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禍棗災梨の記

趣味の世界から現今の様々な問題まで・・・気の向くままに書いてみたいと思います。
このブログに彷徨い込んだみなさまに、感謝します (^^)。

 

酷暑で毎日家にこもっている。

 

きのう(8/30)、NHKの「ブラタモリ」の放送があり、今回の舞台は、東大の安田講堂だった。

それでふっと東大紛争の頃を思い出した。

 

 

東大紛争については、下記のページへ

https://www.asahi.com/special/sengo/visual/page41.htm

 

 

『いわゆる70年安保紛争の一環で、機動隊を導入しようとした大学当局に対する反発から、東大のみならず全国の学生が参加して、ついには安田講堂を占拠した。


昭和44年(19691)月18日、警察機動隊が入って、構内の建物を占拠していた学生を排除し、19日には安田講堂に突入。強力な放水や催涙液を投下するなどして学生の排除を目指した。

学生側は火炎瓶や投石で抵抗したが、夕方にはすべて拘束された』。

 

 

 

当時のことを思い出すと:

 

私は大学の2年生だったかな。在学中は、全共闘を中心とした学生運動の最盛期で、私自身はいわゆるノンポリとして、ぐうたらな4年間を過ごしていた。

1968年から1969年にかけて、東大では全面的に全共闘の学生が占拠し、安田講堂がその象徴だった。東大の山本義隆、日大の秋田明大などリーダーがよく報道されていて、ノンポリの間でも人気の存在だった記憶がある。

いわゆる機動隊との間で行われた安田講堂の攻防戦は、1969年の1月で、私はその2カ月ほど前、当時の安田講堂に入ったことがある。

この話はいままで50数年、人に話したことがない。家内に2,3度話したきりの全く個人的な出来事なのだが、この年になって、あの頃の時代の風景や友人たちを思い出し、書くことにした。

大きな記憶違いはないと思うが、細部はご容赦を。

 

安田講堂にこもっていた友人から、さらに友人を介して、一度会いたいと連絡があり、

ある日東大を訪れた。たいして厄介こともなく安田講堂まで行けて、入り口で友人の名前や学部などを話し、自分の身分を説明したら、すんなり入ることができた。

きっと、多くの人は、そんなに簡単に入れたの?、と思うかも知れないが、事実としては何もトラブルも厳しい詰問もなく簡単に友人に会えた。

 

中は、講堂も周囲の階段やあちこちがひどい損壊状態だったように記憶しているが、いまはおぼろげな記憶のまま。

私は、高校時代から写真が趣味だったので、カメラを持っていて内部では自由に、撮影ができた。フィルム1本くらいは撮ったはずだ。当時は1本のフィルムだって、貧乏学生には大切だった。

 

友人は、特に用があったわけではなく、きままなノンポリ学生で仲の良かった私に会って、以前のような時間を過ごしたかったようだ。

その後、らせん階段を上がりあの講堂の屋上まで行った。屋上では数人の学生が赤ヘルと手拭い姿で、角材をもって談笑していた。

私もしばらく仲間に加わって話をした記憶があるが、何を話したのやら。ともかく当時は学生運動と言っても、実相は素直な若者たちの運動に過ぎなかったのだ。

 

考えてみれば、彼ら全共闘は何も武器らしい武器を持たず、最期の攻防で手製の火炎瓶程度を投げただけだ。武器と言えるかどうか、・・・彼らはいつも角材を持って、デモをし、警察に対抗・抵抗してきたのだ。

海外なら準備したであろう銃器類を持ってはいない「穏やかな」集団だったのだ。

 

友人は拘束され、逮捕され、結局出身地の金融機関に就職し、無事定年を迎えたと聞いている。

 

現在世界各地で起こっている様々な紛争のありようから見たら、なんとも非暴力で穏かで平和的

で“日本的”な紛争だったことか。

 

あの時、撮った写真が、今はない。実は、ネガフィルムごと、新聞部の知人から貸してくれ

と頼まれて、渡したきり戻ってこなかったのだ。

 

未だに、あのフィルムがあれば、写真があればと、残念な思いが残ったままだ。