こえない。
ただ、亮の応えを、待っている。
亮は無意識に、溜まった唾を飲み込んだ。
「ふふ」
それを反応と見做したのか、香奈は一寸の間も開けずに、なんてね、と戯けたように笑う。ガラリと雰囲気を変えて、なんでそんなに緊張してるの?と笑う香奈は、いつもとなんら変わりない。あまりにも兆候のない瞬時の切り替えに、ああなんだ気のせいだったのか、と思考を放棄した脳は結論付けて、亮はソファにぼふりともたれ掛かった。
NPCだなんてとんでもない。香奈は感情も意志も持った人間なのだ。無機質さなど、感じるわけがないのだ。
「なんでだろうね…」
「ごめんね、急に変な話」
「全然いいけど、香奈、花に興味あったっけ?」
「観葉植物ぐらいかな」
「そうだよね」
あっさり戻ってきたいつもの雰囲気に包まれたまま、亮は体勢を変えてごろりとソファに横になる。それに乗じてか、香奈は立ち上がって電気をつけに行った。薄暗闇に溶け込んだ香奈が、スイッチを切り替える音と共に、はっきりと輪郭を持って現れる。
亮は寝転がったまま、ぐいと伸びをした。広いソファーは足を伸ばしても余裕がある。
戻ってきた香奈は、ソファを背にカーペットの上に座り込んだ。その手にはいつの間に持ってきたのかアイスのバーが二本。そして片方を差し出した。
「はい、さっきのお詫び」
「いいのに、そんな」
「一緒に食べよう」
何か気を使わせてしまっただろうか。考えを巡らせるけれど、アイスに罪はない。そうこうしている間にも、凍った部屋から連れ出されたそれは、温度に対応できず体を溶かそうとしているのだ。
それ以上の熱を与えたくなくて、小さい木の棒の方を持とうとし、香奈の細い指に触れる。その綺麗な手は亮よりも小さくて、温もりが伝わってきた。
その後、くだらない会話をしていたら、少しだけアイスは溶け出していたらしく、包装を開けて取り出した途端、一滴が零れ落ちて慌てて口に咥える。いつになく柔らかい笑顔で、眉を一層下げて、楽しそうに笑う香奈が、亮の視界に映り込んだ。
「ギリギリだったねぇ」
ふわふわ、空気に送り出された言葉が、緩やかに溶け出していくような、そんな声で香奈は言う。溶けた語尾に残った余韻が脳に響いて、まるで中毒のようにぴりりと痺れた。
意味もなく右手を伸ばして柔らかい髪に触れ、されるがままの香奈の髪を弄び、くるり。人差し指に一束を巻きつけて。毛先が触れて、くすぐったそうにふふっと声を出す香奈に、亮はじんわりと、胸の奥が温まるのを感じる。
この感覚は初めてではない。
これが幸福というのだと、亮は何年も前から知っている。
暖色の光に包まれて、微笑む香奈と過ごす一日一日は、紛れようもなく幸ある瞬間だった。それは何物にも変え難いものであると、亮はもう幾度となく知らしめられている。
こんなに愛せる人なんて、きっと二度と現れないのだから。
どうか死ぬまで、そばにいさせてほしい。
そんな強欲な願いが、脳内の片隅にいつも巣食っている。時折存在を主張してくるその願いを、どうしても叶えたい。
信じてもいない神様に祈りながら、亮は二人分のゴミを捨てるために立ち上がった。
そうして過ごしたその翌日。
香奈は忽然と、姿を消した。
---------
「何言ってるの?」
意識制御外で零れ落ちた音は、思ったよりもかなり怒気の含んだ柄の悪いものだった。
無意識に開いた瞳孔が、目の前のか弱き人間を貫いて、彼は可哀想なほどびくりと肩を震わせる。
「で、ですから、香奈さんが──」
怯えを滲ませたまま、目の前の人間は再度同じ言葉を連ねた。
── 香奈さんが、行方不明なんです。
衝動的に湧き上がってきた猛烈な感情に晒されて、マネージャーは急いでその場を去っていった。すれ違いざまに勢いよく頭を下げたのは、彼の誠実さ故だろうか。しかし、そんなことにも気がつかないほど、亮は感情の波に飲み込まれていた。
(香奈が、いなくなった?)
驚愕、焦燥、恐怖、憤怒、空虚。
瞬く間に溢れ出した様々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、最早何が誰に対する何の感情なのかも分からない。制御のためのプログラミングが、根本から破壊されたかのように、抑えるだとかそういう次元を超えたそれらが、体の隅々までを支配する。
たったの一日未満。
昨日の夜、またねと言葉を交わした相手がいないだなんて。そんな馬鹿げた話があってたまるかと、何かに対する怒りが。
微かに残った制御下の機能が、昨日抱いて忘れ去った、得体の知れない恐怖を思い出させ。
漠然と、もういないのだ、という確信が心を空虚にする。
けれど、原型を留めないほどに混ざり合ってしまったそれらを、受け入れることなど到底できなくて。そんなわけはないと、希望的観測を真実だと思い込む。そうしていないと、どうにかなってしまいそうだった。
「……ぃえに、いるかも知れない……」
探さなければ。
こんなあってはならないことが、真実でないと証明するために。
一刻も早く、香奈の気配を掴み取りたかった。
---------
一人残されたオフィスの廊下を後にして、向かった先は昨日も訪れた場所。セキュリティに阻まれるエントランスも、合鍵があれば意味をなさない。付き合ってから何回目かの誕生日に、プレゼントと共に手渡された。
一歩二歩、進むにつれて駆け出しそうになる心と反比例して、重くなる足。まるで足を出す度、小さな錘をぶら下げられているかのようだ。許容範囲内の重さであれば大して気にならないのに、超過した瞬間、それは確かな質量で足を縛り付ける枷になる。
ようやく香奈のマンションの前に辿り着いた時、小さな錘は巨大な鉛の塊だった。
「あ、連絡」
取ってつけたような理由を思いつき、誰に言うでもなく呟く。さっきまでは糸で操られているのか、というほど自分の言うことを聞かなかった手が、するりと簡単にスマートフォンを取り出す。そんなことをしても意味はない、という脳内の野次は無視して、亮は手慣れた手つきでLINEを開き、香奈の名前をタップした。
最後の会話は香奈で終わっていた。
昨日、香奈の家に行く前に送った連絡に対する『わかった、気をつけてね』というお決まりの返事を見て、何とも言えない、強いて言葉にするならば「もったいない」という感情が芽生え、自身で驚く。「もったいない」とは何なのだろうか。別にもったいなくはないだろう、と心の中で呟きながら、今から家に行っていい?と文面で送る。既にマンションの前にいるのはまだ伏せておいて、驚かしてみようと画策しながら、自然と顔の緊張が解けていくのを、亮は感じていた。
送信してから一分、三分、五分。
十分。
十五分。
その解けた緊張は、秒針が右に進む度、じわりじわりとぶり返してくる。なんて早い掌返しかと、またこの奇妙な感覚を味わうくらいなら解けてくれるな、とひたすらに胸の中で呟くも、一向に既読はつかなかった。
「……寝てるのかな」
自分で投じた問いに対する肯定と否定と、後者の方が多くを占める脳内は、けれど必死に現実から目を背けようとする。
寝ていてスマートフォンを見ていないのだろう。
もしくは、たまたまスマホの充電が切れていて、たまたまパソコンが壊れて連絡できないとか。
そうでもなきゃ、いつも早めに返信を送ってくる香奈が、既読すらつけないことに説明がつかない。だからそう、きっとそうなのだ。
ロックを解除し、亮は逸る気持ちを抑え、香奈の部屋に向かう。
エレベーターを待っている間に電話をかけた。
これで気付いて。起きて。声を聞かせて。
「どうしたの?亮くん」って。「約束してたっけ?」って。何を言ってもいいから。不思議そうな顔でも、迷惑そうな顔でもなんでもいい。ほんの少しでも、髪の毛の先だけでも見せてくれればいいから。
だからお願い、会いたいんだ。
エレベーターに乗り込み、階のボタンに触れて、扉が閉まり。
誰もいないエレベーターは、振動音と発信音だけが響いていた。
軽快な音と共に開かれた扉を潜って、背後で今度は閉まっていくのを感じながら目的地の方へ。
辿り着いた香奈の部屋のドアノブに、小さな白い紙袋がかかっていた。
持ち手と持ち手は紐で括られていて、解かないと中身は見ることができない。
亮は意を決して、合鍵をシリンダーに差し込む。そのままそれを左に回せば、そこは意図も容易く開放される。紙袋を持ち、力を込めてドアノブを捻り、それを手前に引き寄せた。
「……入るね」
無駄だと分かっていても、微かな希望に懸けて、真っ暗な部屋に向かって声をかける。当然返ってくる声はなく、恐ろしく冷たい沈黙が応答した。
ごくり、唾を飲み込む。
一歩足を踏み入れ、もう片方の足も。
手という支えを失った扉が、物理法則に従って勝手に閉まった。
反応は、ない。
確実に、香奈はこの部屋にいない、と周囲全ての情報が亮を突き刺す中、亮は昨日並んで座ったソファに腰掛けた。対面する大きな画面は相変わらず、色の無い亮を映し出す。
部屋の中は亮が夜帰った時と全く同じままで、いかにもちょっとコンビニに出かけてます、といった生活感が滲み出ていた。けれど、そこに感じるのは、決して人間の温かさではなくて、不自然な気持ち悪さが見え隠れしている。
言うなれば、突然、強制的に時の流れをぶつ切りにしたかのような。切った前の一時点を、無理矢理繋ぎ止めているかのような、そういう気持ち悪さが肌に感じられる。
じわじわと体を支配しようとしてくるその気味悪さを振り払うように、亮は紙袋をローテーブルに置いて立ち上がった。向かうのは寝室。その次は仕事部屋か。
念のため、というか、本当に香奈がいないのかを自身の目で見て確かめないと、いつまで経っても微かな希望を捨て切れない。
「もしかしたら、寝てるのかもしれないし」
そうして無意識に大きな声で口に出したのは、その声に気付くのではないか、という捨てられない希望と、あるわけ無いと騒ぎ立てる、脳内のオーディエンスを黙らせるためだろうか。
寝室に向かって歩き出した亮は、不自然なほど頑なに、紙袋は視界に入れなかった。この行動が、紙袋の中身を見ることを逃避することだとは、亮とて当然分かっていた。
-------
案の定、悪い意味で予想を裏切らない結果を突きつけられて、亮はリビングに戻ってくる。
寝室は几帳面に整えられた、無人のベッドがあった。サイドテーブルには読みかけの文庫本。挟まれた栞の場所は、昨日亮が見た時よりも後ろになっていた。
仕事部屋は真っ暗なモニター、パソコンの画面が亮を迎える。起動するか試したところ、正常な動作を開始した。連絡がなかったのは、パソコンが壊れたからではない。
洗面所と風呂場は相変わらず綺麗に保たれていて、細々したものもきちんと整理されていた。唯一、ゴミ箱に少量のゴミがあって、少しほっとする。そんなところでしか、香奈が存在したことを感じられないことに、決して少しではない虚しさも感じたけれど。
そうやって全ての部屋を確認して。人が入れる大きさでない場所も全部開けて。
それでも求める人影はどこにもなかった。
この家の中に、香奈は存在しない。
他の何もかもがあるのに、香奈と。それから、二人で撮った写真だけがなくなっていた。
亮は再びソファに座る。目の前のテーブルに乗る紙袋が、早く開けろと叫んでいる気がして、ごくりと唾を飲み込む。もう手掛かりはそこにしかないと分かっているのに、これを開けてしまえばきっと、願望に塗れた虚像を抱くことすら許されないと知って、どうしても躊躇いが生まれる。ほんの少し手を伸ばせば届くそれを、手に取れなくて。ほんの少し力を加えれば解ける紐を、解けない。
ああ、だって、もう分かっているのだ。
その中身が何なのか、クイズを出されても正解は出せないけれど、その中身が亮のたった一つの願いを、地の底に叩き落とすものだと、もう、分かっている。
マネージャーだって合鍵は持っている。
彼はこの家を訪れ、そして誰もいないのを確認して、行方不明だと言ったのだ。
だから、開けられない。知りたくない。このまま知らずに生きて、もしかしたら、なんていう都合のいい妄想に取り憑かれていたい。
ぴろん、と。
突如電子音が鳴り響く。
亮は大袈裟なくらい肩を跳ねさせて、その音の根源が、ポケットに入れた自身のスマートフォンであると気付き、胸を撫で下ろした。
「びっ、くりした……」
どくどく。跳ねる心臓が体内で合奏を始めて、早い終幕を迎えるように、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。丁度良い理由を与えられたとばかりに、紙袋から視線を外し、亮は取り出したスマートフォンを見た。
『新着メッセージがあります』
見慣れた通知だ。
ロックのかかった精密機械が、情報の無駄な漏洩を防ぐために定められた、所謂定型文。ただ新しい連絡を伝えるだけのその通知が、何故か真実への誘いに思えるのは、きっとその相手が、かの人物であると直感で分かってしまったから。
指が震えた。顔認証で詳細が表示されてしまう前に、瞬時にスマートフォンを裏返して、たらりと頬を伝う冷や汗と、また五月蝿く鳴り出す鼓動の音。
「香奈だ」
見たくない。見なくてはいけない。香奈は今どこにいるんだろう。紙袋の中身は。なんで俺たちの写真だけ無いの。
香奈は、どこに。
ぴろん、ぴろん。
またもや鳴り出す電子音。
早く見てと、そう言われている気がした。
ちょっと待って、分かってるから。届かない心の切望を、音にならない吐息と共に吐き出して、亮は彫刻のように冷え切った指を、そっと握る。
「…コンビニ、とか。ちょっと散歩してたとか、そういう、感じじゃないかな。写真は、多分、飲み物か何か溢したりして、捨てちゃったとか」
唾が溜まる。なのに口が乾く。二人で撮った写真は、他のフォトフレームと一緒に棚の上に置いてあった。そんな事あるわけがない。だが何か理由を付けないと、写真まで無くなる意味が分からない。
静寂を切り裂く突然の機械音からまた無音になって、耐えられない感情が口を回らせる。指が震える。手が、腕が震える。スマートフォンを表に返した。瞬間、高性能な精密機械が怯えきった顔を認識し、手で触れることなくロックが解かれる。
通知は、やっぱり香奈からだった。
『午時葵』
『キスツス・アルビドゥス』
『の花言葉は』
「ゴジアオイ……キスツス…アルビドゥス?」
聞いたことのない名前。花言葉と言うのだから、きっとそれは花の名前なのだろう。
なんでクイズ?なんて場違いな気持ちは一切湧き出ない。
いっそ不可解なほどに明確な問いを投げかけられて、亮は昨日の会話を思い出す。
花の写真を二枚。前後を見比べてその差異は。
確実に違和感があったのに、別の話題に変わってしまった。
当たり障りのない、むしろ全く同じ回答をして、花言葉を聞かなかった亮を見て、香奈は何を思ったのだろう。違和感があるぐらい普段通りになった直後の香奈は、果たして本当に普段通りだったのか。
柔らかい髪の毛、甘く溶ける瞳、きゅっと握ってきた小さな手。いつもと同じで、いつもと違ったことなんていくらでも思いつく。薄暗い部屋。冷めた紅茶。貼り付けた笑顔。感じるはずのない無機質さを、生きた人間から感じた奇妙な感覚。
蘇ってきたその感覚に、亮は肌が粟立つのを見た。
調べてみて、ということだろう。
今の亮に選択肢などない。こうしてこの部屋に訪れている時点で最早、亮の前に差し出された道なんて一つしかないのだ。これ以上ないほどにヒントを与えられて、亮が何もせずに帰るわけがない、ということを。香奈は分かっている。
「……ねぇ、香奈。またねって、俺、言ったよね」
またねって、また明日って、また会おうねって、そう言った。昨日の夜、いつもなら玄関口で終わる見送りを、わざわざマンションの外まで出てきて、変わらないあの笑顔で、香奈はじゃあねと、そう言った。
「次」があることを、ちゃんと約束したつもりでいた。
スマートフォンをテーブルに置いて、代わりに白い紙袋を手に取って。紫色の紐をするりと解いて、亮は中の物を取り出した。
真っ白な花弁。昨日画像で見た小さな花。黄色い雌しべの周りに濃い桃色の模様。二枚目の、少し怖いと思ってしまった方だった。
一輪だけ、入っていた。
置いたスマートフォンを手に取って、検索サイトを立ち上げる。知らない名前を打ち込んで、最後に付けるは花言葉。自動で繋がるWi-Fiは相変わらずの速度を誇り、検索エンジンは瞬く間に解を示した。
「……ぇ、」
漏れた息と共に、カチリとボタンを押し込めば、画面はたちまち暗くなる。200gに満たないそれが、いやに重たく感じて、亮はスマートフォンをコトリとテーブルに置いた。消したはずの画面が網膜に焼き付き、水晶体を介さず神経を伝う。文字が消えない。手に持ったままの花と、昨日見せられた花と同じ写真に添えられた、たった九文字が消えない。
午時葵。
キスツス・アルビドゥス。
細い茎を持った指先が震えて、五分の一の花弁がハラリと、その身を投げ出した。
ふわり、ふわり。舞うように、踊るように、空を切って。
そっと降り立った液晶面。ぴろん。三度目の音と共に画面が光る。
目はそらせない。
四枚になった花を持って、亮はその文字を見た。
キスツス・アルビドゥスの、花言葉は。
──『私は明日死ぬだろう』
昨日、意味を聞いていたら。
独りでは寂しくて、写真を持って行ったのだとしたら。
ばいばい、なんて言う言葉が。
どこか遠くから、聞こえた気がした。